世界的宗教や、各種の新興類似の教養宗教・文化宗教・哲理宗教は、かくてインチキや邪教どころではなく、正に正信[#「正信」に傍点]そのものだということになる。之を目して今日の常識的通念は、迷信でない宗教[#「迷信でない宗教」に傍点]だと称している。
 で宗教が「インチキ」であるかないかは、之を見る立場にある社会の常識的通念の如何によるものであって、社会の根本的矛盾に就いて本当の知識を有たない通念にとってインチキでない宗教も、社会の根本的矛盾を見得る通念からすると、紛れもないインチキ宗教なのである。つまり内部に根本的な食い違いを有ちながら、之を意識的にか無自覚にか、何の食い違いもないような円満具足なものと見せかけるものが、インチキ宗教一般の本質だ。――そういう意味に於いて、唯物論的認識論(乃至論理学)から云うと、インチキでない宗教は元来なかったし、又決してあり得ないということになる。ただ今日なら今日という社会の常識的通念によって、その内の一部はインチキで他の部分はインチキでないと呼ばれるに過ぎないので、そうした常識的通念そのものが、唯物論的見地に耐え得ないものなのだ。

   三[#「三」はゴシック体]

 併し、次の点はなお参考されねばならないのである。同じくインチキという一般的な評価に値いするにしても、例えば福音書的キリスト教と「生長の家」的宗教とでは、決して同一なものとして機械的に片づけられはしないだろう。生長の家が今後どういう「聖典」を伝承するか私の予断の限りではないが、その聖典振りとバイブルの聖典振りとの間には、確かに大きい距りがあるように見受けられることを、否定してはならぬ。私がそういうのも、谷口雅春の書くものは、通俗的な卑俗な友松円諦などのあり合わせの教養のつぎはぎとは違って、多少宗教的な鋭さを持っており(倉田百三やある場合の武者小路のタイプに近い)、多少キリスト的でさえあるからだが、例えばお筆先の類と聖書の含蓄ある部分とを較べて見れば、この区別はもっとよく判るだろう。
 之は文化的宗教と非文化的宗教の区別とか、教養ある宗教とか教養のない宗教との区別とか、というものとは別なのである。宗教哲学者が云う様な宗教的「真理内容」の上での区別だという風に云って了ってもいけない。まして一方は世界史的に承認された宗教であるに反して、他方はまだ出来立ての成り上り宗教に過ぎないから、というだけでもない。宗教の真理(?)というものがあるなら、夫は文化や教養とは可なり無関係なものでなければなるまいし、世界宗教は原始的段階にあればある程、真理(?)だと考えられる。そして、にも拘らずこの「真理」・宗教的な真理内容・などというものは、実は元来成り立ちはし得なかったものである。
 だがなぜそんなただの嘘が人々を惹きつけて来たか。今日世間でいう所謂インチキ宗教ならば、之を人間の科学的無知から説明することも出来よう。尤も実は必ずしも無知からばかり説明は出来ないので、私の知っている或る人が「生長の家」を信じるようになった過程は、もっと遙かに合理的(!)なのであった。と云うのは、その人は不治の病気だが貧困で医者にかかることが出来ない。それで医者にかかる代りに、その弁解として[#「弁解として」に傍点]、神様を信じることにしたのである。こういう弁解の道が発見されたので、その人は安心[#「安心」に傍点]をし、そして無駄な金を費わずに死ぬことが出来た。だから邪教への動機を一概に迷信によって説明することは決して適切ではないのだが、併し、世界的宗教の高遠な虚偽は、そういう弁解にも口実にも経済にもあまりなるのではない。何が、では人々を惹きつけるのか。
 私はどうも、人々を惹きつける所謂宗教的真理内容(夫は世界的大宗教に存すると云われている)は、実は宗教的[#「宗教的」に傍点]内容のことなのではなくて、文学的[#「文学的」に傍点]内容のことなのではないかと思う。梵文学や仏教聖典・キリスト教聖書などは、明らかに文学的遺産として吾々に伝えられている。之は文学として見る時、たしかに大きな文学だろう。尤もその文学が科学的真理とどう連絡しているかは今は問わないことにしよう。なぜなら今日まで、科学的真理をまるで無視した文学も、なお大文学として、或る存在権利を与えられて来ているからだ。モールトンはバイブルを世界の五大文学の源泉の一つに数えている。彼によるとバイブルは単に聖典なのではなくて、夫が聖典として伝承され得たのは、韻を踏んだ立派な大きな文学的古典であったからなのである(彼は本来持っていた韻を復活させた読みもの[#「読みもの」に傍点]としてのバイブル原型をも出版している)。この点、他の世界宗教についても同様に云えるのではないかと思われる。
 でつまり宗教的真理内容があると云われる世界的大宗教と、所謂今日のインチキ宗教とを区別するものは、その宗教的[#「宗教的」に傍点]真理価値ではないので、その文学的[#「文学的」に傍点]な真理価値(だが本当に之が真理で価値があるかは別に検討せねばならぬが)なのだ、ということになる。夫は[#「夫は」に傍点]宗教としての区別ではなくて、却って文化[#「文化」に傍点]としての区別なのである。――だから宗教を文学的な認識から引き離し、宗教を教養や文化から独立させようとするトルストイの手によれば、キリスト教は何等の世界的大宗教でもなくて、安心のための弁解と口実との例のインチキ宗教の範疇へ還元される。「イワン・イリイッチの死」は、イワンのそういう「インチキ宗教」的な死に際の秘密を解いているのだ。
 ここからも判るように、宗教をただの文化的教養としてではなく、あくまで宗教として純化する時、その典型は他ならぬ「インチキ宗教」なのである。この点逆説のようだが、明白な事実にぞくする。であればこそ、所謂新興宗教の一種の新鮮さと魅力とがあるわけで、そしてもし仮に宗教を、社会がもつ社会自身の自己風刺だと云っていいとすれば、類似宗教・インチキ宗教・邪教こそ、今日出でざるを得ずして躍り出た、社会の最も自然な而も痛烈な風刺なのである。
[#改頁]

 24 風刺としての邪教

 文部省における宗教制度調査会の初総会において、宗教団体法案綱要の審査会が開かれた。席上時の文相松田氏は述べていわく。「方今物質文明の異常なる発展に伴い、これが幣竇《へいとう》もまた顕著なるものあり、ひいて国民思想の動揺を来し、人心ややもすれば中正を失し矯激に走るありて洵に寒心に堪えぬ」……「なかんずく人心の感化社会風教の上に至大の影響をおよぼす宗教の健全なる発達を遂げしむることは、もっとも緊要なることの一たるを失わぬ」云々。そのために今ここで、宗教団体法案なるものを案出したから、審議して欲しいというのである。
 すなわち文相のいう所によっても明らかなように、今度の宗教団体法案は宗教の健全なる発達によって、物質文明の幣竇を矯めようという目的を有つわけだ。だが一体宗教の健全なる発達、というのは即ち健全なる宗教の発達、ということに相違ないが、それが抑々何であるかがわれわれの遂に正確に理解し得ない所なのである。
 宗教団体法案の内容を見ると、これは何より先に、宗教法案ではなくて宗教団体に関する法案であるということを示している。宗教法案の成立は各方面から要望されて今日に至っているので、殆んど三十年来の日本政府の宿題であったのだが、それが宗教自身の直接な取締りを標榜するのでは、丁度或る一定の学説内容に関する取締りが思想言論の自由の精神に抵触するように、信教の自由の観念に抵触するわけだ。無論取締らねばならぬような思想言論の方の所有者は、そのままでは(これを反対の一定の定型のものへ転向させないでは)支配社会の役に立たぬから、いわば支配社会の無用有害な分子に過ぎないので、政府はこれに対して何等の好意ある顧慮を必要としないだろうが、しかし宗教は、実際上の問題として、決してこれと同一に取扱うことは出来ない。宗教にも色々と支配社会の気に入らぬものや不都合なものや困ったものがあったし、また現在もあるだろう。だが宗教の本質は決してそんな不逞なものではないはずだ。だからこの取締りを標榜することによって、信教の自由を蹂躙したり、また善良で利用価値の高い宗教業者を無用に刺激したりすることは、得策でない。そこで宗教そのものの代りに、その社会的生存条件である宗教団体を取締るという建前にしようというのが、この案のねらい処だ。
 宗教団体の方に国家権力の重しが利いていれば、宗教の数多くのうちにヒョットして現われないでもないような、あまり肩身が狭くなるように見っともないものは、間接にだが確実に、取締ることが出来るわけで、宗教の社会的信用を墜としそうな分子は整理することが出来る。これによって、宗教は健全[#「健全」に傍点]となるという次第である。そこで寺院・教会・教派・宗派・教団等の宗教団体やこれに類似した宗教結社を法定化し、宗教教師の資格も従来より適切に規定しようというのが、この法案である。
 なるほどこれによって淫祠邪教というような、宗教の信用を失墜させそうなものは征伐出来るだろうから、宗教は健全になるだろう。だがそういうなら、一体何が淫祠邪教であり、どういう宗教がそうでないか、どこに区別の標準があるのだろうかという疑問が、その代りに起きて来るまでだ。ところで実は、一体如何にして宗教がインチキでなく[#「なく」に傍点]あり得るかということが、われわれの相変らずの疑問なのである。
 最近の文部省は宗教の健全性というテーマについて、非常な、非常時的な、思索に耽っている。とに角文部省にとっては、というのは一般に支配社会にとってはということになるが、宗教は必要なのだ。ただ文部省にとっては宗教を無条件に運用するのにその建前からいっても、先の信教自由は別としても、いくつかの障碍が横たわっている。その一つは明治初年以来の政教分離に基く学校における宗教教育の禁止だ。そこで困った文部省は、先般、或る口実を設けることによって、学校における宗教教育を許可し、または寧ろ奨励することにしたのである。というのは、学校において禁止すべきものは宗教教育ではなくて宗派[#「宗派」に傍点]教育である、宗教教育は宗派教育を離れて行なわれるべきだという解釈だ。ところが宗教はすべてまたいつの世でも宗派や教団から離れてはないのだから(宗教団体法によって宗教取締と宗教奨励とを企てる文部省は実はこのことを一等よく知っているはずだ)、これを超越した宗教というと、つまり宗教的情操[#「宗教的情操」に傍点]というものになる。実際文部省は各学校に向かって宗教情操教育を施せと命じているらしい。ところがこの宗教的情操なるものくらい訳のわからないものはないので、第一各宗派に共通なようなものは、到底具体的な宗教的情操ではないから、従ってつまりはこれは宗教的情操ではないということになる。そこで、この宗教的情操は、教育勅語と一致する限りの内容にほかならぬ、という解釈を文部省は採用することにしたらしい。
 しかしこれでは宗教的情操などという名目は無用の長物だったわけで、教育は従来通り、教育勅語一つで立派に遂行され得るはずなのだ。何のために宗教を回り道したか訳がわからぬ。だから、宗教的情操というものに、宗教の健全性を求めても、教育の健全性は見つかるかも知れぬが、宗教の方の健全性はどこにも発見されないわけだ。健全な宗教というものの意味は、依然として一向ハッキリしない。
 では最近邪教の標本として内務省と司法省の槍玉に挙げられている大本教を見れば、何が健全な宗教で、何がインチキ宗教かがわかるだろう、というかも知れないが、必ずしもそうではないのである。大本教(皇道大本)の検挙の内容については、本当はまだ詳細または正確に知ることは出来ないが、とに角それが犯罪を構成するらしい点は、治安維持法違反か不敬罪の類であるらしい。だからいずれにしても日本の国体の尊厳を犯すという所であるらしい。でこの宗教乃至類似宗教が邪
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