て、宗教復興は全くジャーナリストの類推的な思いつきでしかなかったかも知れないのである。日本民族宗教が、教育・政治・外交・経済又哲学・文学に於てさえ復興・台頭しつつあるということが、日本の「宗教復興」全般の本質なのだ。
だから「宗教復興」の現象を、社会に対するプチブルの不安の意識から説明することは、嘘ではないとしても、決して事物の本質を衝くものはないのである。軍義的分子と官僚とを引き具する所の日本型大ブルジョアジーの刹那的な安心[#「刹那的な安心」に傍点]の表現こそ、日本特有の「宗教復興」の本質をなす。――無論、大ブルジョアのこの刹那的な大安心は、小ブルジョアにとっては却って不安の種にもなろう。丁度積極的な階級にとっては夫が憤怒の種にならねばならぬと同じに。
二 宗教団体法案はなぜ必要か[#この行はゴシック体]
議会に提出すべき「宗教団体法案」の草案が文部省の手によって決定された。いわゆる宗教法案なるものは宗教家の側からする多年の要望だったのであるが、しかしそれと同時に信教の自由の建前からいって、宗教そのものを官庁が取締るかのような宗教法案は、宗教家自身の感情からいってもすぐ様賛成出来ないものだろう。宗教法案の立案が企てられて以来三十余年に至る今日まで、該法の成立し得なかった理由の一つはここにあったろう。
そこで今案が決定された法案が、実はいわゆる宗教法ではなくて、宗教団体[#「団体」に傍点]法であることを注目しなければならない。宗教そのもの(もしそういうものがどこかにあるとすれば)を取締るのではなくて、単に宗教団体だけを取締ろうというのが、この法案の自慢したいところだと思う。
尤も宗教団体を取締ることが、実質上は宗教自体の取締りを意味して来ることは自明なことではあるが、然し今大切な点は、仮に名目上の問題であるにしても、少なくとも宗教そのものの自律、いわゆる信教の自由、というものを日本の支配者機関が尊重し又尊重するように見せかけるという、その心がけ自身にあるのである。なぜそう云うかというと、実際には一種の信教の自由にぞくしている処の「思想」の自由などは、こうした名目上の問題としても、今日すでに決して認められてはならないからである。たとえば「民族的信念」(これも確かにその言葉が示す通り信教にぞくするだろう)は、その内容の巨細に至るまで取り締りを受けねばならぬことが、政府によって声明されている。これから見ると宗教の方は殆んど極楽浄土の感なきを得まい。
だがこれは、今日の日本の「宗教」なるものが、その一切の差異にも拘らず、つまり本質の一定した間違いのないもので、それが「宗教」である限り特に取締りを必要としない底のものであることを、ハッキリと告げているのである。支配者当局は考える、取締るべきものは宗教ではない、却って宗教類似のもの、新興宗教・類似宗教・インチキ宗教・その他等々だ、宗教をして不逞な思想の類に太刀打ちさせるためには、まず宗教そのものをこうしたものから護らねばならぬ、と。そこで宗教団体法なるものが出て来る。
だから宗教団体法は宗教をその社会的不信用から救済する使命を持っている。第一、教派・宗派・教団・を法人とすることによって、宗教団体の主脳者と財政との関係を切り離し、管長や教団代表者が金銭上の汚名を受けることを妨ぐ。それから第二に、いわゆる類似宗教(これを本当の宗教団体から区別して宗教結社と呼ぶ)を宗教団体に準じて取扱うことによって、これを向上昇格させる。そうすれば少なくともインチキ宗教と非インチキ宗教とを区別することに役立ち、宗教が元来決してインチキでないということを、特に社会に明示するのに役立つのである。宗教団体法がインチキ宗教取締りの目的を有っているというのは、この意味においてなのである。
要するにこの宗教団体法案なるものは、宗教団体の社会的経済的存在における世間的な信用を高め、従っておのずから間接に、しかし的確に、宗教そのものの社会的権威を擁護しようというのである。単に信教の自由を許すとか奨励するとかいうのではない。積極的に宗教を(だが必ずしもその自由をではないことを注意せよ)押し立て、ひけらかす。それが政府の宗教団体法の社会的意義だ。宗教はいつの間にか社会の、為政者の、それ程大切なペットかマスコット見たいなものになっているのである。
文部省はすでに学校における宗教教育の採用について苦心を払っている。教育における明治初年来の政教分離の方針には、大いに手心を加えよと学校に向かって訓令している。宗教的情操は教育上絶対に必要だと告白している。宗教は今や日本にとって非常に大切なお客様となった。インチキ宗教(もしインチキでない宗教があったとすれば)が流行するということ自身もまた、これと全く同じ日本社会のお客様としてなのである。
だが凡そ宗教についてそのインチキと非インチキとをどこで区別してよいか、無論当局の誰にも判るはずはない。誰か烏の雌雄を知らんや焉である。そこで宗教の代りに、宗教団体の方を標準にしてこれを決定しようというわけなのである。
三 大本教与し易し[#この行はゴシック体]
一九三六年三月十三日を期して、かねての懸案であった大本教禁圧が実行された。司法大臣は出口王仁三郎以下八名の大本教幹部の起訴を検事局に命令し、同時に内務大臣は皇道大本以下八個の大本教団体の解散を発令した。大本教幹部の大本教に基く罪状が不敬罪と治安維持法違反である以上、同教諸団体の解散は当然と云わねばならぬ。
だが大本教を以て所謂邪教の代表と見做すことは必ずしも当っていない。自然科学的真理を蹂躙し更に又社会科学的真理を蹂躙するものは、豈大本教に限ろうか、否豈所謂邪教[#「邪教」に傍点]に限らんやだ。いや豈宗教[#「宗教」に傍点]に限ろうやだ。大本教が特に弾圧の代表者として選ばれたのは正に夫が単なる邪教ではなくて、もう少し凄みのある邪教、即ち所謂妖教[#「妖教」に傍点]・怪教[#「怪教」に傍点]であったからだ。妖怪や化物は一種の凄みを有っている、なぜかというと夫は何等かの現実に似て[#「似て」に傍点]いるからだ。吾々の現に知っているものに似かよった処があればある程その凄みに現実味がある。それが化物のもつリアリティーというものだ。まるで見たこともないような別なものなら恐れることも慄えることもあるまい。
大本教の犯罪味は前にも云った通り不敬罪と治安維持法違反とである。即ちいずれにしてもその不当な皇道主義を標榜した点がいけないのである。わが国家の神聖を保持するためにはかかる妖気は払い清めなくてはならぬ、それが又わが国に於ける宗教そのものを護るためのお祓いにもなる。かくて大本教は処断された。私は為政者と共に之を欣快とするものである。
併しそれはそうでも、私は大して飛び上る程うれしいとは思わない。大本教が如何に妖凄だとは云え、司法省や内務省が、宗教的な(いや寧ろ反宗教的な?)行為しか出来ないような物理的に無力なこの一勢力を、やっつけることが出来るということは、あまりに当り前のことで、今更出かしたとも有難いとも感じない位いだ。これは司法大臣が選考し直されても、警保局長が休職更迭になっても、大丈夫出来ることだからだ。この妖怪めいた皇道主義振りや妄想的な政治的信仰ならば、之を祓い潔めるためには一通の電話と一葉の命令書で充分なのである。
尤も容易しいことを敢行したからと云って批難する人間はいない筈だ、これはやさしいことであったには相違ないが、その効果から云えば絶大で徹底的な意味を有っているのだから、やはり吾々は大いに喜ぶべきだろう。と云うのは、大本教が弾圧された結果、大本教と普通の宗教とを加えて二で割ったような偽似怪教とでもいうようなものが生長するのではなくて、大本教の宗教行為だけではなくその精神や意図そのものまでが、完全に合法性を失って了ったのである。大本教弾圧はその意味に於て大本教に取っては完全に零化かマイナスを意味する。大本教はいい気になってばかりいたため、その精神を何とか活かすためにみずから、予め不敬な点や治維法違反の点を整理する建前を取って見せることに気づかなかったから、今回のような徹底的な失墜を招いたのである。もし大本教にしてもう少し尤もらしい自己統制を行なうことが出来たら、この世の中は却って益々大本教的になって、その精神や意図が実質的に実現出来たかも知れない、危い処だった。
何年の何月何日に建直しが行なわれるという代りに、徐々に建直しが行なわれたり何かするのだったら、世の中は知らぬ間に大本教のものになって了ったかも知れない。而も世間の人間は夫が一向大本教的であるとは気がつかぬかも知れない。邪教や妖教的になったとは思わずに、ノルマルに宗教的になったと世間では考えるかも知れない。――処が幸にしてそこを大本教は覘うことを知らなかった。併しもう片づいたのだから少なくとも大本教に限っては、心配は無用だ。大本教は非常時主義[#「非常時主義」に傍点][#底本では「教は非常時」に傍点]から見事に落伍したのだから。
[#改頁]
27 ブルジョア哲学とその宗教化的本質
今日のブルジョア哲学は、いうまでもなく、殆んど総て観念論である。観念論という規定は言葉としては稍々マンネリズムに堕した感がなくはないが、併し今日夫が意味する内容に就いて云えば、極めて、生々とした概念だといわねばなるまい。それはあとに述べるとして、今日の所謂ブルジョア哲学というものが何を指すかも、問題でなくはないのである。この点を少しハッキリさせておかないといけないだろう。
元来の単純な意味ではブルジョア哲学とはブルジョアジーのイデオロギーとしての哲学を指すのである。つまりブルジョアジー階級の哲学であるが、ブルジョアの階級哲学と云ってもいいだろう。ブルジョア階級出身の哲学者による哲学には限らぬ、又ブルジョア階級にぞくする哲学者の哲学には限らぬ。又ブルジョアジーの経済的・政治的・文化的・利害乃至意識を、無意識的又意識的に表現した哲学だけがブルジョア哲学でもない。なぜかというと、現代社会は勿論ブルジョアジーだけで出来上ってはいないが、それにも拘らず資本制の支配する社会なのである。だからブルジョアジーの経済的・政治的・文化的・な利害や意識を、必ずしも直接に云い表わしたものでなくても、それがブルジョア社会の支配的権力と観念的[#「観念的」に傍点]連絡がありさえしたら、やはりブルジョア哲学なのである。ブルジョア社会に於ける政治的支配と平行して支配的な哲学、という意味でも亦ブルジョア哲学の名は価値があるのだ。
日本のブルジョア社会に於て支配的な政治的権力を持つものが、必ずしもブルジョアジー自身でないことは、勿論のことだ。或いは純粋なブルジョアジーは日本のブルジョアジーを代表するものではないと云った方がいいだろう。封建的・軍義的・官僚的なファッショ(日本型ファッショ)が直接の支配者である。だからもし、ブルジョア哲学なるものを、ブルジョアジー自身の、又は純然たるブルジョアジーの、哲学に限定して了うなら、日本に於けるブルジョア哲学は、極めて数が少ないか或いは極めて微力であるか、それとも全然今はないとさえ云っていいかも知れない程だ。では今日の多くの日本主義思想乃至哲学、東洋的神秘主義と見做されているもの、其の他等々はブルジョア哲学ではないのか。少なくともそういう日本ファッショ哲学乃至日本ファッショ的哲学は、このブルジョア制社会に於て、支配的なのだが、そういう支配的な哲学はブルジョア哲学ではないのか。ブルジョア哲学が、単純にブルジョアジーの哲学だと云って片づけられない所以である。
西田哲学がブルジョア哲学か、それとも封建的哲学であるか、という問題が出されたこともあるが、この設問はだから同じく誤っているのである。日本の多くのブルジョア哲学が封建的な関心なしにはブルジョア哲学になり得ないということが、大切な要点だ。つまり日本のブルジョア社会に於て、その政治的支
前へ
次へ
全46ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング