作者はルネ・ジュグレで原名は「昇る朝日」らしい。二・二六の事件直前に二・二六事件まがいの物語りを書いたので、予言が当ったといって騒がれているのだそうだ。芸術的に感心出来るようなところは殆どないといっていいが、一二カ処、兵士の卒直な実感が出ているのも、作家がフランス人であって日本人でないからに過ぎぬ。所謂青年将校達の政治的見解に対する作家としての批判などは殆んどないので、これは単に革新主義の提燈持ちにさえなるだろう。
筋は主人公と白系ロシア人の女スパイとの情的関係に沿って運ばれていて、白系ロシア人がロシア人という同じ民族だという理由で、にくむべきボルシェヴィーキに通謀するというのが、少し変でもあるが又面白い。面白いというのは、何しろ国際スパイでは今日の日本は夢中になっているところだからだ。これが少し脱線すると、第二インタと第三インタが提携したのが怪しからんといって、ヨーロッパ人の蒙を啓いてやると豪語する日本外交当局である。有名な自由主義者御手洗辰雄氏によると、日本は国際スパイがウヨウヨしているから、国民総動員秘密保護法案は絶対に必要だという(三六年七月『文芸春秋』)。――「日出づる国」というのはつまり「昇る旭」だ。訳者小松清の労は多とせねばならず、又読まないより読んだ方がいいのだけれども、時事的な文芸作品としては、買うことが出来ない。なぜなら、その社会的認識の凡庸さが美的印象を濁らせるからだ。
私はこの間コクトーのラジオ放送を堀口大学訳によって聞いたが、日本人はその美しいキモノをなぜ洋服に見かえたかなどといって彼が不満がっているのを聞いて(尤もこれは彼の単なる無責任なお座狎れだったかも知れないがそれなら又別な意味で問題だ)、もうこの芸術家を芸術家として信用する気になれなくなった。私の判断は仮に知識が不充分なため間違っているにしても、信用出来ない気持になったこと自体が今意味があるのだ。「日出づる国」の場合もコクトーの場合と同じである。
しかし文芸時評の眼が、もっと深いところへまで透過しなければならないのはいうまでもない。社会的時事的なテーマを持った作品ばかりが、この新動向としての文芸時評の相手でないのは、当然至極である。丁度二・二六事件や戒厳令ばかりが社会的時事ではなくて、流行歌謡でも女のメーキャップでも社会的時事であるようなものだ。どれもが風俗に属している。いわば重風俗[#「重風俗」に傍点]と軽風俗[#「軽風俗」に傍点]というような区別であろう。文芸時評(それは社会的時評でもあり論壇時評でもある筈だったが)は、この軽風俗的な文学作品の内にも、社会性を、思想性を、論理を又モラルを、見ねばならず、又見出さねばならぬわけだ。
だがしかし、軽風俗文学にもピンからキリまである。そしてどうしても前述の意味での文芸時評では文芸時評に値いしないような「風俗文学」があるのだ。つまりそういう文学はこの文芸時評からは、先天的に否定されねばならないのだ。しかもそういう作品は実に少なくないのである。
三 退屈権[#この行はゴシック体]
軽風俗と重風俗というような変な区別をして見たが、いずれにしても一種のモラルにぞくしている。モラルというと何か物々しいのだが、実はモラルという代りに道徳という日本語で結構なのである。道徳というのが別に道徳律や修身の徳目を意味する必要のないように、モラルといっても必ずしもいわゆる心理[#「心理」に傍点]に限る必要はない。寧ろモラル乃至道徳は行動の実際的論理、行動の人間的メカニズム、といったようなものだ。一身上の肉となった思想の姿や世界観の形だ。
だからこそモラルは風俗となって現われ得る訳で、しかも市井身辺の風俗ともなって現われ得るのである。夫が軽風俗といったものである。事実風俗はいつも道徳的なものだ。服装や趣味はいわばその人間の人となりを示すだろう。風体は彼の人物をいい表わす。風俗壊乱は道徳破壊の最も日常的なものだ。
風俗そのものはこのように道徳的な徴候をもっているのに、風俗を描いた文学の方が一向モラルを持たない場合があるという現象は、これは何としたものだろうか。重ねていうがモラルとはただの心理のことではない、むしろ行動のシステムのことだ。それによって読者の生活意識がひきしめられたり駆り立てられたり整頓されたりするその機構のことだ。ところがそうしたモラルを殆ど全く持たないような作品が、立派に雑誌には載っている。例えば『中央公論』(三六年七月)にのった「青葉木菟」(万太郎)とか「老ぼれ」(白鳥)とか「山女魚」(滝井)とか、の類を思い起こせば事は足りるだろう。
無論この内から故意にモラルを導き出そうとすれば、それは読者の勝手によって、常に可能なことだ。如何なるセンチメントもモラルの溶液をたたえてはいよう。だがそんな手間をかけるくらいならば、私はジカに自然か街頭に接触した方がよいので、何もわざわざ本を買って小説を読む義務も必要もない筈だ。風俗の描写[#「描写」に傍点]は現実の風俗よりもモラルの濃度が高い筈で、その濃度さえ高ければ鑑賞に無理な故意などは無用な筈だ。専門の作家にとっては色々の職業的教訓は含まれているかも知れない。谷崎潤一郎の猫の咄などは、確かに奇術的リアリティーがあって芸談には値いしよう。――だが一体読者は、人間の思想を殆んど眼に見えては促進しないような、或いは促進の条件を与えてくれないような、作品に対して、一々敬意を払う代りに、断固として退屈するだけの権利を持たないものだろうか。
私は何等かの所謂「イデオロギー」に照し合わせてとや角いっているのではない。私という一人のごく平凡な読者が喜べるか喜べないかをいっているのだ。そしてその際私よりもすぐれた非凡な読者ならば喜べるだろうというような推定も出来兼ねるというのである。もし私が誤っているなら、恐らくそこには何か約束[#「約束」に傍点]みたいなものが横たわっているのだろう。この約束は恐らく人間的教養や官能的な訓練とは無関係な約束ごとだろう。事実問題として私は、この種の無道徳的軽風俗文学に本能的に我慢がならぬ。それが私のイデオロギーだというならいってもいいのだ。
四 人民派と人民戦線[#この行はゴシック体]
仮に武田麟太郎と室生犀星との間に、もし共通点があるとすれば、それはいずれも軽風俗の文学だという処だろう。室生犀星には思想がクッキリと形を取っている、と或る作家が云ったのを覚えているが、「生面」(『文芸』三六年七月)などどうもそうでもないらしい。けれども、しかし何か「モラルの素」とでもいうようなものをひそかに見せてはくれる。矢田津世子「やどかり」(『改造』四月)などもこのカテゴリーにはいる部類だろう。こうした軽風俗のモラリティー、市井のいわば「人民」的モラル、を立場にした作品は今は一つの勢力であるように見受けられる。
人民派的な軽風俗文学のモラルに就ては、方々で議論されている。それは色々な形においてだ。まず第一に中島健蔵風のニヒリズムによれば、あるべきものの文学とかくあるものの文学とに区別されそうだ。例えば島木健作は前者で高見順などが後者だという。後者が今の場合に相当するだろうことは推定してよいだろう。第二にこれは描写の問題として説話体の議論に関係している。軽風俗を市井的モラルの立場から描こうとすれば、懇談的なこの説話体を選ばざるを得なくなる、というようなことも云われている。それから第三にこれは優等生文学と落第生文学というような妙な区別とも関係があるらしい。島木は優等生で平林彪吾は落第生だというのだ。軽風俗文学は落第生文学になるわけだ。妙な比較だが、漱石や小林多喜二は優等生だ。藤村も山本有三もだ。これによると、軽風俗の文学にモラルがあるとしたら、それは理想にではなくて現実自身にあるということになりそうだ。そしてこの理想の側に、思想からイデオロギーから論理からモラルから形象化までもが、押し込まれてしまうらしい。かくて文学は「かくあるもの」のひたすらな描写ということになる。「かくある」ものの楽しさ美しさ真実さの発見、これ以外に作品のモラルもリアリティーもない、ということにもなりそうだ。――併しこれは単にリアリズムのテーゼを反覆するものでしかない。処がこういう結論は例の軽風俗文学の場合から出て来た。それで人民派的文学こそ本当の文学だということになってしまいそうだ。
