らば、金をかけずに早く死んだ方がいいかも知れない。そこでインチキ治療宗教の青酸加里的効用があったわけだ。だから必ずしも迷信(科学的無知)からインチキ宗教へ赴くのではなく、却って理性的な打算からインチキ宗教へ赴くのであって、雑誌の出版屋にしても、インチキ宗教を信じることを標榜した方が、そのインチキ宗教の信者を読者に獲得出来るわけだし、ましてインチキ宗教を売り出す当人達の方では、初めから終りまで完全に理性的なのである。ただ宗教業者の方は、あくまで何等の迷信を有たずにやって行けるに反して、その顧客の方は、いつの間にか本当に迷信をするようになるものが少なくはないというだけだ。――迷信は社会的に見ると、無知のことではなくて、利害感に立脚するインチキ現象の一種のことであり、従って却って極めて理性的な本質のものなのである。だからこそ、対自然科学的、又対社会科学的、迷信は、この社会に於て現実的に実在し得るのだ。

   三[#「三」はゴシック体]

 上品な現象から云って行けば、新興宗教はインテリの不安につけ入ったものだと云っていいかも知れない。そうすれば不安の文学とか不安の思想とかいうものも、一種の新興宗教に数えることが出来て便利である。だが科学的知識が豊富だったり、或いは又そのために科学に対して懐疑を有てる程に偉い筈の現代インテリが、「迷信」や「インテリ宗教」を代表者とするような新興宗教につけ入られるということは、少し辻褄が合わないようにも思われる。
 現代の宗教運動は現代インテリと直接関係があるのではなくて、実は現代の小市民層に直接関係しているのだ。そこで「ひとのみち」に見られるような、あまり上品でない教義や行為が、最も有力になるわけなのである。その徹底した家庭的エロティシズムなどはたしかにインテリ向きではなくて、小商人向きなのである。それから「生長の家」は本を読むことが大事な契機になっているし、精神主義的ロジックも学者の如くではなく権威あるものの如くに中々鋭いから、少なくとも相当教育があるか又は相当頭がなくては這入りにくい。之は確かに或る層のインテリに向いている。処が指導者谷口が、精神治療を行った実例を枚挙するのを見ると、いずれも近代生活をなし得る程度の小市民の日常生活からの引例なのである。お神さんや女房はあまり出て来ないが、良家のマダムは沢山出て来る。子供の学校の成績や入学試験で夢中になっているマダム達が沢山出て来るのである。――それから「真理運動」の賛成者を統計で見ると、商人の次にはサラリーマンであって、仏教的教養のあるインテリ専門かと思うと、必ずしもそうではなくて、単に小市民層向きだと云った方が当っているようだ。勿論サラリーマンは範疇として[#「範疇として」に傍点]はサラリーマンであって範疇としてのインテリゲンチャではないのである。
 新興宗教が多数のインテリを動かしていることは事実だが、それは正に小市民としての資格によるものだと見るべきだろう。それはあまりインテリ向きに出来ていないという事実を見落してはならぬ。処で実はそこに、その一種の無教養・無伝統・歴史的権威の欠如・という処に、新興宗教が所謂「インチキ」と考えられる一つの理由が伏在しているのである。自分でインテリだと思っているインテリは、キリスト教とか仏教とかいう歴史的伝統の権威を持ったものでなければ、教養あるものとは認めない。注釈と解釈とによって文化的財産の形をとったものでなければ、信用しない。そういう歴史的距離を距てて見なければ、一切のものは成り上り者に見えるのである。彼等は原始キリスト教や原始仏教そのものは承服出来ない。ただそれが今日から解釈され注釈されて初めて、価値を認め得るのだ。そうしない限りはインチキなものなのである。――彼等は文献学的文学的古典を至る処に求める。そういう意味に於て、古典的文献としての威厳のない宗教は凡てインチキなのだ。
 新興宗教は少なくとも高級なインテリの文化的[#「文化的」に傍点]要求を満足させない。大本教や天理教の聖書は文学的[#「文学的」に傍点]価値を持たぬ。まして「ひとのみち」のものをやだ。谷口雅春や友松円諦の書くものは多少文学的価値を有つかも知れぬ、だが夫は古典的[#「古典的」に傍点]価値を持たない。――彼等の宗教的情緒を満足させるものは寧ろキールケゴールであり、優れた「文献学者」だとかいうニーチェだろう。価値のあるのはこの歴史的な形而上学[#「歴史的な形而上学」に傍点](!)だ。之に較べれば「お振り替え」(ひとのみち)や「思念」(生長の家)や「真理商店」(真理運動)などは何と形而下的でインチキであることか。――だがこういう点から、或る宗教がインチキであるかないかを決めるのは、真理としての問題ではなくて趣味と教養との問題だ。私は初めに、之とは異った説明をインチキに就いて加えておいたのである。
 現に今は、大本教がインチキだと世間から見られているのは、殆んど趣味や教養の問題としてではなくて、大本教の僣上沙汰にあるのである。つまり王仁三郎や大本教そのものの社会的比重に就いての測定にインチキがあるのである。処が前に云った通り、凡そインチキ性は全く合理的で理性的な存在理由があったのである。スウィフトの『ガリバー旅行記』やモリエールの『人間嫌い』やゴーゴリの『検察官』が当時の社会との関係に於て極めて合理的で理性的で従って現実的であったように、王仁三郎の「大本教」も合理的で理性的で現実的な社会的根拠を有っている一つの風刺的存在だ、と云ってもいいだろうと思う。
[#改頁]

 23 宗教のインチキ性とは何か

   一[#「一」はゴシック体]

 新興宗教乃至類似宗教と呼ばれるものが、今は、インチキであるとか邪教であるとか云われているけれども、特に新興宗教や類似宗教だけがインチキで邪教であるというわけではない。「インチキ宗教」に対する攻撃に興味と利益とを感じるものが既成宗教業者に少なくないらしいことは、この攻撃の仕方にとって、根本的な反省を要求する事柄であって、やり方の如何によっては、却って既成宗教の擁護に何より役に立つ結果になるだろう。そういう意図に於て類似宗教攻撃を行なおうとするのが、当局の方針であるように見えるし(宗教団体法案・宗教教育問題・大本教検挙・天理教検挙)、世間の常識的通念であるように見える。だが勿論、之は「インチキ宗教」攻撃の本当の形であってはならぬ。
「インチキ宗教」批評は一般的な宗教批判・反宗教運動の一環として初めて、科学的な意味があるので、そこまで行かない形態のものは、全く反対な効果をしか現実上持っていない。これは少し事情を省察する労を惜まない人は誰でも気のついていることで、今更私がここに持ち出すまでもないことだが、併しそれでは凡ての宗教がインチキであり所謂邪教であるかと問われると、簡単にそうだと云っては済ませぬものがあることを注意する必要がある。キリスト教や仏教が「ひとのみち」や大本教と同じ意味に於てインチキで邪教であるかというと、決してそうではないのだ。
 だから「インチキ宗教」とか邪教とか呼ばれる、その言葉の意味をもう少し分析してかからないと、所謂インチキ宗教の批判は勿論充分に行かないわけだし、それだけでなく、既成の社会的信用(?)のある世界的宗教の批判にも不便を感じるだろう。
 宗教は一般に精神主義の原型をもつものであって、仮にその形而上学的神学組織が、物心の対立を超えたものである場合にも、その神学組織の実際的運用に於ては、忽ち精神主義の原型に帰着する。世界の物的変革という手段が理論的に必然だということを極力否定するか、それともそういう課題に絶対に近づこうとしない。最も革命的であった原始キリスト教さえも、宗教としての興味は之とは全く別な処に横たわっていたのである。
 処がこの精神主義の原型は色々の形を取って現われる。その一つの現われ方が、御利益主義であって、之は観念上の信心や出来るだけ極度に安易な物質的運動である処の呪文おまじない其の他によって、要するになるべく観念的な近道によって、極めて複雑な物質的運動の結果である処の物的利益を結果しようという、超越的な観念的因果関係の設定のことなのである。無病息災・成功出世・其の他のこの物的利益が、精神的ではなくて露骨に物的である処に、元来の精神主義という宗教的原型とその特別な一発現形態との間の、一種の矛盾を感じさせる。そこで、之がインチキな宗教のインチキたるの一要因と見做されるわけだ。
 もし得られる予定になってる結果が精神的な御利益ならば、それがどれ程功利的であり打算的であろうと、元々精神の一手で綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]に片がつくので、建前上の食い違いがなく、決してインチキには見えない。どんなに荒唐無稽であろうと、正しい信仰である資格をもつことが出来る。元来荒唐無稽であるとかないとかは、精神界だけに止まっている限り問題にもならぬのであって、どんな妄想を懐こうとその内容が純精神的なものに限定されていれば、決して狂人とは認められない。処が俺は神の子であるというような肉体的因果づけなどを主張し出すと、大分怪しくなって来る。自分は神であるとか私は神に会ったとか云い出すと、初めて狂人と見做される。そしてもしこの妄想自身が物的御利益を明らかに伴うならば、彼はもはや狂人ではなくて正にインチキ師と見做されるのである。
「生長の家」のように、一種の宗教運動――精神主義運動――を標榜しながら、それが最も近代的な物質利益の追求の一形態である株式会社活動である時、この矛盾はそれだけで又インチキの称号に値いすることとなる。そして宗教運動が資本主義的ジャーナリズムにすりかえられるという処にも、食い違いがあるので、ここからも重ねてインチキの称号が尤もに見えて来る。

   二[#「二」はゴシック体]

 元来インチキという俗語の指すものには二つの場合がある。第一は意識的に相手の眼をゴマ化すことであり、第二は知らず知らずに恐らく自分の主観的興味から、事物の客観的な公正を無視することである。自己宣伝のインチキにしても、自分の社会に於ける比重の小さいことを知るが故に之を大きく見せかけようとする場合と、自分の社会的比重を客観的に見境づけ出来ないために、当然のことのように自分を誇大に示そうとする場合とが、あるだろう。後者の方が寧ろ不健全な憐むべきインチキ性だが、いずれにしても、客観的なプロポーションの無視から来る食い違いが一般にインチキというもので、この食い違いがバレると、初めてインチキ性が露出するのである。
 宗教、特に類似宗教のインチキ性も亦、正にこうした云わば数学的とも論理的ともいうべき性質のもので、之は社会の常識的通念(之は主として平均値的に小市民の常識に相応するのが普通だ)にとって、的確に検出出来るものだ。
 処がこの小市民的社会常識なるものは、云うまでもなく甚だ怪しげなものなのである。というのは今日の小市民的常識によると、大ブルジョアとは違って、社会は甚だ精神的[#「精神的」に傍点]に捉えられているのである。つまり資本家的な企業のカラクリの内部には全く身を置くことの出来ない小市民は、この資本主義社会の物的本質を身みずから実証する機会も能力も頭の内に持ち合わさないから、その代りに、この社会過程を、最も手っ取り早く安易に、一遍に片づけて了えそうな、精神的解釈を採用したくなるのである。ブルジョアジーは社会の精神的本質などは決して信じてはいない、ただ信じたような顔をしているだけだ。処が夫を本気で信じているものが小市民なのである。
 さてこの小市民的社会常識は、社会の精神的本質を説く宗教、そして社会の精神的利益を説く宗教を、もはやインチキとは看破出来ないわけである。社会の精神的利益なるものが実は社会の物的利益のことであるという秘密は、彼等によると社会そのものが精神的なのだから、到底気がつかない。かくてこの種の宗教は、真の宗教であり、宗教の真面目だということになる。既成の
前へ 次へ
全46ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング