なことだ。
 最近ソヴェート連邦コム・アカデミーで文芸百科辞典のための執筆が行なわれているそうだが、その草稿を中心とした討論が二三項邦訳になっている。『文芸の本質』や『ロマンの理論』がそれだ。これの書き方や論じ方は決してペダンティックではないが、理論水準としては非常に高いものを含んでいると思う。之等の理論の水準の高さは全く、文学を一つの認識様式(科学に並ぶ処の)として、正面から検討している点にあるのである。
 文芸学[#「文芸学」に傍点]への興味は日本に於ても最近焦点を持つ傾きを生じつつあるのであって、之は文学というものがその文化的社会機能に於て段々整頓されて来つつあることを意味し、それだけ文学の社会的役割についての要望が、世間大衆の通念になりつつあることを間接に暗示するものだとも思うのだが、理論的な文芸学(文芸史と文芸美学との結合だ)にとっては、文学が認識様式だというテーゼは、公理的な出発点でなければならないだろう。
 そこで、道徳が文学の根本問題だというのは他でもないのだ。文学という認識様式に就いての云わば認識論的・論理学的・即ち又文芸学的・な観点に立って、この道徳というカテゴリーが基本的なものの一つでなくてはならぬ、ということなのである。――道徳は修身や倫理学や道徳科学や道徳哲学・実践哲学・其の他の題材なのではなかった、その場合の道徳という観念には必ず何等かの不備な点がある。と云うのはこういう倫理学的道徳はつまり階級道徳や支配道徳律のことであって、一つの論理上の暴力に帰着するだろうからだ。本当の道徳は正に文芸学のための範疇でなくてはならぬ、と私は考える。
 文芸学上吾々の問題となるこの道徳は、実は大いに階級性をもっている。それは文学が階級性をもっていることだ。併しそれにも拘らず之は階級道徳[#「階級道徳」に傍点]ではない。階級的支配のための論理代用品としての「道徳」ではないからである。宗教は阿片だという。そのことは夫が一定の階級道徳だということだ。併し文学に於ける道徳はそうではない。之こそ本当の[#「本当の」に傍点]道徳だ。ここが宗教(之も一つの世界認識なのだが)と文学とを区別する根本標準となる。ブルジョア文学の遺産がプロレタリアによって尊重されるべきだと云われているにも拘らず、宗教(その本質が文学である場合は一応別として――事実多くの文化宗教は文学的遺産に過ぎぬ)の遺産などは問題にされない理由も、之だ。
 道徳という問題が、文学そのものの成立にとって、如何にのっぴきならぬキーポイントをなすかが、すでに略々見当がつくだろうと思う。ただの一時の文学現象についての話題ではないのだ。

   四[#「四」はゴシック体]

