摘される彼の方法の制限だろう。理論的モラルが心理を通り倫理を通り性格を通り風俗にまで形を現わすということが、恐らく唯物論に立つロマンの理想だろう。
 理論的モラルと風俗との融合にかなり成功したのは湯浅克衛「移民」(『改造』三六年七月)だろうと思う。同月の小説の内で読んで時間を損じないのはこの小説かも知れない。移民の一日本人が朝鮮人と階級的に同一の生活感情を持つことが呑みこめると共に、朝鮮貴人風の葬式を出してもらうというのが風俗上面白い。葉山嘉樹の「濁流」(『中央公論』同月)は問題を主人公の性格に還元してしまうところを度外視すれば、やはりこの部類の面白さ即ち重風俗文学の面白さを持っている。一般にロマンの面白さが物語り(説話)にあるとするなら、短篇小説としてのロマンの面白さはモラルの風俗的顕現にあるように思われる。短篇では物語りは無理なのだから。最近ロマンの本質が評論家の問題になっているが、今いった面白さは将来社会においても止揚されて伝承される処であるかも知れない。
『文学評論』(三六年七月)の「馬鹿野郎」(志木守豪)は少し安手だが珍しい風刺小説である。私は馬鹿[#「馬鹿」に傍点]という言葉をここから哲学的術語に仕立てることが出来ると思う。「模範青年」(和田勝一――『文学案内』同月)も風刺劇であるが(小説に直したって大して困らないことは今日の大抵の戯曲の特色だ)、尻切れトンボだ。模範青年は無論馬鹿野郎である。――憎悪も一つのモラルだ、ところで、それが社会機構の認識を透過して風俗にまで現われる時、時代的風刺作品(性格的風刺作品とは異る)となるのである。――なお「雪の記録」(沙和宋一)(『文学評論』)と芹沢光治良「石もて誰を打つべき」(『文芸春秋』)とは、衆議院選挙を取扱っているが、無論時事的文学ではなくて、重風俗文学にぞくしている。
 かくて文学におけるモラルは時事物から初めて軽重風俗物から所謂「モラル」物にまで一貫しているのである。――最後に風俗の問題から見て特別の興味のあるのは、歴史文学の件だがそれは別の機会にしよう。
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 4 文学・モラル及び風俗

   一[#「一」はゴシック体]

 モラルなるものは何と云っても最近の文壇の大きな問題である。それは流行っている。流行っているばかりでなく、同時に割合その流行が永続きしている。こういう現象は文壇では可なり珍しいことのようだ。これは単に文壇の問題ではない、文学そのものの問題だ、いや文学だけの問題ではない、広く思想・文化・社会生活そのものの根本問題だ。
 だがそれにしては、モラル問題はその割に一向真正面から論究されていないというような気がしてならない。この頃の文芸時評や作品批評や文芸座談会では大抵この関心にどこかで触れている。だがモラルとは何であるかに就いて、モラルという言葉の振りまわし以外に、何等常識以上のものがないようだ。一つ二つその場限りの鋭い観察も、線香花火のようにひらめくだけで、殆んど理論的な蓄積を齎してはいない。
 これは文芸の世界に於てばかりではなく、哲学の領域に於ても大して変りがない。変りがないどころではなく、哲学の世界などではモラルというものの問題が今日有っている意味に就いて、一般には殆んど何の感覚も持っていないらしい。モラルや道徳は倫理学か道徳学の課題だと考えているらしい。そうなると之は古い寝ぼけた題材にしか過ぎないというわけだ。哲学は独りモラルに就いてとは限らぬが、時代が見出した根本観念をば、理論的カテゴリーとして使用に耐えるように仕上げることを、何より大事な役目とする筈なのに。
 今日の文学は社会の要求から見て、何と云っても独りよがりのそしりを免れない。特に評論的作品ではそれが眼にあまる。文壇的方言があまりにも整理されていないのだ。そこへ持って来て哲学の方も亦途方もなく太平楽だ。特に理論的に多少コクのありそうな哲学になればなるほどそうだ。この二つのものの間には組織的な連繋が存しない。偶々あれば思いつきや譬喩のような形のものしかない。こうした事情は主にフランス系と云っていい今日の代表的なブルジョア文学理論と、主にドイツ系と云ってよい日本のブルジョア哲学との間に、著しいのである。
 云うまでもなく文学と哲学との原則的な連絡を置き得たのは、日本でもマルクス主義乃至唯物論である。処が之は観点を、世界観と方法との連関という統一的な三角点にまで進めたに拘らず、まだモラルについての体系的なカテゴリーを決定する処にまで行っていなかった。そのくせひそかに、モラルに就いて考えたり云ったりするようになって来ていたのだが、夫がまだ理論の水準にまで達していないのである。――だからいずれにしてもモラルなるものは、理論的には抛りぱなしにされていたのである。処がそれにも拘らずモラルこそは最近の時代が気にし出し、そして決定を急いでいるカテゴリーなのだ。
 だがこういうことは予め見逃してはならぬ。モラルという言葉で文芸意識や評論が運ばれるようになったのも、実は、単に文芸作品そのものがモラルの分量を殖やしたとかそれを意識的にやり出したとかいう理由からではなくて、文芸意識が全体として(ブルジョア文学さえも)その評論的な触手(アンテナ)をば延ばし始めたということに原因しているのである。文芸が評論的触手を延ばせば、モラルの観念は当然第一級の問題とならねばならぬからだ。
 そしてブルジョア文学(プロレタリア的文学に就いては勿論)のこの評論的触手――文学の思想性[#「思想性」に傍点]とか社会性[#「社会性」に傍点]とか論理[#「論理」に傍点]とか――を或る意味で用意したものは、正に曾ての「プロレタリア文学」とその或る意味での転向[#「転向」に傍点]又転向化[#「転向化」に傍点]とであった。プロレタリア文学の転向(?)によって却てブルジョア文学も亦初めて自分側の思想性・社会性・論理性を誘発された。之が所謂「モラル」の声である。
 だから云わば、このモラルの声の裏に、「プロレタリア文学」とブルジョア文学とが、一応共通な掛声を聞いたのである。だからこそ例えば「文学界」式又「独立作家クラブ」(自由主義作家加入説派をとるとして)式な、混淆の形態も、そこに生じ得たわけである。

   二[#「二」はゴシック体]

 モラルの人気は、左翼文学とブルジョア文学との割合抽象的な一致点が夫だ、という処から発生している。そういう限り、と云うのはこの抽象的な一致点としてのモラルを具体的に選鉱し精錬しないでおく限り、モラルは一種の転向的モチーフになっていることを見落してはならぬ。事実モラルは日本では札つきのブルジョア文芸評論の用語として使われ始めた。
 尤もフランスの人道主義的コンミュニスト達の用語としては必ずしもそうではなかったのだが、併しフランス哲学文芸の伝統としてのモラリスト[#「モラリスト」に傍点]達は(モンテーニュから始まる――モンテーニュは関根秀雄教官のおかげで松本学議員から賞金を拝受した)、多くは時代々々の勤労大衆とは縁のない連中ばかりであった。多くの者は暇であり、気むずかしく、そして寛大であったり辛辣であったりした。
 モンテーニュの『エッセイ』はベーコンの『エッセイ』に影響を与えたと云われている。だがその影響は少しも内面的なものではない。それから又、もしシェークスピアがモンテーニュから影響されたとしても、思想史はシェークスピアをモラリストとは呼ぶまい。それ程モラリストという規定は制限されたものなのだ。処がモラルは、このモラリストからの伝統を参照しないでは歴史的に理解出来ない用語である筈なのである。
 だが一つの言葉を広く深い生きた意味に使おうとするのに、文学史の先生のように昔からの腐れ縁に執着することは無論馬鹿げたことだ。今日の「モラル」という言葉は確かにもっと自由に新鮮なイメージを伴って使われているだろう。処がそれにも拘らず何となくそれが又「モラリスト」臭く「エッセイスト」臭いのだ。往々、モラルとは心理のことであり、又人間学的なもののことだと考えられているのである(内部的人間学[#「内部的人間学」に傍点]はモラリストの一理論体系だ)。
 もしそうだとすると、文学のモラルと云えば、心理主義に於ける倫理のようなものになったり、内省的なヒューマニズム文学のことになったり、し兼ねない。或いは世界が何かモラルというもので出来ているかのようなモラリズム文学のことにもなり兼ねない。だからもしモラルを性的な本質のものだとすれば、汎セクシュアリズムともいうべきものになる(之は今日日本で流行っている)。――人生は生産機構から解明される代りに、性衝動から説明されたり、人間性の展開とされたり、身辺心理の短篇集になったりする。之ではモラルは人生のうわ澄み[#「うわ澄み」に傍点]みたいなものに過ぎなくなる。事実モラルという文学用語は直接そういうものを思わせるに充分だ。
 なぜ文学者が道徳[#「道徳」に傍点]と呼ばずにモラルと呼ぶか、それは宿屋とホテルとの相違に類することでもあるが、併しそれだけではなく、右に云ったようなうわ澄み主義[#「うわ澄み主義」に傍点]がブルジョア文学の身上であることを告白するためだ。なるほど道徳(倫理はまだしも)という日本語で呼ぶと、「道徳」に自信のある連中が忽ち声を聞いて集って来る。その顔触れを見ると、道学者や倫理先生やその手先達だ。而もその手先には案外文学探究者や自称「悪党」さえいるのだが、これはたまらない。そこでモラルということになるのだが、併しモラルと呼ぶと今度は文学至上主義者ばかりが集って来る。そしてその内には案外社会認識に於ける常識屋が多数を占めているのだ。そして夫がみずからは文学的な「非常識」屋だというのだ。
 ショーロホフの『開かれた処女地』には、共同農場に於ける小家畜(禽)共有の失敗が詳しく描写されている。勿論之は家畜の話しではなくて主人公の人間的経験の話しである。処がこの間発表されたソヴェート連邦の改正憲法草案には、この小家畜(禽)共有の廃止が、そっくりそのまま出ているので、私は今更この作家の社会主義的リアリティーに感心したのだが、こういう内容[#「内容」に傍点]を生かすものをこそモラルとか道徳とか呼ぶのでなければ、私は到底こうした言葉を信任する気にならないのである。
 私が岡邦雄氏と連名で書いた『道徳論』は、モラル乃至道徳という観念をどういうものとして捉えれば、吾々は道徳先生と文学青年との宿命を免れ得るかということを、少し研究して見たわけだった。

   三[#「三」はゴシック体]

 モラルというのは勿論道徳[#「道徳」に傍点]ということで、別に専門的な(?)術語や何かではない。言葉のフェティシズムに陥らないために、以下道徳という俗間用語でおきかえよう。
 さてこの道徳だが、今日の文学で道徳がやかましくいわれるというのは、すでに云ったように、必ずしも文学作品(小説や評論)の中に道徳が沢山出て来るとか来ないとかいうこととは関係がないのである。そうした題材の上での種類別や、又ジャンルやスタイル乃至世界観の上でさえの種類別以前に、文学と道徳との本来的な関係があるのである。
 私は文学を実在認識[#「認識」に傍点]の一つの様式とする考えを固執するものだ。と云うのは文学は科学と同じく実在反映の一つの様式以外の何ものでもない、又あってはならない、という持論なのだが、この考え方から行けば文学の根本問題はいつも認識上[#「認識上」に傍点]の論理上[#「論理上」に傍点]の問題に他ならない。「道徳」なるものも文学的認識・文学の論理・の観点から之を規定することによって、初めて理論的にハッキリする筈だと考える。
 文学が一つの認識様式であるとか、実在の反映様式の一つであるとか、又それの認識論や論理学めいたものを考えようとか、いうのは、日本に於ける或種の文学専門家のブルジョア文化的通俗観念から云えば、あまり常識的な意見ではないかも知れないが、唯物論に於ける文学理論にとっては殆んど全く常識的
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