思想と風俗
戸坂潤

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)揶揄《からか》われる

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「好み」に傍点]
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 序

 思想というものは、その持ち主の身につけば、その持主の好み[#「好み」に傍点]のようなものにまでもなるものだ。意識とも良心ともモラルとも云っていいものになる。そして同じ時代の同じ社会に活きている沢山の人間達の間に、共通する好みの類が、風俗をなすのである。
 ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーションや又社会階級の、世界観を象徴しているものなのだ。だから吾々は又、世の中の風俗の褶や歪みや蠢きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来るわけである。
 思想は風俗の形を取ることによって、社会に於ける肉体的なリアリティーを有つことが出来る。だが風俗はあくまで、社会というものの皮膚と云うべきものに相当するのが特色である。風俗はつまり社会の現象[#「現象」に傍点]であって、その内部的な機構ではない。そこで社会現象[#「現象」に傍点]の批評は、時には風俗批評とも云われるのである。けれども風俗の裏には、常に思想があるのだ。
 私はまず初めに、思想と風俗とのこうした交流の経緯を、独自な題材として考察して見た。それが第一部「風俗」である。そしてこの考察に沿うて、特に、現下の日本に於ける教育関係の現象と、宗教関係の現象とを、考察して見た。第二部「教育風俗」と第三部「宗教風俗」とがそれである。他に、科学・文芸・政治外交・経済・其の他について風俗現象を取り扱った文章もあったのだが、之は割愛せざるを得なかった。
 この評論集は、一年足らず前に出版した評論集『思想としての文学』と、直接な関係がある。「思想としての風俗」とでも云いたい処だ。その姉妹篇と云っていい。
一九三六・一一[#2字下げ]
東京[#16字下げ]
戸坂潤[#地から1字上げ]
[#改頁]

 第一部 風俗

 1 風俗の考察
     ――実在の反映一般[#「反映一般」に傍点]に於ける風俗の役割

   一[#「一」はゴシック体]

 カーライルは『サーター・リザータス』に於て、なぜこれまでに衣服に就いての哲学が書かれていないか、を怪んでいる。衣裳ほど日常吾々の眼に触れるものはないのに、之に就いて哲学が語られたことがないというのは、何としたことだろう、というのだ。イギリス人などが衣裳哲学に考え及ぶことなどは想像も及ばないだろう、ドイツ人なら或いは衣裳の哲学に向いているかも知れない、というわけである。そこで無耶郷のトイフェルスドレック教授なる人物の書物が出て来て、衣服の考察が始まるという仕組みである。
 トイフェルスドレック=カーライルはこの際、要するに衣裳という人間の装飾物[#「装飾物」に傍点]の否定者であり、アダム主義者(アダミスト)的裸体主義者であって、ドイツ観念論式に抽象的で純粋な「純粋理性」を信じる先験主義者であるのだが、併し衣服というものが有っている社会的で歴史的な特有なリアリティーに就いての関心を強調していたことが、今日の吾々にとっても興味のある個処だ。なる程衣服に就いて書かれたものなら山ほどあろう、各時代の又様々な地方の。だが衣服が有っている社会的政治的な意義、歴史に於けるその積極的な役割、それから思想・哲学・文学・芸術・等々に於ける不可欠の一ファクターとしてのその特異なリアリティー、こういうものはカーライル以後もあまり真剣に注目されなかったのではないかと思う。そういう意味に於ける「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。
 カントはイギリスの新聞に床屋の哲学というのが載っていたと報告しているし、ヘーゲルは靴屋の哲学の批判をやっている。併し哲学に就いては今はどうでもよい。問題は、衣服というものが寝ても起きても実在しているもので、そういう生々しいリアリティーを持っているにも拘らず、このリアリティー[#「リアリティー」に傍点]の特色そのものに就いての理論的考察は、甚だ影が薄いのだが、それはどうしたものか、という点にあるのである。カーライル=トイフェルスドレックは自分が或いはサンキュロットであるかも知れぬ、と弁疏している。サンキュロットとは云うまでもなく、フランス大革命時に於ける一つのプロレタリヤ的な勢力とも見ることの出来る分子で、短袴をつけぬ無礼者の一団のことだ。実際衣裳の思い切った変革は、それがただの流行の誇張や新しがりでない場合(いや新しがりでもそうだが)、多くは思想[#「思想」に傍点]的な意味を有つものなのだ。衣服は着ている人間の経済的生活を象徴すると共に、その人間の階級と階級的思想とを象徴する。サンキュロットなどはそういう意味で注目すべき名称である。でとにかくそれ程衣裳というものはリアリティーを持っているのだ。衣裳の革命など、よく考えて見ると事実相当に革命的な象徴なのだ。それ程衣服は社会的リアリティーを持っている。
 併しどうせカーライルはただの衣服に就いて語っているのではない。衣服とは彼にとっては人類のもつ象徴のようなものなのだ。処でこの衣服という象徴は一体人間について何を象徴しているのだろうか。夫が風俗[#「風俗」に傍点]だと私は思う。実はカーライルなどというドイツ式観念論者はどうでもよい。問題はまず風俗なるものの理論的な観念を得ることにあったのだ。
 風俗生活をしていない人間は勿論世間には一人もいない。裸で外を歩く文明人がいないと同じである。だから風俗そのものは初手から或る大衆的[#「大衆的」に傍点]現象だ。そして風俗に就いての関心そのものも亦極めて大衆的であって、大衆的にお互いの間で容易に了解されるものなのだ。風俗画であるとか、風俗美人画であるとかいう、やや難解らしい言葉も、世間では苦もなく大衆的に通用している。――だがそれはそうでも、一体社会科学的[#「社会科学的」に傍点]に云って風俗とはどういうカテゴリーなのか、こうなるとあまりハッキリした既成の結論はないのである。処が、社会生活百般の事象に就いての考察が、或る本当の意味での大衆性をもたねばならぬならば、風俗の考察こそは、最も大事な理論上の設題の一つでなければなるまいと私は思う。之は大衆性[#「大衆性」に傍点]というものの理解にとっても、必要欠くべからざる一つの社会理論上のファクターだ。

