は、科学の目標を、従来の公認常識に従って、認識[#「認識」に傍点]にあるとしながら、他方之を技術という生産[#「生産」に傍点]の過程に結びつけようとするために、勢い、科学を外部から取り扱わなければならなくなり、従って前述の事情によって、科学を手段的に取り扱わざるを得なくなった、そのためである。認識というカテゴリーと、生産というカテゴリーとは、不覚にも、旧来の論理学では連絡がついていなかった。わずかに人間学其の他というような狭い盆地で、ホモ・サピエンスとホモ・ファーベルとが並べられた程度にすぎない。
 技術が生産(第一義には物的生産のことである)を目標とすることを疑うのは、まず不必要だし又不可能であろう。技術を外部から何かの手段と考えればその目的は何とでも云える、人類を解放するのも又人類を無能にするのも(実際人間は羅針盤やバスのために伝書鳩や犬よりも無能である)、技術の目的と云えよう。しかしそういう目的論ではなくてそれ自身の内部的目標が今問題だ。技術というカテゴリー[#「カテゴリー」に傍点]が問題なのだ。すると技術の目標が生産にあることは、当然すぎることである。
 併し同様の意味に於て、
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング