をさえ意味することが少なくない。自分の国の言葉の下手な外国人は何と云っても普通には尊重出来ない(野蛮人=バルバロスとはギリシャ語が上手に喋れない吃音のことだ)。奴隷と自由民とは風俗上厳重な境界を引かれているので、一々奴隷に対して同類感を催さずにすむこともある(制服や階級を現わす服装の秘密はここにある)。人物の風体はその人物の道徳意識を、思想を、現わすとも考えられている。軍人はクリクリ頭で文士は長髪、どういう頭髪の形の女はどういう種類の女と、相場は決っている。被服風俗は支配社会に於ける各社会層別と個人別とによる道徳感と社会意識とを云い表わす。習俗の第一である男女関係にあっては、男女の服装の区別は極めて深刻な意義を有っているだろう。警察は現に女装の男や男装の女を警戒している。
 こうして風俗というものが、人情・人倫・道徳・思想の最も感覚的で物的な表現である所以は理解されるだろうと思う。国民思想とか国体とかいうものをハッキリと把めない人間にも、日本人の風俗は最も端的につかむことが出来る。ここにこそ日本の国民思想の具体的な表現があるとさえ云っていいかも知れぬ。ソヴェートの民衆が日本の風俗映画を見て皆一緒に吹き出して了ったということは、だから仲々重大な外交問題を意味するかも知れない。一国の生産機構も、その国の農民(つまり百姓)や小市民などの風俗を描けば、おのずから芸術的に特徴づけられることになるのだ。――大きい文学で風俗を描かぬものは殆んどないとさえ云っていいのではないかと思う。
 風俗を見ることは、だから元来感覚主義の範囲にぞくする。そしてこの風俗的感覚そのものが道徳的な意味、モラル、を持っているのである。映画がまず第一に見せるものはこの風俗的感覚であり、そこに映画の感覚的な、そして従って[#「従って」に傍点]又社会的[#「社会的」に傍点]な、面白さがあるのだと私は思う。現実的リアリティーに於ては、社会現象は風俗となって眼に見える[#「見える」に傍点]。
 処で風俗とエロティシズムとは切っても切れない関係に立っている。グロテスクよりもエロティシズムの方が遙かに風俗に与える動揺は大きい。食事が風俗を挑発する程度もエロティシズムが風俗を挑発する程度に較れば問題ではない。エロティシズムは風俗壊乱のものと考えられている。――だがエロティシズムを単に煽情主義と考えるから、夫は風俗の破壊・その否定的な動揺・と考えられるというまでであって、こういう目的意識から名づける代りに人間社会のエロス的(生物的文化的)契機を恬淡にエロティシズムと呼ぶならば、エロティシズムこそ風俗の基本的要素の意味を有つと云うことが出来るだろう。そうすれば、この風俗感覚をその宿命とし又その特権とする映画が、不断にエロティシズムを追求する側面を失わないのは、甚だ当然なのであって、この現象そのものは映画の芸術的低級さを意味するものでも何でもない。ただ映画のこの感覚主義が不純である時、と云うのは感覚を何等かの感性的な行動への潜在的な手段と見たり、感性的な連想の手段と見たりする時、その時に限って、映画のエロティシズムは煽情主義に堕するのである。
 で映画の感覚主義(映画特有の芸術的地盤はここにある)は、エロティシズムからの脱却でも何でもなく、却って正にエロティシズムの純化にこそなければなるまい。映画は観衆に、観衆の意識(生活意識・社会意識・等々)とスクリーンに現われた風俗との対質を要求する。この風俗は何人も解し得る処の、人類に普遍な性関係につながっているのであるから、云わばここに映画の内容自身がもつ大衆性の一つの根拠があると云っていいだろう(人類の類意識は性的関係から発生する――Menschengeschlecht――Geschlecht)。性道徳への省察を、大衆はスクリーンを通じて行なっているのだ。