   二[#「二」はゴシック体]

 風俗習慣などと続くように、風俗は勿論社会的習慣と密接な関係を有っている。処で云うまでもないことだが、社会に於ける習慣、或いは又習俗は、社会の生産機構に基く処の人間の労働生活の様々な様式関係によって、終局的に決定されているが、二次的にはこの生産関係を云い表わす社会的秩序としての政治・法制が維持発展させる処のものであり、そして三次的には社会意識や道徳律が観念的に保証する処のものだ。その際習俗は、云わば歴史的な自然性(意図的でも人工的でもないというわけで)を持った一つの与えられた社会的制度[#「制度」に傍点]であると共に、同時にその制度が概略の大衆の意識にとって安易快適(アット・ホーム)であるという場合のことだ。処でこの云わば制度[#「制度」に傍点]と制度習得感[#「制度習得感」に傍点]としての習俗が、一見片々たる細々した手回り品や言葉身振りにまで細分されて捉えられた場合が、恐らく風俗というものだろう。
 風俗は社会の基本的機構の一つの所産[#「所産」に傍点]である。決してその逆の源泉[#「源泉」に傍点]などではない。風俗そのものが独自な積極性を持っていて、夫が社会機構の過程を左右するファクターになる、とは云われない。だが又風俗は社会の基本的機構に基く一つの結論[#「結論」に傍点]でもあるのだ。という意味は、社会機構の本質が、風俗というものに至ってその豊麗な又は醜い処の肉づけと皮膚とを得るのであり、その最後の衣裳づけを終るのである。風俗は社会の本質の云わば社会的[#「社会的」に傍点](経済的・政治的・等々と区別された意味での社会的)な結論[#「な結論」に傍点]であり、社会の最も端的な表面現象[#「現象」に傍点]である。社会の人相が風俗であり、社会生活の臨床的徴候が風俗である。風俗は社会の本質を診断する時の症状である(デカダンス其の他はこの診断の用語だ)。
 勿論風俗などというものは、右に云ったような次第で、社会の本質から抽出された一つの抽象物に過ぎない。だがそれ故に又他の意味で、右に云ったと同じ次第によって、最も具体的であり具象的なものなのである。愛情に於ける恋人の肉体のようなもので、抽象的と云えば抽象的、具体的と云えば具体的なものが之だ。ここに風俗という社会的リアリティーの、理論カテゴリーとしての強みと弱点とが横たわるわけである。
 社会の構造分析から見て、具体的とも見えるし抽象的とも見える処の、この風俗という特有な社会現象は、どうも社会の物質的基底とその上部という普通の社会科学的段階づけの内には、いきなり適当な位置を発見出来ないように思われる。風俗乃至習俗は前にも云ったように一方一つの制度として現われる。生産労働の様式そのものについてさえ形をとって現われる処の、一種の制度としてなのだ。その意味から云うと之はいつも社会の物質的基礎のどこにでも随伴して発見されるものだ。処がそれと共に、風俗乃至習俗は他方、その制度の内に生まれ又教育された人間の意識の側に於ける制度習得感にいつも随伴する。するとこの場合の風俗は明らかに上部構造としてのイデオロギーの一部にぞくすると云わねばならぬ。
 だからつまり、風俗乃至習俗というものは、本当は社会の本質の一所産であり一結論に過ぎぬにも拘らず、それが社会の本質的な構造の夫々の段階や部分に、いつも衣服のように纏わって随伴している現象のことなのである。従って社会の構造全般に跨って現象している或るものだという風にも之を考え得るので、夫が何か独自の独立した社会的本質の一つででもあるように考えられ易いわけだ。風俗は経済現象でもなければ政治現象でもなく又文化現象でもない。而もそうした諸現象を一括すべく用いられる処の社会現象[#「社会現象」に傍点]という言葉は、風俗にとっては打ってつけではないだろうか。つまり経済現象・政治現象・文化現象・等々という社会の物質構造上の段階と関係なく、そういうものを無視しても、そうした諸段階全般を貫く或る共通な一般的な一つの「社会現象」が風俗だ、というような風に考えられ易いのだ。
 社会学(ブルジョア社会科学の代表者)には大体に於て、社会が実際にこうした共通な一般的なファクターから云わば出来上っているものだという風に、仮定する癖がある。社会機構に於ける物的構造上の秩序を第一義的な分析の規準とはしないで、いきなり社会の之あれの一般共通な徴候・現象をとり出して、之が何か社会の本質的な諸要素ででもあるように考える。風俗はこういう社会学的方法によれば一等通俗的に簡単につかみ易いように見えるだろう(その極端なものは「モデルノロジオ」の類だ)。之に反して史的唯物論の方法から行くと、風俗という現象は方法上一種の副次的操作を要する処の却って高度な複雑な現象なのだ。――だがそう云うことは決して、風俗を社会学的(現象主義的)に安易に取り上げる仕方が正しいということにもならず、まして史的唯物論の方法によって風俗という題材の解決がつきにくくなるだろうということをも意味しない。元来、現象なるものは直接なもので直覚的には簡単なものだ。だが、夫は分析の上からは最後になって出て来なければならない程複雑なものなのだ。
 処で実際問題として見ると、ブルジョア社会学に於ても(日本では空疎な方法論がまだ盛んなようなわけで)、風俗というものはあまり「科学的」なテーマにされていない、恐らく之はあまり理
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