理由があるのである。この風俗的魅力とは思想における最も抽象的な共通物のことであって、丁度猥談が最も抽象的で共通な論議であるようなものだ。軍人や学者や政治家や実業家という偉い人達が、類似宗教に投じる所以であって、その際インテリの既成宗教についての教養などは、問題にならぬのである。――小僧をもっとよく働かせる手段として「ひとのみち」の類を信仰するのだ、という風にばかりは私は考えない。もっと親切な(?)見方が必要のようだ。
 さて新興類似宗教のこの特殊な風俗的魅力は何だろうか。つまり何だって見識のありそうな人までがこういう無知なグロテスクなものに熱中しなければならぬか、ということである。内務省と文部省との意見が一致した処によると、そこには大体四つのものがあるそうである。第一、既成宗教が無気力であること。第二、大衆の生活不安と思想混迷。第三、医療制度の不徹底。第四、宗教復興・精神作興・の声の利用。というのである。
 当らずとも遠からずの説明ではあるが、しかしこれをどういう風に理解するかで、見解は全く別なものにもなるのである。既成宗教が無気力であるために類似宗教が勃興して来たというのは本当だが、それでは既成宗教を盛大にすれば類似宗教はそれだけ下火になるのだろうか。宗教団体取締法によって宗教を国家的に統制したり、また権威づけたり、学校に宗教情操教育を持ち込んだりすれば類似宗教は多少とも参るだろうか。いや一体そういうやり方でいわゆる既成宗教の気力とかが生じて来るだろうか。宗教の気力は一つの場合には政治的な反抗意識として、また他の場合には地上の権力的支配意識として、燃え立った歴史を持っているが、今日の日本の既成宗教にそういう気力は絶対に期待出来ない。
 大衆の生活不安なるものの内には医療制度の社会的不備を含ませねばならぬ。非科学的治療を信頼することが迷信であるというような観念は、単に医学博士的なまたは自然科学の教授然たる迷信の観念にすぎぬ。類似宗教のインチキ治療が、医者の治療よりも安そうだと思えばこそ、同じ死ぬなら金のかからぬ治療方法で以て死のうという次第なのだ。だから迷信を極めて合理的に運用している場合もあるのだということは、注目に値いする。これが迷信的治療の極めて理想的な本質なのだ。迷信にさえ理性的本質を与えるということが、今日のいわゆる生活不安の悲しむべき作用なのである。

   三[#「三」はゴシック体]

 類似宗教台頭の原因の一つを、現代思想の混迷に帰せようとする内務・文部案もまた、間違ってはいない。だが一体今日の思想は混迷しているのだろうか。マルクス主義乃至唯物論の側に立つ思想も、勿論今は絶対的安定を得ているなどということは出来ないが、しかし結局においてハッキリとした見透しを持っているわけで、混迷などとは似ても似つかぬ事態の下にあることを、思い出さねばならぬ。混迷している思想というのは、ある特別な思想に限るのである。
 思想の混迷とかいうものはどういう時に発生するか。既成思想の崩壊に当って、これに代るべき新しい生きた思想が、与えられない時だ。あるいは与えられたように思われても、その与えられたのが輪郭[#「輪郭」は底本では「輸郭」と誤記]の潔くない、その意味で不潔な、尤もそうなまた尤もらしからぬ、不信用な観念である時である。そして特に、当然行くべき思想段階に行きつこうとして、しかもそれを強力的に妨げられる時、思想は最もいちじるしく混迷し腐敗するものなのだ。
 だから思想の混迷を矯正するといって、思想を強制的に統制[#「統制」に傍点]しようとし始めたりすれば、それこそかえって思想をくさらせ[#「くさらせ」に傍点]て混迷に導くものなのである。内務省や文部省が思想の混迷を類似宗教発生の一原因と見なす場合、思想の進歩と代謝とを圧制することによってこれを混迷させたものも自分達なら、また次にこれを強権的に統制して重ねて混迷へ導くものも、自分達自身であることということを、あるいは自分でも知らないだろう。類似宗教征伐に最も熱心であるものが、あに計らんや類似宗教の温床であるということ、こういう一種の「インチキ」は政治事情の上ではいつもあることだ。暴動を鎮圧したと見せかけるのが暴徒の一味だったり何かするものである。
 最後に、宗教復興・精神作興・の声を利用して類似宗教が進出したという関係当局の見解は、最も天晴れといわねばならぬ。全くそうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出とは、社会的に同じ本質の二つの現象だと云っているのである。特に注意されてしかるべき点は、類似宗教中、最もインチキな部類にぞくすると見なされて、社会で兎や角話題になるものの大部分が、何等かの神道に関係の深いものだということだ。大本教・ひとのみち(扶桑教にぞくす)を初めとして、天津教・島津治子教(?)・などいずれもそうだ。脱税問題で問題になりかけたり教義についてある種のうわさが流布されたりしている天理教を見てもよい。とに角「類似宗教」乃至類似宗教類似[#「類似」に傍点]の宗教は、惟神の道や国史的言論と密接な関係があるということを、あくまで重大視せねばならぬ。
 それであればこそ、却って初めて類似宗教は大体において不敬問題をひき起しやすいのである。島津治子女史一味の不敬は精神病学専門家の判決(?)によると、精神病に原因するそうで、一味の婦人達はにわかに松沢精神病院へ収容された。だが、幾人かの婦人達がある特定の不敬な妄想内容を共通にするということは、恐らく精神病学的に特別な興味をひくものだろう。精神病のこの種の社会的[#「社会的」に傍点]カテゴリーが発見されれば、今後の歴史家は歴史上における反動現象を記述するのに、大変重宝がることだろうと思う。と同時にこの調子で行くと、社会思想を取締るには、すべてこれを社会的宗教的な発狂と診断すればよいことになりそうで、安心がならぬわけであるが。
 島津治子教の不敬は病理現象だとして、天津教の如きは極めて手の込んだ国体的文献学に基いているらしい。形式からいって、また内容からいって、この教えが不埒であることは、狩野享吉博士が鑑定し証明した通りだろうと思う。また大本教の不敬についてはあまりに有名だし「ひとのみち」その他のものといえども決してそういう羽目に陥らぬとは断言出来ぬ。
 だが問題は不敬宗教が決して、不逞[#「不逞」に傍点]な意図から出たのではなく、かえって宗教復興・精神作興・の意図そのものの側から出て来ているものだという点にある。不敬を生んだものはほかならぬ敬虔[#「敬虔」に傍点]の社会的強制そのものなのだ。――要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義[#「宗教主義」に傍点]の単なるカリケチュアに帰するにほかならない。だから眼くそが鼻くそを笑うことは出来ない筈である。
[#改頁]

 26 社会不安と宗教

   一 日本の宗教復興は小市民的不安からか[#この行はゴシック体]

 この二三年来の日本の観念界は一種の「好況」に見舞われている。私は之を復興景気[#「復興景気」に傍点]と名づけるのが最もいいと考える。所謂宗教復興も亦この復興景気の一部分として、少なくとも世間のジャーナリスト達から持てはやされているのが事実だ。一例を挙げればJOAKの聖典講義、その産物である友松円諦氏の仏教解説書、それが意外に売れたというので、色々の出版業者の宗教物出版熱。之がこの現象の最も著しいものの一つである。この現象の最も手近かな物的原因のひとつは、云うまでもなく満州事変であって、軍事的戦場として、又軍事的資源地として、更には市場・資本投下地・過剰人口移植地として、満州は日本資本主義の一つの血路を約束するように見えた。之と直接政治的連絡のある軍需工業の隆盛、それからインフレーション、低賃銀対外為替安による軽工業製品・化学工業製品・手工業的製品・の輸出の隆盛によって、日本資本主義の修正可能論が台頭したのであるが、この関係が、この現象の第二の最も手近かな物質的原因だ。之によってマルクス主義的世界観は大衆や市民がまだその根本的な核心に触れるに至らない内に、早くもジャーナリズムから以前の露骨な姿をかくして了い、それが当局の左翼弾圧の強化の結果である転向風景が点出されることによって、更に政治的に裏づけられた。中でもジャーナリズムに於けるこの復興景気に貢献したのは、左翼文壇の文学主義[#「文学主義」に傍点]的モラルへの「転向」であって、少なくともジャーナリズム上の宗教復興は、この文学ジャーナリズム上のモーラリズムの動きと切り離しては考えられない。
 だがこうした手近かな原因の背後に、もっと国際的に広範な又もっと前から歴史的に作用している所の、幾つかの条件が置かれている。現に満州事変そのものが、元来五・一五事件と全く同じ系統のものであるらしいのだが、この事変の意識的動機になっている観念(之をジャーナリズムは簡単にファシズムと呼んだが)は、云うまでもなく日本資本主義の長く歴史的に蓄積された危機から発生した、日本特有の形式のファシズム観念だったのである。一体日本に於ては、ブルジョア・イデオロギーは農民労働者は云う迄もなくブルジョアジー自身にとってさえ、決して親しいものではなかった。夫は殆んど全く小市民的インテリゲンチャのブルジョア的教養として国外から受け取られたものに過ぎなかった。
 そこで権威のあったマルクス主義的思想が一旦沈静するとなると、それの代りとして模索されるものは、ブルジョア的観念或いはそれの変容と云うよりも、寧ろ夫によってまだ侵透されるに至らなかった半封建的な世界観でなくてはならなかった。仏教という封建的な思想上の伝統を持つ日本においては、この半封建的観念への模索は、一見、何よりも仏教復興[#「仏教復興」に傍点]として、或いは寧ろ仏教への模索として、現われる理由がある。之が宗教復興の俗衆的[#「俗衆的」に傍点]な場合である。即ち比較的知能の低い社会大衆は、仏教と云う旧文化財に何か未知の尊いものがあるように思ったり、又あることを知っているような顔をしたりするのである。
 この型の仏教復興は併し、資本家的イデオロギー自身が頽廃変質して生じた、例えばドイツ哲学の最近の動向に於て見られるような、哲学その他に於ける神学復興[#「神学復興」に傍点]、と無論一つではない。仏教復興の方は、小市民的インテリジェンスからは縁遠いブルジョアや小市民や、又農民労働者の一部分を、相手にしているのである。だが、日本の小市民的インテリゲンチャの代表的な或る分子に於ては、仏教復興よりも先に、今云ったかの神学復興の方が著しく見られるのである。ここでは仏教復興も社会大衆的な宗教復興としてではなく単に神学復興の一つの場合として現われている。哲学の合理的脊柱の喪失、実証的科学への不信が、小ブルジョア・インテリの思想組織を駆って、超実際的なものへ、神秘と形而上学とへ、赴かせる。之が神学復興だ。之が宗教復興の小市民インテリ的形態で、高級ジャーナリズムに於ける宗教復興の現象をなす所のものなのである。
 民間宗教(之は往々民間治療と密接に結びついているのだが)が盛んになって来つつあるという現象は、所謂宗教復興[#「宗教復興」に傍点]とは少し異った場合である。なぜなら宗教復興というものは実は、ジャーナリズムに現われそうな一現象を、ジャーナリスト達がそう名づけたものに他ならないからで、そしてそこに、所謂宗教復興とジャーナリズムとの、切っても切れない連関があるのだから。
 だが、下級高級のジャーナリズムにおける仏教復興や神学復興も、又ジャーナリズムと必ずしも直接関係のない民間諸宗教の盛大も、ジャーナリズムを含めて一切の日本社会機構に溢れる日本民族宗教の復興[#「日本民族宗教の復興」に傍点]・台頭[#「台頭」に傍点]・に較べたならば、殆んど問題ではない程小さな意味しか持たない現象だ、ということに注目しなければならない。この根本現象さえなかったら、世界的宗教の儀礼に慣れぬ日本などに於
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