 誤解を防ぐために断わっておくが、私はエロティシズムや性道徳への省察だけが、映画の主な芸術的内容だなどと云うのではない。要は風俗が映画の芸術価値を成立させる根本条件だというのであり、その一つの必然的な契機としてエロティシズムが本質的なものとなるというのである。そしてこの風俗と雖も映画の芸術的価値を終局的に決定するものだなどと云うのではない。ただ映画の芸術価値はこの風俗という物的で感覚的で、肉体的で社会的な、具象性の地盤の上で初めて完了することが出来るというのであり、且又この風俗感覚そのものにすでに、丁度自然現象やニュースの実写がそうだったように、独自の芸術的価値が約束されているのだというのである。つまり映画では、風俗そのものが、その感覚的な表現にも拘らず、その故にこそ却ってモラルを有つのだ、というのである。
 映画による風俗感覚が大衆の道徳意識を芸術的に刺戟するということは、色々の証拠を見出すことが出来るが、吾々青年が日本語で話す日本映画よりも寧ろ言葉のよく判らない外国映画の方を面白がるということは、吾々の生活意識の新しさ清新さが、この日本的現実に満足していないことを示すもので、日本の資本主義が英米仏独の先進資本主義への歩みに他ならず、やがてはソヴェート連邦的経済機構への必然を有っているという客観的事情が、若いジェネレーションへ知らず知らずに反映していることに他ならない。決して外国の監督や俳優の素質が高いばかりではなく、その高さが判るということが一つの道徳的向上の動向を示しているのだ。ただブルジョア映画そのものが現在の風俗の自己批判を敢えてなし得ないという宿命から、吾々はこうした映画から何等道徳批判の積極的な結果を期待出来ないまでだ。風俗を見ることは、之に泥《なず》むことに終る方が多いというのが、風俗感覚の芸術的弱点だ。夫は一般に感覚主義や又狭くエロティシズムの弱点ともなるものである。映画中の大衆映画とも云うべきチャンバラが受けるのは、一種のエロティシズムに帰着する舞踊的(或いは寧ろギムナスティックにぞくする)風俗感覚によると共に、之に基く封建的道徳・封建的風俗感覚へ由来することは今更説明するまでもないだろう。――で映画の大衆性[#「大衆性」に傍点]は、社会人の普遍的な感覚(現実感・風俗感・エロティシズム其の他)に訴えて、之をいつの間にか道徳・道義感・社会思想に移行させるという処に、その本質を横たえる。映画館は安くて誰でも皆と一緒に見られるから、というような処にばかり映画の大衆性があるのではない。又映画は何本でも複製が出来てどこへでも持って行けるという処にだけその大衆性の根拠があるのではない。
 私は以上、なぜ映画が面白いか、ということを分析して、それを映画固有のリアリズムに求めたわけである。つまり現実のリアリティーが、そのままで[#「そのままで」に傍点]芸術的リアリティーとなる処に、映画固有なリアリズムがあるのであって、同時にそこに他の芸術の真似の出来ない大衆的な満足感を与えるものが横たわっているというのである。之は映画がもつべき本来の劇的又文学的価値とは一応別で、それ以前の先決条件に他ならないのだが、この条件を離れて映画の劇的文学的本質を論じることは、恐らく映画を劇や文学に解消して了うことになりはしないかと考える。世界の現実を見聞きすると同様にスクリーンの上で見聞出来るということが、それだけの単純な判り切ったことが、映画固有の面白さを与えるらしい、という結論なのだ。映画の劇的機能や文学的価値については今論じることはひかえる。また観照者の立場を離れて映画製作の技術的・経済的・社会的・諸条件を省ることも私には今は不可能だ。これ等の観点を離れても、映画の大衆性を或る程度まで説明出来るように思う。
[#改頁]