森山啓は「何のための芸術か」(『中央公論』三六年六月)で、人間も地球も一旦は亡びてしまうというのに、進歩のためとかプロレタリアのためとかの芸術というのはおかしいではないか、現実の事象に一つ一つ喜びを見出すことこそ芸術の目的だろう、という意味のことを書いたが、これに対して中島(健蔵)や阿部知二等が、大体同情の意を現わしているし、彼自身また一二の雑誌でこれを敷衍している。右に述べた処と森山のこの哲学とは、処で密接な関係があるといわざるを得ない。
だが芸術が人類の進歩やプロレタリアの利益のためではなくて、それに代ってよろこばしさや真実のためだ、といったように聞える口吻は、どうも少し変ではないのか。問題はいつも云われている通り、如何に喜び何を真実として受け取るかにあるわけだが、人類文化の進歩やプロレタリアの歴史的使命に対する情熱なしに、今日の吾々の官能に何かの纏まりがつき得るのだろうか。抑々あるべきものとかくあるものとのニヒリズム(即ち理想主義の裏)的な区別が論理的に誤っていると全く同じに、「何のための」芸術かという設問に元来錯誤があるのだ。吾々は文学の必要の直覚をこそ持て、文学の目的(?)のようなものをなぜ考えねばならぬのか判らぬ。
で軽風俗文学におけるモラルといえども決して人民派的な意味でのモラルに止まることは出来ないだろう。モラルの稀薄な風俗物は一寸は面白いようでも、忙しい時には官能を荒廃する娯楽のようなものとして虐用されるものだ。それは不快な習慣に堕ちる。そうなれば頽廃だ。
普通大衆と呼ばれるもの(この重風俗的? な観念)には事実、観点の規定の上で色々の困難が伴っている。だから人民という言葉は一つの新しい解答を意味してはいるのだ。併し例えば人民戦線には組織と指導的な中核とがあって、それがその政治的モラルを支えている。市井の人民的風俗にも、組織と指導的な中核としてのモラルが必要な筈だ。
五 モラルと風俗[#この行はゴシック体]
モラルのハッキリした文学で風俗物にならないものは勿論甚だ多い。寧ろ普通にモラルといえば、風俗的な肉体を持たない作品の内に求められるのを常としたとさえ云ってもいい位いだ。モラルが無雑作に心理か何かのように考えられる所以である。そうしたいわば純粋モラルは大体私小説的なもので、取り合わせが少し変なのを我慢するとすれば、心理的なモラルの例としては伊藤整「性格の層」(『文芸』三六年七月)――これは何か纏りの悪い感じである――や豊島与志雄「坂田の場合」(『文春』同月)、倫理的なモラル(?)では宇野千代のもの、理論的モラル(?)では島木健作のものなどである。片岡鉄兵の「光」(『改造』同月)などもこの最後の場合に数えてよいだろう。
しかし最後のこのいわば理論的モラルは、心理的モラルや倫理的モラルにくらべて或る独特な条件を持っていることを見逃してはならない。このモラルは一応私小説的なものであるにも拘らず、社会の機構そのものを媒介としているし、またこれを透過しているのだ。科学的(特に社会科学的)な認識が、モラルの認識にまで高められるという、文学の唯物論的認識論(?)の面目を見本のように示すものなのである。島木健作は実際、モラルをそういうものとして理解しているようだし、またそういう風な見地を実行に移しているように思う。この点が彼のプロレタリア的文学者としての模範生の一つの重大な要素になっている。科学的社会認識の文学的形象化ということが。
併しそれと共にこの理論的モラルの文学が殆んど何等の風俗を持っていないということが、多くの人によって指
前へ
次へ
全46ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング