というのであった。
 尤も、科学が自分自身の原因のようなもので発達するという考え方の側からすれば、要するに科学を考えるためには技術はつけたりの問題にすぎなくなる筈だから、右のような問題を提出しようとする側は、すでに、科学の発達は技術などの発達に俟つという方の解答を要求していたわけだ。処がそこにまた相変らずの疑問が潜んでいる。
 と云うのは、この解答を予想しながらかの設問を提起した側の科学史家が、最も誘惑を感じるのは、何となく科学を技術の手段のように見ようという態度である。科学の目的は認識であり、そして認識は実践と統一されているという。それは正にその通りでいい。しかしこの両者の統一なるものを十分根本的に分解するだけの論理機関が整備されていない処から、往々科学は実践の一手段[#「手段」に傍点]のようにも考えられ。やがて科学は技術への手段であるという風に考えられて来易いのである。この傾向は相当に誘惑的なのである。
 こうした、云わば、技術のための科学は、忽ちその対立物として時にはそれへの反感の結晶として各種の、科学のための科学、を産み出す。ヒューマニズムという便利な足場を利用した人性のための
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