処を指すと云わねばならぬ。先に道徳=モラルが恰もそういうものであり、夫は文学的認識・反映の場処や媒質であったが、思想もつまりそういうものと大して異ったものではないことが判る。道徳=モラルが問題になる処では、事実同時に、いつも思想が問題になっている。現に文学の場合などがその証拠だ。――で、そうだとすると、道徳的本質を持つ筈だった風俗が、思想[#「思想」に傍点]という意味を有つことは、尤も至極なことだったわけだ(思想が風俗となって初めて熟する所以を「現下に於ける進歩と反動との意義」――『日本イデオロギー論』の内――に於て私は少し説いた)。

   四[#「四」はゴシック体]

 さて、風俗というカテゴリーが論理的に有つべき性質の、大体の輪郭を私は描いて見た。つまり風俗とは道徳的本質のもので思想物としての意味をもつものだという、一見平凡至極な結論なのである。だがこの結論は、風俗が有っている社会的リアリティーの特質――大衆性の一ファクターに注意を喚起するのに役立つだろうばかりでなく、この特有な社会的リアリティーに就いての観念や表象や概念やカテゴリーが有っている処の、理論的・文学的な論理上・認識上の重大さとを、注目させるにも充分ではないかと考える。――この考察は、社会理論の一見末梢的な課題を、社会理論の中心問題へ真直に連絡するばかりでなく、それと同様に重大なことには、文芸乃至芸術に於ける実在の反映・認識・表現の機構に於て、風俗なるカテゴリーが占める理論的意義を暗示するに役立つかも知れない。ここに再び、芸術乃至文学に於ける大衆性[#「大衆性」に傍点]の問題が取り上げ得られる。そういう実際的な効用をねらっているのだ。
 一体文学作品の凡てに含まれている風俗という要素は、その意義をもう少し一般に注目されてもいいのではないだろうか。と同時に又その反対に、特に風俗的な特色[#「風俗的な特色」に傍点]を有っている一種の作品様式に就いては、そこに口を利いている風俗なるものの観念を、もっと厳正に重厚に評価し高揚させねばならぬのではないか。私はひそかにそれを思っているのである。風俗描写を欠くことが作品にどういう本質的欠陥を齎すか。例えば長篇小説(ロマン)の「面白さ」というものが一方に於てストーリーのもつ文学的リアリティーに基くらしいことはほぼ明らかだと思うのだが、それと共に、之は風俗描写のもつ文学的真実さと何かの重大関係があるのではないか。面白さと大衆性との関係だ。之に反して短篇小説は、主として身辺エッセイか又は極端な場合にはモラール・レフレクションやモラール・ディスカッションをさえその本質としているが、そこでは如何に風俗が虐待されがちであるか、そして同時に夫が如何に「純」文学的で「面白くない」か。等々。
 風俗が映画などに於て占める特別な意義に就いては、後に述べる(「映画の写実的特性と風俗性及び大衆性」)。視覚に訴えることをその本領とする処の映画は、文学などに較べて、風俗のもつ社会的リアリティーの再現に努めることを著しい根本性質とするだろう、と考えたからである。そしてそこにこそ映画のスクリーン自身のもつ特有の大衆性[#「大衆性」に傍点]があるだろうと考えた。この点、映画以外の芸術形式(例えば舞踊其の他)にもあてはまるのではないかと思われる。

   五[#「五」はゴシック体]

 なお特に、風俗の文学的役割に就いて述べておこう――
 私はすでに岡邦雄氏と一緒に、『道徳論』という本を書いた。共著というよりも二人の論文を合わせたものである。私の書いたのは道徳の観念が何かということについてであった。私はその論文で、道徳の観念を四つに分けた、第一は世間の通俗常識による道徳観念で、大体修身によって理解されるものであり、第二に倫理学的観念で、ブルジョア倫理学や実践哲学などで考える道徳である。この二つがどれも科学的な道徳観念でないということは、道徳を社会科学的に考察して見ればよく判ると思うので、従って唯一の科学的な道徳観念は社会科学的道徳観念だと考えた。之が第三の観念である。
 この第三の観念によると道徳は生産機構に基いて発生し、そのことによって独自のイデオロギーとして道徳価値感を生む処のものだが、夫はつまり道徳の発生と本質と意識とが階級的な実質のものであるということを意味するに他ならない。理論的・論理的・科学的な認識が階級的に一種の歪曲を必要とする時、夫が道徳という形を取るのであって、真実か否かの問題が、善いか悪いかの問題に引き直されて片づけられるのが、道徳の社会的役割だと考えられる。この意味から云う限り、道徳とは認識の不足そのものをしか意味しない。階級的分裂が消滅する社会に於ては、かかる不合理な本質を持つ道徳も亦消滅するだろう、と云わざるを得ない。
 だが之で凡ての道徳観念が悉されるのではない。道徳が問題になるのはいつも自分というものの日常行動思想が課題になるからだ。他人の行動ばかりを問題にしたがる日本人的お節介道徳は道徳ではなくて寧ろ反道徳だろうが、併しそういう出来損い現象も、つまりわが身に引きくらべて他人の身の上をとや角云うのである。一つの自己弁解である。――そうすると道徳の観念も単に社会科学だけでは片づかないものがあるということになって来る。なぜなら社会科学では個人というものや個人の個性やを論じることはカテゴリー上常に可能だが、併しそのままでは、銘々の自分の我性に基く活動を論じるのに足りない点がある。この我性という銘々の自分の一身上の課題を解き得るような立場[#「立場」に傍点]に立つことによって初めて、道徳の最後の科学的・哲学的・観念が得られると思うが、処がこうした立場は恰も文学する立場なのだから、私は之を文学的な道徳観念と呼ぶことにした。之が第四の観念である。所謂モラル[#「モラル」に傍点]とは之でなければならぬのだ。
 併し私の主張したいもう一つの要点は、この文学的な道徳観念と社会科学的道徳観念との結合[#「結合」に傍点]の問題なのである。所謂モラルを云々する文学者には、この結合に何等の関心を払っていないように見える人が甚だ多い。モラルは何かただの身辺的な私事としての心理のようなものだと考える類がその例だ。処がそんなモラルは実は、お天気加減一つで吹き飛んで了うだろうような空疎で薄っぺらなものだ。吾々はその深刻そうなポーズに惑わされてはならぬ。本当に文学的な真実である処のモラルは、何よりも卓越した、かつ行き届いた、純粋な客観的認識[#「客観的認識」に傍点]によらなくてはならぬ。社会機構の、又自然のヴァラェティーの。モラルは科学的認識を自分という立場にまで高めたもので、現実の反映としての「認識」の特殊な最高段階以外のものを意味するものではない。その意味では科学の対象が真理であるように、文学の対象はモラルなのである。
 で考えるのに、文学作品(創作・評論)及び文芸現象を評論するにも、いつもこのモラルなるものが観察の焦点でなければならぬ。モラルは倫理とも云われているし、又思想と呼ばれてもいいし、又之を世界観と呼び直してもいいのだが、併し文学の内に部分的に含まれている処のそんな倫理や思想や世界観だけを取り出して見ることが、文芸批評だと云うのではない。創作の技法だけを取り出して問題にするのはバカげたことで又事実不可能なことだが、それと全く同じに、これはバカげたことで不可能なことだ。尤もバカげた不可能なことも、実際に出現するというのが事実ではあるが。
 最近モラルの問題の一つとして恋愛論が相当盛んである。モラルの興味の中心が恋愛乃至性道徳にあるということは重大な意味のあることで、この意味だけを強調すれば、場合によってはローレンス的な世界観へ行く理由もあるのだが(ローレンスの『恋愛論』――伊藤整訳による――は可なり莫迦げた観察も含まれているが一読に値いするものと思う)、併し一方問題をもう少し方法論的に整備する必要がまだ残されていると私は思う。文学とモラルとの認識論(?)的な連関を探ねて来た私にとっては、なお手前に残された問題がある。それが風俗[#「風俗」に傍点]という問題だ。
 風俗に就いても亦、すでに社会科学的な観念は多分に存する。否寧ろ風俗はあまり手近かなもので科学的な考察が忘れられ勝ちだから、却ってその科学的研究は意識的に盛んであると云ってよい。社会学的な実証的研究は乏しくないし、社会科学的な史的研究も少なくない。すでに述べたゾンバルトの『奢侈と資本主義』など、とに角注目すべきものだ。――併し風俗は他人の風俗であるよりもまず自分自身の風俗でなければなるまい。そうなると之は趣味[#「趣味」に傍点]とか好み[#「好み」に傍点]とか云った安価なようなものになるが、併し趣味や好みは良心の端的な断面で、認識や見識や政治的意見さえのインデッキスになる。吾々は理論や主張に濁った不審なものを持っている人間を警戒しなければならないが、之は証明の限りではなくて実は一種特別な趣味判断によるらしい。風俗はモラルの徴表だ。
 でこうした意味にまで深められた立場から見た風俗は、文学的な意味に於ける風俗だ。その意味での趣味も亦、文学の本質だとさえ考えられる(シュッキングなどは問題ではあるがとに角そういう主張の見本の一つにはなる)。無論風俗は吾々が旅をして世界の人情風俗を見聞して見たいと思うように、客観的なそして末梢的でさえある肉づけを持った具象物だ。而も夫がモラルの徴表なのである。モラルの感覚的・物的・分泌物が風俗だ。――私は文芸評論の一つの観点として、風俗描写というものを強調したいと考える。今云ったような意味での掘り下げられた立場からする風俗が描かれているかいないかは、そこに把握されたモラルが生きているか死んでいるか、性格個性を有つか有たないか、に関係するし、それだけではなく、その作品がリアリティーを有つか有たないか、又更に、その作品が大衆性を持つか持たないか、或いは「面白い」か面白くないか、ということにさえ、直接関係があるだろうと思う。
 さて風俗の最も著しい内容は性風俗だが、そこから恋愛論というモラル問題に行く道も開けると思う。恋愛論のための文学上の方法論が必要ならば、この辺の見当ではないかと考えている。
[#改頁]

 2 映画の写実的特性と風俗性及び大衆性

 私は映画について特別な知識は少しも持っていない。映画製作の原理や実際については云うまでもなく、映画批評についてもあまり知っていない。その意味で私はごく普通の観衆の一人にすぎない。併し私は映画が好きだ。単に娯楽や気晴しとしてばかりでなく、事実色々のことを考えさせ、意識に希望と野心とを起こさせるという意味でも、映画は非常に面白い[#「面白い」に傍点]。映画は文学などと違って、意識を浅薄にし、又その印象はすぐ忘れて了いやすい、というように云われてもいるが、それは必ずしも当っているとは思われない。少なくとも良い映画を見ると自分も出来たら何か映画を一本作って見たいという気持ちになる。之は私一人の癖ではなくて多くの人の気持ちではないだろうか。そういう意味での映画愛好者は、事実非常に多いと思う。映画が意識を浅薄にしたり、忘れられやすかったりするという説が、当っていないことは、この点だけからでも結論出来るように思う。現代人の意識をかき立て、創造へ駆り立てようとする力を持つ映画は、確かに活きた真理を有っているのである。単なる娯楽や享楽や暇つぶしに近いものではない所以だろう。
 一人の観衆としての私を以上の意味で面白がらせる映画の、その面白さは一体どこにあるか。消費生活の華かな街頭や、劇場がもつ一種の社交感が、確かに私を映画館へ導く一つの秘密(?)であることは否めない。本を読むにも退屈し、人を訪ねるにも遠慮がある、という時に、私の身体を移動させて市井の(この経済的社会的矛盾にも拘らず)活々した雑閙の内に身を投ずることは、近代人に一種の安心と自信とをさえ齎すものだ。この際比較的安い映画館は何と云っても一等大きな誘惑なのである。

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