科学も、往々実はここの科学のための科学にぞくする。例えば最近の科学者伝文学や科学者伝映画の多くは科学を技術へ持って行く代りにヒューマニズムへ持って行く。或いは技術を通らずに文化へ持って行く。この傾きも亦、文化的に相当誘惑的なものだ。
前者は一種の卑近な功利主義、一種の上つらの実行主義の誘惑である。之に対して後者は、一種軽薄な文化主義の誘惑である。科学の足を持って技術の地面につける代りに科学の髪の毛をつかんで天上のヒューマニティーや文化なるものへ引き上げて了うという意味で、軽薄なのである。併し二つは同じ源に発している。
この二派の対立を調停するには、科学、技術交互作用論を以てするか、鶏、卵・論を以てするか、又は水かけ論説を以てするかしかあるまい。即ち科学と技術との発達には決った先後の関係はないので、具体的には両者の交互作用があるだけだ、とする、物わかりの好すぎた俗論が第一、鶏と卵とはどっちが先かあてて見ろという逆説が第二。両方とも同じ権利で相反した主張を強調出来るという見物人意識が第三。つまりこの解決は行きづまりに来たということである。
さてこの行きづまりの原因はどこにあるか。それ
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