 文学的認識[#「文学的認識」に傍点]に於ける道徳の役割は、では何であるか。だがその説明は到底ここでは果せない。前に云った『道徳論』の本にでも譲る他ない。併し少なくとも次のような点は、それ程突飛な思想ではないだろう。
 まず道徳(文学的カテゴリーとしての道徳)は自分[#「自分」に傍点](自己・自我・自覚=自意識)を離れてはない。対象が道徳的[#「的」に傍点]に(というのは即ち文学的[#「的」に傍点]にということになるわけだが)、問題になる場合は、無論その対象が作家又は作家に従った読者の眼を以て見られることだが、その際の作家は、彼が大衆的で普遍的な眼を持っていればいる程、益々彼はユニックな「自分」であり「私」である。
 之は誰でも知り切っていることだが、そういう私・自分は、科学的認識に於ては口を利かない。口を利けば却って単にその認識を主観的にし狭めるだけで、少しも之をユニックにしたり深めたりはしない。で、自分を出しながら主観的に堕さないということが出来るのが、道徳というものの特色なのだ。道徳は一身上[#「一身上」に傍点]のことであると共に、又決して私事ではないのだ。
 併し道徳の此の「私」的性質は、一切の意味での自己中心主義や主観主義とは関係がない。道徳が「私」的であるからと云って、私道徳や身辺道徳が道徳だということにはならぬ。なる程私というものが道徳的であるのだが、自分を何んによらず中心にすることは決して道徳的ではあり得まい。
 文学的認識に於ては、だから道徳は(「私」なるカテゴリーもそうだ)この認識のために必要な立場か足場であり又は認識のメジゥムなのである。文学的認識のあれ之という成果が道徳なのではなくて、そういう成果を道徳的たらしめるような媒質が、道徳というカテゴリーの示すものだ。――そして仮にこういう立場か足場か媒質かをそれだけとして抽象的に存在するように想定して見ると、昔からイデーと云われて来たものの性質になるので、科学的真理とか善とかいう類のものとなるのだが、道徳をそう考えれば、道徳は丁度科学的真理と並ぶ処の一つのイデーとなる。昔から善といったのは本当はそういうイデーのことだ。で、科学が真理[#「真理」に傍点]というイデーを対象とするように、道徳[#「道徳」に傍点]というイデーを対象とするものが文学だ、ということになるのである。尤もイデーという字が気に入らなければ引っこめていいが。
 つまりこういうことになる。科学は科学的真理[#「真理」に傍点]に於てなり立つ、之に反して文学は文学的道徳[#「道徳」に傍点]に於て成り立つ。文学的道徳とは要するに文学的真理、所謂「真実」というものだ。私が云おうとしたのは、単に、この文学的な「真実」についての認識論みたいなものに他ならなかった。そのために之を道徳という名の下に取り扱ったのだ。
 文学も科学と同じく実在の一種の反映なのだから、両者のつながり、つまり真理と道徳とのつながり、は重大である。だが夫は省こう。その代り一つ注意しなければならぬ点は、文学に就いての道徳の説が、身辺文学や通俗な意味での私小説(私文学)の説に利用されては困るということである。道徳も自我も、文学的認識の方法[#「方法」に傍点]に就いてのことであって決して対象についての特色ではない。そういうような利用をやるのは、文学的認識が如何に科学的認識とつながっている[#「つながっている」に傍点]かを忘れるからである。科学的認識の出鱈目な作家の自我は、文学的真実への第一条件を欠いているのだ、特に社会科学的認識(それから来る社会的情熱)に就いてそうだ。文学的認識は、科学的認識の道徳的形象化[#「道徳的形象化」に傍点]以外のものではないからである。
 モラルというと如何にも気が利いているが、道徳というと道学的に聞える。だがモラルでも案外道学的なニュアンスを有っている。モラルは作家の良心や精進みたいなものに制限されているようだ。併し世俗市井の風俗[#「風俗」に傍点]も立派に道徳的なものなのである。云わば風俗も道徳=モラルの内容なのである。――今日の文壇の尖端ではプロレタリア的モラル派と人民的風俗派とが対立しているように見える。両方とも人気がある。だが私は云いたい。モラル派には「風俗」を与えよ、風俗派には「モラル」を要求せよ、すれば夫が「道徳」になろうと。
[#改頁]

 5 社会思想と風俗

   一 道徳的論理と科学的品行[#この行はゴシック体]

 世間では道徳というと、何か倫理学か道徳学の対象だと思っている。甚だしい場合になると道学者のお説教にしかならないものと考えている。その位い現代の日本では実際に道徳というものが変なものになっているのである。
 そのくせ本当は、道徳位い世間が拘泥しているものはないのだ。自分の社会的な立場が行きづまると、すぐに明鏡止水と云ったような心境道徳を示すことによって問題を紛らせようとするし、そうかと思うと他人の私的行動に一々お節介をしないではいられない道徳癖が日本人の持病である。自分の長男を米国風に教育しようという意見を発表すると、忽ち某方面から苦情が出て、次男以下には国粋教育を施さねばならなくなる。と思っていると、思想上の節操(即ち党派性)を惜しげもなくなげ捨てることが、却って良心的なことにもなっている。
 私は嘗て、道徳に習慣風俗という側面と良心意識という側面とがあるという極めて判り切った事実を述べたことがあるが、現代ではこの両側面が実は完全にバラバラに分裂していて、道徳的な統一が成り立ち得ず、従って道徳が壊れたままで未だに出来上らないのだが、それにも拘らず、事実上、この二つの側面が妙な様式で密通している。習慣風俗は自然的にそれに相応した良心意識を生み出す代りに、却って単に良心意識を強要することがその機能になっているし、良心意識の方は習慣風俗を批判する代りに、習慣風俗におもねる事がその義務になっている。
 要するに現代では、社会の認識[#「認識」に傍点](之は無論科学的でなければならない筈だ)を、直覚的な形で代表するという意味での、本当の道徳意識は存在しないのであって、従って道徳というと、何かお説教じみた不真面目な内容のものだとしか考えられないのである。
 普通、道徳は品行問題と結びつけられて世間の興味を惹いている。或る尺八の名手の婦人関係は、彼の品行に関係するが故に非常にセンセーショナルな道徳問題となったが、之に反して文士の賭博は直接彼等の品行とは無関係なので、道徳上の問題としてはあまり厳粛に取り上げられない。笑って済ませる事件だと考えられているのが事実である。
 だが、此の事実には相当の真理があるので、之は道徳が要するに節操[#「節操」に傍点]に帰着するという一つの知識を示しているものに他ならない。尤も節操というものをウッカリ考えると、つまる処男女の肉体関係以外の問題ではなくなるのだが、之は実は節操のカリケチュアに過ぎないということは誰でも知っているのであって、節操とは本当は、道徳的な首尾一貫[#「首尾一貫」に傍点]のこと以外のものではなかった筈だ。
 処で道徳上の首尾一貫と云っても、古来の陋習を固執するというのでは頑迷以外の何ものでもないわけで、認識の怠慢を示すものに他ならないが、そういうものでは元来節操でも何でもないことになる。で、どうしても、道徳上の首尾一貫ということは、認識[#「認識」に傍点]の首尾一貫をば直覚的な形で代表する処のもの以外にはない、ということになる。道徳的な節操とは、認識の首尾一貫、認識の節操ということだ。
 認識の節操などというと、言葉は甚だ作文的で、従って無責任に聞えるかも知れないが、それなら認識の論理的統一[#「論理的統一」に傍点]という平凡な言葉で置きかえても構わない。
 併しここから私は一つの社会科学的な公式を導き出すことが出来るのである。即ち、科学的認識の上での論理[#「論理」に傍点]の欠乏は、道徳意識の上での節操の欠乏に対応する、という公式である。例えて云えば哲学[#「哲学」に傍点]があるかないかが、彼が転向[#「転向」に傍点]するかしないかという品行を決定するのだ。で哲学者福本一夫などは、恐らくこういう原因から簡単には、転向出来ないのではないかと思う。

   二 常識教育の請負師と職業的告白者[#この行はゴシック体]

 話しは一寸横へそれるが、評論家故土田杏村は、一種独特な条件を持った文筆業者だったと思う。彼は事実非常に博学であって、どの方面に向かっても相当の程度にまで玄人と太刀打ちの出来る学者でもあったが、併しその見解は、甚だ凡庸で、理論家にとって絶対に必要な食い入る鋭さを完全に欠いていた。処が実はそこが彼の評論家としての第一の強みだったのである。
 と云うのは、彼はいつも世間の常識水準にアダプトすることを何よりもの心がけとしていたのであって、ただ世間の常識に先生らしいアカデミックな快感を与えるためにだけ、物を書いていたとも見ることが出来るからである。彼は常識を淘汰して常識を発達させる処のエンサイクロペディストではなくて、いつも世間の与えられた常識水準を手頼りにして物を書くエンサイクロペディストであった。
 それ故に彼はあれ程多数の固定読者を持つことが出来たので、恐らく彼は、自分の読者に対して、社会的な教師
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