第四章 道徳に関する文学的観念

 通俗常識では極めて漫然と、倫理学では不変不動な超越的な一つの永久世界として、社会科学では発生変化消滅せねばならぬ一イデオロギーとして、取り扱われた道徳は、結局、道徳という一つの何等か特定な領域[#「領域」に傍点]を意味するのであった。この地域は道徳であり、その外の地域は道徳にぞくさない、という風に考えられた処の道徳であった。その点から云って、社会科学=史的唯物論が、道徳に関するブルジョア卑俗常識(倫理学というアカデミックでペダンティックな名を持ってはいても)を、根柢から批判克服し去ったに拘らず、この社会科学的道徳観念自身も亦、なお依然として通俗常識のものだと云わねばならぬ。
 尤も私はこの道徳に関する史的唯物論の理論が、間違っているとか、不完全であるとか云うのではない。通俗常識そのものやブルジョア倫理学は、倫理に関する常識としても理論としても、極めて不充分なもので、そして間違ったものだと私は思うのだが、史的唯物論による道徳観念・道徳理論は、実はそのままでの真理だと云って少しも差閊えはない。なぜなら、つまりこの社会科学的な道徳観念によると、一領域としての道徳の世界[#「一領域としての道徳の世界」に傍点]なるものは、終焉せしめられる筈だったからだ。にも拘らず之はなお、領域道徳という通俗常識をば、想定し仮定し利用している。だからまだ之は通俗常識のものだと云うのである。
 処がこうした領域道徳の観念だけが、実は真の常識[#「常識」に傍点]による道徳観念の凡てではない。一体極めて通俗な常識は、とかく何かと云うと、道徳というものに就いて拘泥する、事物を道徳的に角立てたがる。審美的判断よりも所謂道徳的判断の方が、下し易いし興味も多い。つまり通俗常識とは通俗道徳で物を考えたり云ったり生活したりすることだろう。――だが少し教養のある常識(教養は必ずしも教育と同じではない)は、道徳というものをもっと自由に[#「自由に」に傍点]理解しているのが、世間の事実だ。既成の所与の所謂道徳などに拘泥しないことこそ、或いはそういう拘泥を脱却するだけの見識を持つことこそ、道徳的だ、とこの常識は考えるだろう。道徳々々と云うことが道徳ではない、丁度人格者というものの人格程貧困なものはないように、とも考えられる。道徳は、所謂道徳という名がつきレッテルがはられ看板が掲げられてある処にばかりあるのではない、ということになる。丁度自称の良心は却って決して良心的ではないだろうし、俺は偉いと称する人間は必ず馬鹿であるというようなものだ。処が馬鹿な人間ほど、俺は偉いと自ら称する人間を本当に偉いと思い込むものだ。
 で、之こそ道徳だとみずから名乗り出るものは、実は道徳としてあまり尊重すべきものではなく、却って所謂道徳という領域には普通属していないものに、道徳の実質があるとも考えられる。之は私が道徳という言葉をそう勝手に拡大して使おうと欲しているわけではないので、事実、少し気の利いた常識のある常識は、道徳を今云ったようにしか見ていないのだ。例えばこの常識は勝れた歴史叙述の中に道徳[#「道徳」に傍点]を見る(その極端なものは「春秋」や「通鑑」の類だろう)。又例えば衣装さえが道徳を象徴する(カーライルの『サーター・レザータス』を見よ。――或る批評家はこの衣裳哲学の著者の極めて不道徳にも古びた帽子を見て、彼が衣裳に就いて哲学を語る資格を有たないことを主張した)。併し何より知られているのは、芸術作品に於ける、特に直接には文芸作品に於ける、道徳というものだろう。それが仮に芸術のための芸術であり、又純粋文学であるにしても、それだけにそれが表わすモラル[#「モラル」に傍点]は、却って純粋だとも云えるのだ。所謂道徳なるものを目指していなければいない程、そのモラルは純粋になりリアリティーを有ったものとなる。道徳の否定そのものが、又優れた道徳だ(多少文学的とも云うべき哲学者、ニーチェやシュティルナーなどを見よ)。そしてこういう文学は、よい常識・良識ならば、実は苦もなく夫を理解出来る処のものだ。そういう大衆性[#「大衆性」に傍点]を有たない純粋文学は、そのモラルが偉大でないからこそ、ケチ臭ければこそ、非大衆的なのだ。
 だから常識のある常識は、世間の道徳や人格商売屋や倫理学者達などが道徳を感じない処にこそ、却って自由な生きた濶達な道徳を発見するのだというのが事実である。殆んどあるゆる文化領域・社会領域に即して、道徳が見出される。だからこの道徳は、もはや単なる一領域の主人を意味するのではないことが判るのだ。
 こうした広範な含蓄ある道徳の観念は、これまで色々の名称で呼ばれて来ている。文化的な自由[#「自由」に傍点]が(自由は経済的・政治的・文化的・等々に区別されるだろう―
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