配力と平行した支配力を有つ哲学は、ブルジョア哲学であろうと封建的哲学であろうと、ブルジョア哲学にぞくさねばならぬわけだ。区別はその後に与えられねばならぬ。
 かくてブルジョア社会に於ける支配力と平行して支配的である哲学が、ブルジョア哲学というものの意味であるが、このブルジョア哲学の諸形態の多くが、今日観念論だというのである。
 観念論の規定は精神から自然を説明することにあると云われている。この際精神とか自然とかいう用語は、一定の哲学史的常識に沿うて用いられているわけで、この言葉を別の仕方で理解するなら、この規定は全くの無意味にさえなるのであるが、従って吾々は常にこの種の規定を、現在に生きている具体的なカテゴリーによって具体化してしか実用に供することは出来ないわけだ。だから之を以て直ちに観念論の形式的な定義だなどとは思いもよらぬので、吾々は現下の文化事情にそくして、観念論を歴史的に定義しなくてはならない。所で今日の観念論、つまりブルジョア哲学は、どういう規定をもっているか。
 古来からお誂え向きに出来た露骨な観念論=観念唯一主義や精神万能主義=などは極めて少なかった。露骨な観念万能主義を被覆する点に於て複雑化したことは、特に今日の観念論の特色をなす。今日の観念論は極めて高度の発達をしているから、心理学的な意識や精神、自然科学的な自然や物質、を直接の問題としない。例えば自然と云われるものはもはや自然科学で取り扱っている自然ではない、そういう自然は本当の自然のほんの常識的な一部分に過ぎない。本当の自然はその内に客体と主体との対立の統一を含んでいる。その意味から云うと自然の内には精神が含まれている。否精神と自然とが対立し乍ら一つに統一されることによって、初めて自然も精神もあり得るのだ、云々と云う。この際の精神なるものは無論心や観念のことではなくて、かの形而下的でない、超物理的な、自然の対立物としての或るものなのだ、という具合にである。
 用いられるカテゴリーがこのように形而下的で日常的なものから、形而上的な形而上学的なものにまで変質するのが、今日の観念論の一つの共通な特色である。尤もこの際如何に形而上的なカテゴリーが事物の関係を説明するにしても、その説明が説明される事象自身にピッタリ要点々々で当っているなら、その結果は決して形而上的だとは云われない。処が観念論の特色は、そういう実証的な検証を与えることも出来ないし、又与えようとも欲しないという処にあるのである。人間にぞくすべき主体のモメントが自然の内にすでにあるという、そういう主体的契機がなければ自然は哲学的なカテゴリーにならぬという。そういう自然が何等の実証性を有たないことは、宇宙開闢直後の自然に就いてでも考えて見ればすぐ判ることで、今日の自然科学的常識は、人間のいない自然がまず存在したことを実証する観察や実験に基いているからだ。
 観念論はここに実証界と非実証界との不遠慮な峻別を想定している。と云うのは実証界に就いての理論の代りに、非実証界に就いての理論を以て、凡てを悉そうとするのである。之は単純なことであり、知れ切ったことのように思われているが、実は根柢的な意味のあることだ。古来の所謂形而上学に対する不信は、単に形而上的なカテゴリーで物を云うから起きたのではない。哲学が物理的・形而下的・なカテゴリーだけで物を云うことの出来ないのは当然であって、そこに哲学の深い真理もあるというものだが、併し不信を買った根拠は、実証界とは独立に非実証界の秩序を打ち建て、この天上の秩序を以て地上の秩序におきかえたり、之に干渉したり、之を統制したり、しようとする企ての内にあったのである。
 神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返せ、ということから始まって、神のものはカエサルのものを支配することとなり、更に神のものがカエサルのものとなり、又逆にカエサルのものは神のものとなる。神の秩序のカエサルの秩序からの独立、神の国のカエサルの国からの独立、そして前者の支配、それから前者の唯一独立存在、理論の上でそういう事情になるのが、古来の形而上学の特色であった。今日の観念論はそういう形而上学の理論的に精練されたものに他ならない。

 現代の観念論は併し、観念論として他に特有の発達を持っている。従来の観念論は精神や観念を中心概念として持ち出した。その後の近世観念論は意識という根本概念を中心とした。実体論から認識論にまで進んだのである。だが認識論は一方に於て意識の歴史的内容に注目しなければならなくなり、意識は認識論からフィロロギー(文献学)主義の世界へと移された。歴史的観念論は歴史からフィロロギーを導き出したのである。かくて意識は今や論理学的乃至先験心理学的な意識から、文化論的な意味に於ける意識にまで、つまり「意味」というものにまで、変って来たのである。観念も精神も意識も、この意味[#「意味」に傍点]というものに帰着する。意味とは事物の存在ではなくして事物の存在が吾々にとって持っている処の「意味」のことなのだ。勿論事物自身とそれが有つ意味そのものとは別であるが、実際は事物が意味を有つ[#「有つ」に傍点]という一つのリアリスティックな関係が大切なのだ。
 処が現代の観念論の最も進歩した形のものは、この意味を事物そのものから脱臼して、意味は意味同志、他の「意味」との関係に置かれることを、最も手際のよい哲学的理論と考える。それが解釈[#「解釈」に傍点]ということであり哲学的説明[#「哲学的説明」に傍点]ということであって、この際事物に当るものは、もはや事物ではなくて意味の所有者という資格を新しく与えられた「表現」というものになる。初め事物が意味を持っていたのに、今度は意味がその担い手であるものを生産して之を表現と名づける。表現はもはや事物ではない。茶碗は手工業によって粘土から造られたものであるなしに拘らず[#「あるなしに拘らず」に傍点]、とに角時代や民族や社会の生活の一表現[#「一表現」に傍点]に他ならない、ということになる。
 でつまり、事物の実在の世界[#「実在の世界」に傍点]と意味の通用の世界[#「通用の世界」に傍点]とが区別されることによって、事物の物的存在は表現の意味的表出に変って了ったわけだ。ゲーテはイタリヤ旅行に際して、歴史上のローマも亦一つの自然であると云ったが、この観念論の方はローマの水道も亦一つの意味の表現である、と云うことになる。なる程そう云えばローマの水道が或る人間的意味を現わしたものであったということは云い現わされるが、ローマの水道の表現する意味とポンペイの壁画やアレナの廃趾が表現する意味とを、この観念論はどう結合しようとするのであるか。高々ローマの工学的精神と淫蕩振りとを結びつける他はない。要するにローマの文明自身を以てローマの文明現象自身を説明するわけである。
 このようなロジックは今日の発達した観念論に特有なロジックだ。表現の論理学とも意味の論理学ともいうことが出来よう。観念論の論理を単に形式論理学という側面からばかり把握してはならぬ。解釈の論理こそ今日の観念論の論理だ。そこでは意味と意味との連関だけが解釈される。之によって事物そのものの実際的な説明や実地の処理は少しも捗らぬ。西田哲学に於ける無の論理は、こうした論理の天才的水準を示すものだろうと私は考える。
 であるから現代のブルジョア観念論の新しい特色は、神の国と地上の国との区別という、かの神学的なカラクリを、主体や意識や意味という観念を中心とすることによって、新しい衣裳の下に再び持ち出したということにあるのである。今日のブルジョア観念論は往々、ヒューマニズムや文化主義の被服を纏った神学に他ならない。観念論の本質は、今日でも依然としてその特殊な形態による僧侶主義にあるのだ。

 観念論哲学がとどのつまり神学と僧侶主義とに通じることは、別に今日になって始まったわけではなく、寧ろ観念論の本来の規定にすぎないのであるから、之をブルジョア哲学の宗教化[#「宗教化」に傍点]という風に云い表わすことは出来ないが、併し抑々観念論が種々の形で宗教化し得る[#「得る」に傍点]根柢を用意しているものであることを、忘れてはならぬ。
 だが宗教化とは何か、或いは此の際の宗教とは何を指すか。或る種の批評家はマルクス主義さえが一つの宗教だという。云う意味はマルクス主義が何か一つの教義と儀礼とを特有しているからというばかりではなく、その世界観が科学的に冷静公平でなくて寧ろ信仰と独断的信念に近いから、というのである。之によって一体宗教というものが良いというのか悪いというのか、私には意のある処が判らぬ場合が多いのだが、とに角、マルクス主義は信仰だから宗教だというらしい。だがもし信念を有つということが宗教なら、一切の科学者の主張は宗教的なこととなる。もし信念と信仰とが違うならば、なぜマルクス主義は信念ではなくて信仰だと云うのだろう。
 主観的な個人的意識が、信念であるか信仰であるか、之はプロテスタント風に考えれば問題にならぬことであり、又之をカトリック風に考えるなら、もはや個人の主観的な意識の問題ではなくて、教義や儀礼の問題に解消する。そこで個人の心情に基くと考えられるモラル的宗教内容は、この際どうでもよい。安心立命したいものはするがよく、事実迷っているものは迷うがよい。その限り之は私事である。というのは世界の秩序とは関係がないのである。之は宗教学的に云うと重大な宗教現象であるが、私が今問題にしている範囲ではネグレクトして構わない性質を持っている。もし単なる心情における信心がそういうものとして止まることが出来るならばだ。
 処が実際には、決してただの心情に止まる宗教はないのである。個人の修養を標榜するように見える修養宗教も、実は忽ち社会的闘争からの脱却を説いたり、社会的不幸の正当化を説教したりせざるを得まい。そういうものに触れない抽象的な宗教的心情や信仰はあり得ないからだ。するとそこに必要なものは必ず、何かの思想体系[#「思想体系」に傍点]である。神学教義なのである。そしてその神学組織たるや、必ず例の神の国の秩序と地上の国の秩序との対立乃至交換というタイプにぞくするのである。そうでなければ、生きた社会科学的知識や文学的知恵の代りに、わざわざ「宗教的」な心情や信念や信仰は要らない筈だったのだ。
 既成宗教の有っている習慣、それは歴史的に年の甲を経ていないと、大抵奇怪で野蛮でインチキに見えるものだが、そこに宗教的儀礼のセクト性や非社会性が見出されるので、多くの宗教擁護者は、これ以外の処に宗教の本質を見ようとする。そうすると勢い宗教的な情操か宗教的教理に、宗教の本質を求めざるを得ない。処が宗教的情操の方は、今云ったように、もしそのものに止まるならば社会的内容としては無内容なものだったから、結局に於て宗教の本質はその神学的組織に帰するということになる。宗教の本質をその既成のクルトゥスや情操に見ずに、専ら教義に見ようとするのは、悪合理主義的で又観念的な見地にぞくすると考える向きもあるだろうが、併し観念論と宗教との握手する周知の秘密を明るみに出すためには、ここが宗教の本質とならねばならぬ。
 かくて観念論は本質に於て宗教的神学なのであり、宗教はそしてその本質に於てこの観念論的な神学なのである。文学現象も道徳現象もあるように、社会的に眼に見える形態を取った宗教現象のあることは云うまでもないけれども、又文学も道徳も思想であるように、宗教も一つの思想である。その限り元来宗教は哲学なのだ。そこでその思想の体系がなくてはならぬ。宗教的思想体系がロジカルな形をとったものが神学だ。そして夫が取りも直さず観念論の体系のことだったのである。その体系の完全に共通な一般特色を私は述べて来たわけだ。
 だが神学が神学の形で栄えることの出来たのは、要するに中世である。という意味は、自然的知恵に於て暗黒であった中世(他の文化について暗黒だったのでは決してない)、即ち社会的環境それ自身が非合理的
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