論的[#「理論的」に傍点]な価値のないもののように思われているせいだろう。この事情は実は併し、世間が風俗に就いて有っている知的な興味が如何に薄いかという事実を反映しているに過ぎぬのであって、新聞紙面から判断しても風俗は甚だ不真面目にしか取り上げられていない。風俗は俗なもので卑しいものだというようなわけで、大した社会問題[#「社会問題」に傍点]の資格は有てないらしい。
そのくせ世間は流行などについて極めて敏感であるし、又恐ろしくおせっかいでもあるのだ。例えばモダーン風俗などに対しては一般の世間は何かワザワザ調子を下げてやに下って対手になる。モダーニズム風俗は云わば揶揄《からか》われる対象としてしか世間の眼に写らない、それが世間普通の常識だ。風俗の本質の一つは性的なものにあるが、性的能力を自分の社会的生存の大きな支柱としている従来の社会の女達は、この社会では特別に風俗的な特徴を持たされている。そこで女も亦婦人問題というような社会問題[#「社会問題」に傍点]の内容として世間の眼には写らずに、云わば揶揄《やゆ》や娯楽の対象である美人としてばかり、世間の眼に写るというような次第だ。こうしたものが今日の、通俗な風俗[#「風俗」に傍点]の観念の現状なのだ。
風俗問題にぞくする一つの観念を、少なくとも社会科学的な意図から取り上げたものとして注目されるのは、思うにW・ゾンバルトのLuxus und Kapitalismus(1912)である。資本主義社会の発生発展過程に於ける、愛欲・婦人・又奢侈、等の役割に就いて、一応テーマの纏った考察をしているのがこの本の価値だが、併し力点は、奢侈が資本主義を産み出したという関係に集中されているのである。「奢侈の需要の発生が近代資本主義の発生にとって如何に極めて重大な役割を有っているか」が力点である(一四〇頁)。「奢侈からの資本主義の誕生」であって、その逆ではないのだ。奢侈という資本主義の一所産一結論たる目前の絢爛たる風俗現象が、唯物論的な弁証法の道をよく理解しないこの社会学者の眼を、全く眩まして了っているのである。このやり方は本質に於てブルジョア社会学的なやり口であり、例の通俗的な風俗観の、単に専門家風な学術的な仕上げにしか過ぎないのである。
三[#「三」はゴシック体]
私は今風俗に就いて、内容的に社会科学的分析をするだけの準備がないし、又その場合でもない。今必要なのは、こうした卑俗に通俗的にしか把握されていない風俗という観念[#「観念」に傍点]を、さし当り必要なように訂正して、理論上意義のある一つのカテゴリーに仕立てておくことだ。そこでまず第一に、風俗が道徳[#「道徳」に傍点]に属するものである所以を注目しよう。
前に風俗が習俗・習慣・風習に直接するものだと云った。そして習俗が一方に於て制度を指すと共に、他方に於てその制度の習得感情をも指すことを述べた。例えば家族制度という習俗が、一方家族という制度を指すと共に、他方家族的感情や家族的倫理意識を指すことは、今更云わなくても判っていることだ。習俗とは歴史的伝統を負った処の社会的規範であり、その意味での人倫や道徳というものに他ならない。この判り切ったことが即ち又、風俗がまず第一に道徳的なものだということになるのである。
風俗は、社会のただの習慣や便宜や約束ではない、又単なる流行其の他の類でもない。単に世間が皆そうしているという事実だけではなくて、この事実が社会的強制力を持っており、そして道徳的倫理的権威と、更にそれを承認することによる安易快適感とを惹き起こしつつあるものが、風俗である。風俗にぞくする規定の代表的なものは、前にも云ったように社会に於ける性関係だが、事実はこの性風俗が最も端的な通常道徳の内容をなしていることを、注目しなければならぬ。風俗壊乱という一種の反社会的現象は、主に性風俗の破壊を指すことは云うまでもないので、これが社会風教上の大問題だと政治的道学者や風紀警察当局は考える。風俗は全く道徳的なものだ。
性風俗が可なりに衣服服飾と密接な関係のあるのは興味ある点だ。性別を社会的に表現するものは無論何よりも服装なのであるが、この服装風俗が極めて性的意義と共に道徳的意義に富んでいることを反省して見るがよい。奢侈・化粧・お洒落から始めて、お行儀や作法やゼントルマンシップや淑女振り等々から、家庭的儀式や支配権力の威儀や宗教的支配の荘厳にまで及ぶ、一貫した或るものがあるだろう。このように服装は性関係を道徳にまで連絡づける。アンデルセンの『裸の王様』を、こういう点から見て見ると、又特別の面白さがあるだろう。――でこうした一見末梢的な風俗たる衣裳さえが、一つ一つ道徳的重大さを持っていることは、今更事新しく説くまでもあるまい。
併しそれはそれでよいとして、一体風俗がぞくすると考えられたこの道徳なるものは何であるか。最も通俗的な規定としては、善し悪しを判定する標準のことか、又は善し悪しを決める場面のことだろう。これが通俗常識による道徳の観念であって、そこではつまり、出来るだけ早く簡単に善いか悪いかを決めることが目的になっている。処が或る事柄の善い悪いを決めることと、その事柄に就いての有効な(然り人生にとって有効な)批判的・科学的検討とは、殆んど全く別のことなのである。事柄の理論的研究と、その事柄の善悪の宣告とはまるで別だ。と云っても私は何も、理論や科学が超利害的であるとか又公平無私(?)で超党派的・超階級的なものだ、などというようなブルジョア科学論の一節を暗誦する心算で云っているのではない。例えば日本に特有な形態の人身売買制度(娘の身売りなど)をどんなに悪いことで不道徳だと宣告しても、それで少しもこの現実の風俗は善くはならないのだ。問題は善いか悪いかではなくして、如何にしてこの欠陥を救済するかというための理論的な研究なのだ。処が道徳は往々にして、正にこうした科学的検討そのものを省略するための唯一の手段として出馬するものだ。道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。
こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧ろ道徳のかかる観念自身[#「かかる観念自身」に傍点]が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる。――で、もし風俗の観念も、単にこうした意味での道徳の観念に接着するだけなら、夫は理論的に無用でナンセンスな困ったカテゴリーに終るだろう。
だが、道徳に就いての文学的観念[#「文学的観念」に傍点]ともいうべきものこそ、道徳現象に就いての論理的に(又広義に於て認識論的と云ってもよいが)有効な唯一のカテゴリーだろうと私は思う。普通の所謂「道徳」という観念はこれの前には解消して了う筈であるし、又「道徳」という観念によって指し示された所謂道徳なるもの自身は、この文学的な道徳観念に照らされることによって初めてうまく把握され得るだろう。――最近文芸評論家が口にするモラルという言葉はこの「文学的」な道徳観念にやや近い。だが根本的な相違は、所謂「モラル」が往々にして単に道徳意識や生活感情という観念物以外の何物でもなくて、現実の客観的社会の本質的機構や現実的な思想内容や、又風俗[#「風俗」に傍点]とさえ、関係なしに口にされているという点だ。つまり所謂モラルは文芸創作方法に結びつけて考えられているらしいにも拘らず、夫が一向、創作方法上の論理学(乃至認識論)的根本概念の資格を、発見出来ずにいるのである。之ではモラルも十分に理論的なカテゴリーにはなれぬ。
道徳の文学的観念を私は、云うまでもなくあれこれの道徳律とも道徳感情とも考えない、又あれこれの習慣とも風俗とも考えない、却ってそうした所謂「道徳的」な諸現象をそういうものとして把握させるような一つの認識の立場[#「立場」に傍点]の名が夫だと考える。現実のそうした反映をやる場所や媒質の名が、道徳=モラルだ。処で文学[#「文学」に傍点]というものは、恰もこの実在反映の仕方の如何によって、科学から区別されているのである。文学と科学とでは方法は勿論のこと世界観の形象も実は全く同じとは考えられない。なぜなら世界観とはすでに一つの実在反映の結果のことだから。すると文学の認識=反映の場所や媒質が即ち道徳=モラルだ、ということになるのである。この道徳観念を文学的[#「文学的」に傍点]道徳観念と呼ぶ所以は之であり、世間の文学がモラルを語る所以も亦之だ。
今この道徳の立場、即ち文学の立場が、科学乃至理論の立場とどこで異るかを説いている暇がない。夫は恐らく形象[#「形象」に傍点]の問題と自己[#「自己」に傍点](自我・自意識・等々)の問題との関係の内に横たわると思う(コム・アカデミー編『文芸の本質』――ヌシノフ――の稿及び岡・戸坂著『道徳論』中の拙稿「道徳の観念」に問題を譲ろう)。だがとに角必要なことは、右のように考えて行けば道徳という概念が理論的に確立出来るだろうという点だ。で、もしそれが出来れば、それにぞくするものとしての風俗の概念も、理論的に確立出来る見込みが立つわけだ。――つまり風俗という観念、カテゴリーは、その本質を以上述べたような意味での道徳[#「道徳」に傍点]の内に持っているということである。風俗とは、道徳的な本質のものとして用いられるべき理論的用語だ、という当然至極のことに過ぎないのだが、今それが理論的に説明され得る、ということの説明みたいなものをやって見たわけである。
こういう回りくどい間接な接近の仕方を選んだというのも、結局、風俗という観念にもう少し重大な理論的意義を認めよということが専ら云いたかったからであって、さっき第一に風俗が道徳にぞくする所以を強調したが今度は第二に、風俗が思想[#「思想」に傍点]的な本質を持ったものだということを強調したい。之も亦、判り切った現象に就いての観察に基くわけで、服装や態度一つにもその人間の思想が現われているし、国民の風俗習慣は俗に国民性[#「国民性」に傍点]と呼ばれて、何かその国民の国民思想であるように云われているのである。――だが、例えば風俗は思想が表現となって現われたものだとか、風俗は思想の一つの実現だとか、というような安易な理解の仕方はやや危険である。なる程思想は風俗に於て表現される、風俗は思想の表現である、之は大事な認識であり又事実に就いてのよい理解である。けれども表現という言葉は解釈上の又は解釈学上の用語であって、決して無条件に説明上の科学的用語でない。だから風俗が思想の表現だと云っても、思想が本当に風俗という形をとって現われて来たことではないのだ。吾々は言葉の綾にだまされてはならず、言葉の洒落にひっかかってはならぬ。思想は一つの[#底本では「思想一つの」となっている]観念物だ、併し風俗は目に見える風物だ。思想という観念物が風俗という風景となって現われるというような神仙譚ではなくて、単に風俗が思想を云い表わしている、一種の思想を意味[#「意味」に傍点]している、という事実だけが本当なのだ。
思想乃至意識に就いても説明しなければならぬ要点があるのだが夫は省かねばならぬ(前出『道徳論』参照)。併し少なくとも思想という言葉も亦、一方今云った観念物を指示すると共に、他方、この観念物を云い表わしている一切の物的風物――風俗などがその一つだった――のもつ「意味」をも指示している。その点だけは注目すべきだ。だから本当の「思想」という観念はもはや単なる観念物をいうのではなくて、そういう観念物をも又更にこの観念物を云い表わすような物的風物が有つ「意味」をも把握させる処の、反映・認識の機構上の一つの個
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