であった中世に於ては、神学という超物理的体系はなお合理性を持ち得たのである。近世に這入って神学の環境が合理化され、啓蒙されるに及んで、とに角神学としての神学は科学的には殆んど全く名目的なものとなった。
だが神学を名目的ならしめた社会における合理意識は、却ってブルジョア社会そのものの不合理性を発見せざるを得なくなった。この社会の不合理性をそのまま合理化するためには、再び不合理な思想の体系が必要となる。ここに神学のルネサンスが必要となる。現代に於けるブルジョア哲学の宗教化[#「宗教化」に傍点]は全くここに由来する。ファシズム・イデオロギーは資本制の矛盾を暴力的に無視する必要に迫られて発生したが、それが哲学体系の場合は、哲学の宗教化となるのである。ブルジョア哲学の宗教化は、ブルジョア哲学のファッショ化と直接なつながりがあり、資本支配のファッショ化と密接な連関があるのである。
かくて現代の観念論に於ける神学体系は、極めて非合理的な組織として現われざるを得ないわけだ。非合理主義がだからブルジョア哲学宗教化の第一の形態となる。これは各種の神秘主義となっても現われる。西田哲学は普通云われるような意味に於ける神秘主義ではない。神秘主義でなければこそ、無の論理というような特有の論理を明示することが出来る。西田哲学は之を弁証法と呼んでいる。だがこの無的弁証法が結局同一哲学的神秘論理に帰着することは、田辺元博士等が批評する通りだろう。神秘主義でない西田哲学は、その論理に於て却って神秘説に帰着する。だが、だからと云って之を宗教的だと断定することは、卑俗な速断と云わねばならぬ。それは無の立場から物を考えるから禅的だというようなものだ。西田哲学が宗教的本質である所以は、まずその超物理的な世界解釈の体系[#「世界解釈の体系」に傍点]にあるのだ。その体系――論理が、初めて神秘説となり非合理主義を導いて来ると見るべきだ。だがそれにも拘らず、西田哲学が神学的である結果として、非合理主義に赴く点が、この際の要点なのである。
非合理主義の最も露骨な判りやすい構造に立つものは、各種の日本主義哲学である。すぐ後に述べるその特有な日本主義的調味を別にすれば、それが思想的特色がナチの通俗哲学と共通性をもっていることは、広く知られている。そこで必要なのは理論や分析、又は其にもとづく信念や確信ではなくて、理論や分析に代る[#「代る」に傍点]信念や信仰だ。処が日本の場合、日本民族生活と日本の政治形態との特有に頑固な結合が、この哲学の内容の第一テーゼとなるのである。この哲学は或る古神道的なものから出来ている。いやそれ以外に本質上哲学的なものは含まれていない。
ただそれが外来の哲学用語で書かれたり、国粋主義的用語や人工的な速製用語法で書かれたりする、という区別があるだけだ。之は日本の今日最も通俗で卑俗な理想であり、哲学であり、又日本に於て支配権を付与したがられている支配的哲学だが、夫が一種の神道的神学のものであることは、知れ過ぎる程知られていることだ。今、ただ注意すべき点は、この哲学が他ならぬ日本ファシズム哲学だということであって、その非合理主義が、この日本ファシズム哲学なるブルジョア哲学(その意味はすでに述べた)とその宗教振りとを、結びつけているということだ。
かかる形のブルジョア観念論の宗教化を、模倣するものが所謂新興(インチキ)宗教の多数であることは、もう少し注目されてもいい点ではないかと思う(大本教・ひとのみち・など)。あそこに古神道的神学が働いていたとすれば、ここでは夫の代りに各派神道的神学精神が働いているのである。尤もこうなると、もはや世間では哲学とは呼ばない。ブルジョア哲学が宗教化したともいえなくなる。だが生長の家で色々と手当り次第にヨーロッパ哲学を利用しているのを見れば、この種の擬神道インチキ宗教も亦、一個の哲学と見なされていいかも知れない。そしてこの種の思想体系が、如是閑氏の表現をかりると、ナポレオン的世界征服の代りに、大本教的世界征服を企てているという意味に於て、擬似ファッショ思想体系であることを、注目すべきだ。この擬似ファッショ哲学も亦、日本のブルジョア哲学宗教化の一つの場合だろう。
だが、日本のアカデミー哲学は、主として外国特にドイツから受け取ったものだ。最近のドイツ哲学が一種の不安の哲学として、観念上の世界秩序の問題から脱落し、且つ一種の不合理主義に道を求めて行きつつあることは、日本にも殆んどそのまま反響を呼び起している。それから比較的翻訳的な反響を持たない独自性を有ったブルジョア・アカデミー哲学に於ても、キリスト教や仏教のカテゴリーを特別に有効な合言葉とするという傾きは、盛大である(アガペや菩薩道など)。このブルジョア哲学の宗教臭化は明らかにファシズムの進行と関係があるのだ。処がこの種の多少とも宗教化したヨーロッパ系ブルジョア哲学の諸代表者が、必ずしも表面上日本ファッショ哲学者ではないということは、今特筆しておかなくてはなるまい。ただそうした哲学者の個人的意図と、またその一応の思想体系範囲とからは独立に、この種のブルジョア哲学が日本ファッショ哲学の道を清め得るものであることに、変りはないのである。
だから吾々はこう結論してよい。最近の日本に於けるブルジョア哲学の宗教化は、直接に及び間接に日本ファシズム思想の原因となり、又結果であると(之は尤も日本だけに限った事情ではないが)。そして更に又、一般に観念論が如何にファシズム哲学にとって都合のよい教養を提供しているかということが、結論されるのである。ブルジョア観念論がなぜこのように容易に宗教化し得るのか、その説明は前半に述べた処だ。
[#改頁]
28 現代の哲学と宗教
一[#「一」はゴシック体]
哲学が何かということに就いては、従来常識界に於ても思想界に於ても、又学界に於ても、一致した結論は殆んどないと云っていい。哲学は時代によって国民によって、又学派によって、更に又個人によって、事実違っているので、その間に決して完全な一致がない。そればかりではなく、今日のように各思想が国際的に共有化して来ると共に、文化が治者階級と被治者階級とに分裂すると、哲学の階級による相違が相当ハッキリするようになって来る。無論もし何等の共通な性質もないとすれば、同じく哲学という名で呼ぶことは出来ないわけだが、それにも拘らず、哲学が何かということ自身が、いつも繰り返される疑問なのである。
併し説明の便宜上、哲学というものの主な性質だけをごく形式的に云い表わして見ると、思想の科学[#「思想の科学」に傍点]と云っていいだろうと思う。それは思想を常識的に所有することに満足しないで、之を学問的に一定の確実な根拠の上に立って展開することを意味すると共に、又吾々の眼の前にある多数多種の諸思想に就いて、之を学問的に分析し批判することをも意味している。例えば政治なら政治というものは、常識的には誰でも知っている意義のもので、デモクラシーなるものが正しく又優れた政治原理だと今日の吾々は常識的に信じているが、併しなぜ夫が正しく又優れたものかということに就いては、常識は殆んど何も答える術を有たない。政治学という科学でさえが必ずしもこれのハッキリした根拠を与えるとは限らない。哲学はこうした政治上の思想に向かって、最も広範で又最も統一的な論拠を提供したり、或いは又反対に、之に対する反対のための論拠を与えたりする役割を果すのである。この際、政治学者其の他の専門家の研究はドシドシ活用されるのであって、そういう連絡から云えば、科学[#「科学」に傍点]と哲学との根本的区別はないし又要らないと考えていい。
自然科学でも数学でも社会科学乃至歴史科学でも、又各種の芸術・道徳・宗教でさえも、皆自分の内に思想[#「思想」に傍点]を持っている。思想を世界観[#「世界観」に傍点]又は狭くは人生観とさえ云ってもいいが、この思想というものによって、吾々の日常生活や生産生活や文化活動の一切が貫かれている。この一貫する思想を掴み出して研究するものが哲学だ、と一応云っていいだろう。但し之は一応の話しで、もっと詳細に又具体的に云おうとすれば、この云い方は欠点に充ちているが、それは避けることの出来ない遺漏である。
思想の科学、即ち又世界観の科学、と云ったが、の思想乃至世界観という吾々の全生活を一貫するこの普遍的なものに直接触れるものとしては、哲学の他に宗教が存在する、と[#底本では「と」が脱落]考えられている。宗教が何かということに就いても亦殆んど一致した見解がないと云えるが、併し少なくとも宗教が一種の思想乃至世界観に基く何物かだということは動きのない処だ。では哲学と宗教、思想乃至世界観に基き又はそれを正面から相手にする処のこの二つのものの関係を、吾々は今日一般的にどういう風に考えていいか。
処が両者の関係に就いても亦、古来色々異った関係が存在したし、又従って色々異った見解が並存している。大体から云って区別すると併し、両者が結局に於て一致するか或いは一致しない迄も同じものの二つの異った面とか異った段階とかと考えられている場合と、両者がその密接な事実上の関係にも拘らず本性上、全く相反した相容れないものだと考えられている場合と、の二つに分れる。
哲学が宗教と一つであり又は同じ側のものだという見解は、卑俗な常識として可なり普及しているように見える。この常識説によると、例えば仏教や印度の哲学に於てのように、知識と信仰とが一致するのが、哲学と宗教とのお互いの極致だということになっている。或いはそこまで行かなくても、キリスト教の神学に於てのように、哲学と宗教とはごく密接な近親関係に立っているものと考えられる。そして多くの場合、この種の考え方には、宗教が科学と相容れない又は少なくとも全く場面を異にしたものであって、科学はごく実用的な知識に過ぎないが、宗教は之に反して精神的信仰だという仮定が置かれている。そして哲学の知識は知識であっても科学の知識などとは違って宗教的信仰と非常に近い精神的な知識だ、と仮定されているのである。尤も時によっては、科学と宗教とは一定の条件で妥協出来ると考えられている立場もあるが、それならば、益々そういう宗教上の真理は学問的な哲学の真理と相許すものだということになる。
だが、宗教と哲学とのこの同志説は、すでに哲学と宗教との夫々に就いての、或る特別な注文を仮定しているのである。その仮定の一つは、普通の「哲学概論」などによく見受けられる処で、文化を、科学・芸術・道徳・宗教及び哲学に分けるか、又は文化の価値を真・善・美・聖に分ける処の、宗教独自の領域、而も人類の存在と共に永久不変な聖域を想定する宗教の所謂アプリオリ(先験)主義である。宗教は人間本来の要求(神とか無限とかへの)に基く、という非常に普及している俗説が之である。もう一つは、哲学というものが何か聖人めいたりする観念上の思索や煩悶や達観に帰着するとする卑俗な見解である。この後の方の見解は哲学を例の思想の科学だと云ったあの科学的[#「科学的」に傍点]な性質をば哲学に就いて軽んじるものであって、つまり哲学とただの世界観的常識との区別を抹消して了うものだから、今は一顧の価値も有たない。[#底本では「。」が脱落]問題になるのは、哲学と宗教とが、夫々独自の而もお互いに仲のよい、二つのアプリオリ(先験的な立場)に立つものだという領土協定説である。哲学は学問的な[#「学問的な」に傍点]世界観だ、之に対して宗教はもっと深い又はもっと高い又はもっと切実な信仰に基く[#「信仰に基く」に傍点]世界観だ、というのである。
併し之は明らかに事実に反する領土協定説に過ぎない。広く観念論[#「観念論」に傍点]と呼ばれているものの多くは確かに宗教に対して協定を取り結ぶことは出来るが(自分では却って観念論を否定するかのように云っている処の観念論も例外ではない)、観念論に対立する唯物論[#「唯物論」に傍点]は寧ろ宗教の
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