 3 文芸と風俗

   一 文芸時評の改組[#この行はゴシック体]

 読者も御承知のように、最近、新聞雑誌その他における文学批評の形式というのが、やかましく議論されている。しばらく前には局外批評が善いか悪いか、それから又匿名批評が善いか、悪いか、がお喋りの流行(?)だった。全く「善いか悪いか」が喋られたので、「何であるか」が喋られたのではない。つまりそれほど子供らしくまた道徳屋的に喋られたわけだ。
 しかしこのお喋りはただのお喋りとして片づけることの出来ないものを持っていた。なぜなら問題は専ら文学がどうやったら広い世間へ出られるかということだ。或いは、いわば女子供向きの所謂文学なるものを、どうしたら世間の大人にとっても必要なものにすることが出来るか、ということだ。少し語弊はあるが、そういえば端的だと思う。
 やがて批評形式の論議は一転して、文芸時評の形式をどうしようかということにもなって来た。これも大部分はお喋りみたいに見えるのだけれども、併し矢張り、どうやったらば文学という温室産のモヤシを社会の汐風に耐え得るものにするか、という興味が根本動因をなしている。文芸時評は専門家の楽屋のぞき的な作品批評や作家批評ではなく、読者に作品や作家の社会的意義を紹介するような大衆的な形でなくてはならぬとか、文学の色々な現象が持つ文学外的な又は文学前的な思想や社会性を摘発するような形の時評にしなければならぬとか、色々にいわれている。
 と同時に、文芸時評の時評[#「時評」に傍点](即ち月評[#「月評」に傍点])という形式もまた段々疑問にされるようになって来た。それというのもこれまでの月評は月々の雑誌に現われる作品についての所謂「作品評」(あの作品は感心した、あの作品は説話体だ。あの作品は化物と格闘している、等々という所謂作品批評[#「作品批評」に傍点]?)に過ぎなかったということへの不満からで、必ずしも月評という様式が悪いからというわけではない。一般に時評の性質を欠いた評論は決して完全なものとは考えられないのであり、そして文芸評論も時評である以上、月評になるのはそんなに特別な制限でも何でもないと私は思っている。要は矢張り、これまでの文芸時評において文学の社会性・大衆性・思想性・といった一連の要求が意識的に注意を払われることが少なかったという不満にあるので、それで月評という様式そのものが不可ないのだという風な混乱にも陥ったのだろう。
 そこで、文芸時評も社会時評も、また論壇時評も、実は一つのようなものであっていい、というような見方が段々起きて来つつあるのではないだろうか。私は文学と社会時評との本質上の連絡を強調するものであるが(「風俗文学としての社会時評」)、この主張からすれば、文芸時評だって社会時評や論壇時評と大して別なジャンルのものではないということになる。――この頃は論壇時評というものが多少軽んじられて来たようだ。これと共に起きた動きが文芸時評改組問題だと見れば、面白いと思う。
 こういう何か新しい文芸時評の型が出来て行くとすれば、その文芸時評にとって一番都合のよい対手は、直接時事問題を取り扱った作品だろう。ところが事実、そういう性質の作品が注目を惹きつつあるのである。岸田国士はこの間「風俗時評」という題の作品を発表した。焦点[#「焦点」は底本では「集点」となっている]にやや疑問を持つところのその内容よりも、この名前に私は好意を持った。ところが新聞では早速「風俗時評欄」を設けたし、新居格は本当の(?)「風俗時評」を試みている(『新潮』三六年七月「現代風俗時評」)。

   二 軽風俗と重風俗[#この行はゴシック体]

 無論新居格の「現代風俗時評」は文学作品ではない。無論その心算でもない。単に街頭のスナップだ。だが、とに角これを見ていて、少なくとも風俗時評という言葉が文学的な響きを持って来たなという判断の合図を感じる。岸田国士の「風俗時評」は何かと一種の社会的判断をいい現わしている。これはいうまでもなく文学作品としてだ。――でこれから見ると、風俗の意義にも二つあって、女のメーキャップから戒厳令にまで及んでいるわけだ。だが風俗については後で述べよう。
 時事的な作品としてセンセーショナルな興味を惹く予算になっていたらしいのは、『中央公論』(三六年七月)付録「日出づる国」である。
前へ 次へ
全46ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング