教=インチキ宗教として犯罪取締りを受けるのは、一般の思想犯と共通な点であるらしい。社会では大本教の持っている異常精神的奇怪味を目してインチキといっているのかも知れないが、それならば天理教(これは公認された宗教だ)のファナティシズムにだってあることで、独り大本教だけのものではあるまい。法律的にインチキなのは大本教が広義において不敬な点だけにあるのだ。これに反して、アメリカ人キリスト教宣教師が最近日本で出版した『最近の日本』なる文章が、皇室の尊厳を冒涜するという理由で新聞紙法にひっかかった、という例があるが、然し世間では、この宣教師の宗教行為を不敬だとはいっても、邪教とかインチキ宗教だとかは言わない。ここで矢張り宗教[#「宗教」に傍点]の健全不健全、正信と邪教の代りに、一般にその思想[#「思想」に傍点]が日本主義的であるかないかが問題にされているに過ぎない。何が宗教[#「宗教」に傍点]の健全さかは、依然としてわからぬ。
では「ひとのみち」はどうか。これもまた、検事局の手入れがあったが、「み知らせ」による病気治療や「お振替え」(信者は便法上自分の不幸を教祖御木徳一の身へ振替えることが出来るという)の説や金銭取立てのからくりや、またその特有なエロティシズムは、社会常識から見て極めてインチキであり、淫祠邪教の尤なるゆえんを示していることは明らかだ。だが西方浄土の説や本山末寺の金銭取立て組織においては、これは敢えて本願寺の敵ではないのである。病気の治療と信心とを結びつけるから邪教だというなら、社会的不幸の治療と信心とを結びつけることは、なぜインチキではないのだろうか。こう考えると、健全な宗教はエロティシズムにはよらぬところの宗教のことにでもなりそうだ。これではお話しにならぬ。
ところで、次に「生長の家」は自分では宗教でないといっているが、世間ではこれを一種の宗教と認定している。思念しただけで一切の病気・不幸・困難が姿を消すという誇張された精神主義が、即ち宗教だと世間では見ているのである。だが、生長の家自身これを宗教とは考えず、寧ろ凡ての信念の帰着点だと主張していることには、大いに意味があるのだ。というのは、世間では、そういうことが取りも直さず「宗教」ということで、そして同時にそれが「邪教」=「インチキ宗教」というものだと見ているのだからである。――つまり宗教でないものも、それがインチキであることによって忽ち宗教となる、というわけだ。生長の家が出版企業と宗教とを結びつけたがゆえに初めてインチキ宗教になった、のではない証拠には、たとえば出版企業と出版報国とを結びつけてもその報国活動がインチキにならぬことを見ればいい。
さてこの辺から、少なくとも宗教のインチキ性が何かということがわかりかけて来る。インチキに見えるのは、その荒唐無稽な精神主義、その意味における迷信[#「迷信」に傍点]と、その迷信が何かの条件で社会的な価値として通用[#「通用」に傍点]しているという点とにあったのである。だが宗教的迷信に正信[#「正信」に傍点]を対立させ、真理[#「真理」に傍点]を押し立てるらしい友松円諦氏等の「真理運動」派は、果して荒唐無稽な精神主義ではないのか。なるほどこれは、自然科学の成果を無視しないどころでなく、大いに尊重して見せるという点において、即ちそれを上手に問題圏外におくという点において、「ひとのみち」や「生長の家」の反自然科学的迷信に較べると確かに「真理」だろう。だが、社会の真理化[#「真理化」に傍点]――これはつまり精神による真理活動のことだ――によって、一切の社会的矛盾や困難が解決されると称するのは、荒唐無稽の精神主義でなくて何か。これも一つの新しいタイプを浮き彫りにした悪質な迷信なのだが、この迷信が社会的に見て従来のものより尤もらしく信用されて通用するらしく見えるのは、たまたま現代社会人の圧倒的矛盾感と社会常識における社会科学的認識の未熟という、弱点に乗じているからにすぎぬ。この点、いわゆる邪教が自然科学的無知や病気や個人的不幸の弱点に乗ずるのと、本質において少しも変らないのである。だから、最も常識的でスマートらしい真理運動さえが、宗教(=精神主義)であることによって、忽ちインチキ宗教の実質を受け取る。宗教のインチキ性が、宗教そのものの本質に他ならぬことはこれでわかろう。――で少なくとも宗教のインチキ性の方は、これでわかった。
だが宗教の健全性・健全な宗教・の方はどうなったか。しかし宗教の本質が邪教であるなら、健全な宗教などというものは無意味にならざるを得ない。インチキ宗教と健全な宗教との区別などは、本質的には意味がないということになる。まあ精々、文学的な価値からでも区別する他はあるまい。例えばバイブルやお経は非常に立派な文学的遺産だが、お筆先ではお話しにならぬからインチキだという種類の区別だろう。しかし無論、文相達は、宗教の文学的価値などに思い及んだことはあるまいから、これは今の問題にはならない。
ところで松田文相は、「宗教の健全なる発達」のために、宗教団体法を制定しようと欲しているのだから、思わざるも甚だしいものだといわねばなるまい。「物質文明の幣竇」を矯めるための宗教は、いうまでもなく徹底した精神主義[#「徹底した精神主義」に傍点]の他にはないはずだ。ところがこの徹底した精神主義は、取りも直さずいわゆる邪教に如くはない。ところが文相らは、一方において宗教の健全な発達を欲しながら、他方において、邪教の撲滅策を講じているのである。これは何かしら宗教の効用を少し誤算していることだ。
それはさておき宗教の社会的効用には、松田文相その他が見るところのものより、遙かに深遠なものがあるのである。それは現代社会の鏡だ。そこには現代社会の姿がありありと(裏がえしにだが)写る。でいわゆる邪教も、ただ単に邪悪な信仰のことなどではない。それは偶々「タチが悪く」「ヒトの悪い」鏡なのである。だからたとえば大本教の如き、その内容を少しよく考え合わせて見ると、われわれ日本の社会に対する痛烈極まる風刺[#「風刺」に傍点]を含んでいるではないか。これを単に僣上な誇大妄想や山カンと思って非難するなら、世間はみずからを知らぬものと云わねばならぬ。
[#改頁]
25 宗教における思想と風俗
一[#「一」はゴシック体]
「ひとのみち」教団の教祖御木徳一氏が初代教祖の位置を隠退すると時を同じくして、関係者一同と共に検挙された。数名の処女を宗教的暗示によってだまして犯したという犯罪が、被害者の一人の家族による告訴から露見したというのである。同氏はその犯行を認めて性犯罪の罪名の下に送局された。
当時の新聞社会面を一見すると、初めは何か、ひとのみち教団そのものに手入れがあったように読者に感じさせるものがあったが、検察当局の握っている弱点はまだ教団の教理に触れたものではなく、また教団そのもの――その組織・経済的内実・等――にさえも触れてはいなかったのである。之までの処問題は全く教祖一個人の犯罪につきるのであって、単にこの人物が偶々この教団の始祖であったというまでであり、あるいは教団の始祖であったが故に初めて宗教的威力が自由になったので、こういう犯罪に陥ったといった方が正しい、というまでである。
勿論この犯罪の実質は決してただの個人的な性質のものではない。この場合に限らず一般の犯罪はそういうものだが、しかし普通の場合には犯人個人の立つ社会的バックは問題にしないことになっているのに、今の場合は信徒二百万と号する教団という特別のグループと宗教教理という特別な運動原理が控えているおかげで、問題は個人から一種の社会的バックにまで一続きのように受け取られ易い。当然これはしかあるべきもので、普通の場合にそれを社会的条件にまで遡源させて見ない方が間違っているのだ。――当局は教理に不敬がありはしないか教団会計に横領がありはしないか、と見ているのであり、またひとのみち教団が宗教行政に適応するために名目上自分でその一派と名乗っている扶桑教にも検察の眼を向け始めたものである。
大本教の検挙はこれとは趣を異にしていた。大本教の検挙の法的根拠はその教理内容の実際が不敬にわたることだった。不敬というのは国体と観念的に相容れぬことであり、それというのも実は却って国体の不敬な模倣であったからであり、つまり似寄っていたからであるが、この点になるとひとのみち教団の教義内容も極めて国体主義的なものなのだ。恐れ多くも教育勅語がその教典の一つになっている位いだ。その点教育関係の当局や有識者の大いに参考になる点だが、しかし教育関係者がなお安心してよい点は、ひとのみち教団はまだほとんど何等の政治的綱領を有っていないらしいということだ。そこでまだいわゆる不敬にならずに済んでいるのである。
「ひとのみち」は宗教的世界征服計画は持っていない。これが大本教と異る処であり、またこの頃日本で流行の大陸教や南方教と異る処だ。禅宗僧侶の出身と伝えられる「おしえおや様」御木氏は、もっと市井猥雑の間に行なわれ得るものを以てした。夫婦の性行為を強調する処の性的宗教と見なされて来ているゆえんである。でひとのみちの刑法的価値は、今の処思想警察関係というより、風俗警察関係にあるというべきだろう。
ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ。こういっても私は別にひとのみち教団だけを特別に悪いと考えているのではない。悪いのはいわゆる新興宗教全体であり、それよりもっと性の悪いのはいわゆる正信や既成宗教や宗教圏外の権威を持つ宗教的信念であるのだが、ひとのみちは偶々正直にも[#「正直にも」に傍点]、この悪いものの代表としてみずから買って出たものであって、この点むしろ極めて誠実な犠牲的なそして天才的ともいうべき現代「宗教」なのだ。
ひとのみちにはキリスト教や仏教のような文献上や文学上の長所がない。だから宗教学者のいう「宗教的真理」を持ち合わさない。品も悪く柄も悪い。しかし下等な人格や品の悪さにも拘らず美人というものがあるように、恐らくこの宗教にはある甘美な風俗感を催させる何かがあるのだろう[#底本では「あるだろう」となっている]。そこに問題があるのだ。
二[#「二」はゴシック体]
たとえば、類似宗教に数えてしかるべき「生長の家」の谷口氏は、一種の文学的才能をもっている。講演したものを読んでみると、一種キリスト風のソフィズムを感じるのである。倉田百三氏の『出家とその弟子』などと、ジャンルは別だが文化的本質を同じくしているだろう。既成大宗教もその阿片的魅力の大部分は実はこういう文学的[#「文学的」に傍点]な魅力であることを、注意しなければいけないと思うが、処が「ひとのみち」になると(天理教や大本教でもそうだが)そういう文学的魅力はまるでないのだ。
通り一遍の文化人は、この非文学的な宗教を見て、一遍に軽蔑してしまう。そしてこれこそインチキ宗教のインチキたる証拠だと考える。そこへ持って来て、猥雑な観念とデリカシーを欠いた趣味の悪い実践とだ。いよいよインチキだということになる。――だがこうした点はインチキ宗教のインチキたる症状ではあっても、そのインチキ性自身ではない。発熱は病気の症状だが、病気の本質ではない。熱が出ずに次第に命を落とす病気も多い。文化人の趣味や嗜好にとってインチキに見えないようなインチキが沢山あることを忘れてはなるまい。だから「ひとのみち」だけがインチキ宗教なのではなくて、たまたまそれが露骨なために、宗教なるもののインチキ性を思い切って露出したまでだというのである。
しかし社会の既成観念の秩序が乱れて来ると、教養あり教育ある人間も、その趣味や嗜好ではもうやって行けなくなる。その趣味や嗜好の洗練が物の役に立たぬとなれば、文化人も平俗人も結局同じものになる。でそこに、一種風俗感を催情するものとして立ち現われた「ひとのみち」やこれを典型とする一連の類似宗教は、識者と無識者とを問わず、斉しく風俗的魅力を有って来る
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