最近の職業野球団はこうした「ファン」社会の需要に応じて企業されたものであって、日本でこの商売が立派に成立するだろうことはアメリカ職業野球団の来朝の際、如何に日本の野球ファンが死に物狂いに殺到したかということで、すでに試験済みなのである。
 処が一方、六大学野球連盟自身が、この時すでに職業団化していることを見ねばならぬ。それを通じて各大学の野球部自身、又選手自身が、職業化して来た。選手は野球専攻(?)の学生となり、その研究費(?)を賃銀(?)として受けとるようにさえなるし、この選手と共に野球部は営業大学の事業部の役割を持って来るし、連盟自身は事実上興行主体と何等選ぶ処がなくなった。この関係が社会的に色々のボロを出すようになったので、文部省は野球統制令を敷いて、例の「学生運動」としての学生野球とこの企業としての学生野球との矛盾を折衷しようと試みた。一季制案がその一例だったのである。処が学生野球の必然性は、すでに崩壊しつつある学生運動としての学生野球が新興の学生野球企業を圧迫するのを肯んじることが出来ない。そこで連盟側から二シーズン制復活運動が猛然と台頭したのである。文部省は遂に、入場料の値下げと各大学分配金の制限(六万円以内)とを条件として、二シーズン制の復活を許した。
 文部省は初め二シーズン制が学生の勉学にさし障りがあるという純教育上の理由から、一シーズン制にしたのであったが、今度之を入場料と分配金の制限という純企業統制上の条件に代えたのだから、之は確かに文部省自身、学生運動野球から企業野球への必然的な動きの前に、譲歩したことを意味するに他ならぬ。
 さてそこで問題になるのは、こうした半学生運動的・半企業的・学生野球と純職業野球・野球業との関係が色々と発生することである。ここでも文部省の学生野球統制令は再び色々の矛盾に逢着した。その一つとして、在学中本職の野球業にたずさわる学生生徒は之を大学乃至学校から除名しなければならぬということにもなったのである。音楽の専門商売人を養成する上野の音楽学校でも、在学中ステージに立つことが出来ないというから、それから見れば野球専門の学校の学生や生徒でない以上、之が当然とも思われるかも知れない。併し今いったような学生野球統制令が学生野球商売と職業野球商売とを判然と切り離せると考えるのは、今では一つの幻想にすぎない。今日の学生野球はその必然性からいって、単に稚拙で不完全な職業野球へと次第になりつつあるのだからである。
 文部省は例の統制令によって、他に全国中等学校野球統制団体の設立を目論んでいるばかりでなく、この統制令の精神を徹底することによって、国民体育[#「国民体育」に傍点]の問題をも解決しようとするらしい(国民体育会館の設置の計画など)。だが元来から云ってスポーツは文部省や世間でウッカリ考えているようには、ただの体育に帰着するものでないのである。夫は肉体の運動能力を賭ける一つの勝負事として、一つの市井的な社会現象なのだから、之を「体育主事」的に解決することは元来出来ない。ましてこの市井現象を商品とするスポーツ業になれば、文部省の教育行政理想とは何等関係のないことだろう。之は私立大学の教育営業を統制するように統制出来ないのである。精々統制出来るものは、スポーツのイデオロギー的要素位いなもので、例えば半軍事的観念に帰着する「東洋体育協会」の問題などに尽きるだろう。
 スポーツが資本主義的発達を遂げて、もはや「学生スポーツ」とか「体育」とかいう不徹底なブルジョア・スポーツ形態に局限され得なくなると、スポーツの文部省的観念は破産する。もうその時が来たということを、私はハッキリと注意したいと思う。
[#改頁]

第三部 宗教風俗

 22 新興宗教について

   一[#「一」はゴシック体]

 最近の宗教氾濫現象の一つの特徴は、新興宗教の流行となって現われている。仏教運動の台頭や、倉田―本間(俊平)―西田(天香)―伊藤(証信)系統の修養系乃至教養系の宗教の社会的再評価や、各種国粋運動は、云うまでもなく今日の宗教氾濫時代の重要な内容をなすものだが、こうしたものより遙かに特色のあるのは所謂新興宗教なのである。その故に世の多くの人間達は、他の宗教運動に就いて宗教運動としてはあまり注意を払わず、或いは少なくともあまり反発を感じないらしいにも拘らず、新興宗教だけは之が何かよろしくないもののように、こずき回している。新興宗教はインチキであるとか、迷信であるとか、其の他其の他と、まるで他の宗教運動や明治以前に発生したり輸入されたりした宗教は迷信でもインチキでもないかのように。
 一体新しく興ったというこの新興宗教とは、いつ頃から起こったというのであるか、或いはいつ頃から社会的に相当の重大さを持つようになったもののことをいうのか。その時期を画するものは満州事変以来だということである。この事変以来、平均日に幾つかずつの新宗教が発生しているそうである。以て新興宗教の「新興」ということの社会的意義が推察されるだろう。これ等新興宗教は大体に於て、最初から多かれ少なかれ非常時用の宗教であると見做してさしつかえはないようだ。他の宗教は非常時をその隆盛の動機にしているが、新興宗教は特に、非常時をその成立[#「成立」に傍点]の動機にしているので、その教義内容の如何に拘らず、非常時的本質をもつことをその存在理由にしている。だからこういうものを、現代の非常時社会は、そう無下に悪しざまには云えない義理があるのである。
 世間では之を類似宗教[#「類似宗教」に傍点]とも云っている。それは文部省から公認された宗教でないという意味で、例えば天理教は明治時代に政府に献金して公認して貰ったが、大本教(皇道大本)の方は類似宗教だということになる。そして所謂新興宗教はこの大本教並みに待遇されるべきものだと考えるわけだ。大本教の検挙(之は教義内容自身が不敬罪や治維法に触れるのだそうである)は類似宗教の邪教性を天下に公示したことになるが、公認宗教であって邪教でない筈の天理教が、教義と無関係に単に脱税行為だけが、検挙の目標となっていることは、公認宗教と類似宗教との区別が、単に事務的なのでないことを、即ち夫が社会的正義感や道徳的評価に直接関係しているということを、公示したことになる。尤も脱税の検挙に対してさえ、奈良県当局から横槍が這入ったという噂さで、天理教がつぶれては奈良県の財政があぶなくなるということだが。
 類似宗教は偽似宗教で真性宗教でないという感じから、それだけですでに評判を悪くするに充分であるが、だが宗教を一つの伝染病と見做すなら、類似宗教こそ最も伝染力があるのが事実で、之こそ真性な宗教でなくてはなるまい。この真性宗教の効果は、単に阿片的なものに止まらず、殆んど青酸加里的性質を持っているので、単に魂を羽化登仙させるだけではなく、生命そのものを昇天させて了うのだが、この点は後に解説しよう。

   二[#「二」はゴシック体]

 人はまた之をインチキ宗教[#「インチキ宗教」に傍点]と呼んでいる。インチキという言葉は甚だ愛すべき言葉だが、その言葉の使い道自身が又往々にしてインチキであることは遺憾である。一体インチキとはどういうことか。この俗語は二つの場合を指している。一つは事物の客観的な力関係乃至比重を、主観的な利害やひいき目から、実際に見誤ることであり、もう一つは夫を故意に他人に見誤らせるように仕向けることである。自分をえらそうに重大そうに見せるのにも、実際自分をそう思っている場合と、実際には自分のえらくなさ[#「なさ」に傍点]や小ささを知っているが故にわざと大きく見せようとする場合とが区別される。寧ろ前者の方が性格薄弱者や性格破産者のみじめなインチキさであるが、併しいずれにしろ、事物や人間関係の客観的に公正なプロポーションをうぬぼれや利害感から、ゴマ化すことが、インチキということの哲学的或いは論理学的な本質なのである。
 観念と物質との客観的比重を無視して、精神主義を強調するものは、元来それだけでインチキなものであるのだが、併し忘れてはならないことは、観念と物質との比重も、之を純観念的に測定する限り、少しも比重のゴマ化しは暴露しないですむのであって、従ってどんなに荒唐無稽な体系でも教義でも、それが純精神的な世界に終始する限り、インチキに見えずに済むものだ。だから修養とか精神鍛錬とか肚をつくるとかいう限り、一切の宗教はインチキでなしに却って尤もに見えるわけだ。処が自分は神を見たとか観音様に会ったとかいう物理的生理的因果関係を一枚入れると、夫はすでに観念と物質との物的比重に解かれるので、そこで初めて、この人間は山師かそうでなければ狂人ではないか、と気がつくのだ。或る男が海面をノコノコ歩いたと書いてあれば、之はどうも眉唾物だという事になる。思念一つで一切の病気が治ったり、不幸が他人へ身替りしたり、ポンプの水が出たりするという証言は、どうもインチキだということになる。
 その意味に於て治療と結びついた宗教教義や宗教行為が、最も容易にそのインチキ性を暴露され得るので、之がインチキ宗教なるものの定義でもあるかのように、既成宗教業者達は云うのであるが、併し之は単に自然科学的な物質的認識に於ける事物の客観的比重をゴマ化したからそう云われるまでで、同じく物質的認識に於ける事物の客観的比重をゴマ化すにしても、その認識が社会科学的なものになると、この支配者社会自身の社会科学的認識の常識そのものが初めからインチキに出来ているので、インチキ宗教と呼ばれることを免れ得ているのである。真理を行う処の商店は、どんなに大きなデパートが出来ようと、それにお構いなく繁昌するというようなことを証言している「真理運動」などは、インチキどころではなく正に「真理」だということになる。真理運動に限らず、大衆の現実の苦悩からは完全に独立化した既成大宗教などは、治療や商売繁昌の御利益を説く宗教は迷信にすぎないと云っている。そのくせ自分は、日本資本主義の繁栄は宗教の御利益によらねばならぬと考えているのである。
 かつてラジオの講演で迷信についての話しをした人があったが、迷信は誤った信仰とか正しくない信仰とか色々に定義されていると云っていた。なる程迷信は迷える信仰のことに他なるまい。だが大切なことは、之がいつも必ず何等かの利害打算に基いているという点なのである。だからこそ投機業者人気商売は、迷信的なのだ。その人はこの点には殆んど見向きもしないで、単に科学的認識との矛盾ばかりを指摘していたようだが、利益や利益と思われるもののないのに、誰が酔狂に科学的認識と矛盾しようなどという気持ちを起こすだろうか。単に科学的な無知からではなく、その無知に一応満足しておいて、それよりもっと手取り早く利益を得ようとすればこそ、迷信の必要があるのである。治療宗教・御利益宗教は、自然科学[#「自然科学」に傍点]的(仮に治療医学を自然科学へ分類するとして)認識と矛盾することを却って必要とこそ感じる迷信であり、正信や宗教的「真理内容」や文化的宗教は、社会科学[#「社会科学」に傍点]的認識と矛盾することを絶対に必要と感じる迷信なのである。ただ対自然科学的迷信の方は、或る程度まで支配諸社会の必要と常識とに矛盾するので、社会的権威を与えられていないに反して、対社会科学的迷信の方は、国家的権威をさえ付与されているというだけの違いだ。
 だが支配者社会から権威を認められないにも拘らず、この対自然科学的迷信が、この頃では段々社会的に必要になって来たということを見逃すことは出来ない。医者は大衆の生活費に較べて馬鹿々々しく高価なので、併しそうだからと云って病気を治療しないというわけには行かないので、一見金のかからない類似医学やもっと大悟徹底すれば治療宗教をその代用物として採用する。もし不治の病、即ち治療費が嵩む病気ならば、そうした方が安上りに治療の良心[#「良心」に傍点]を静めることが出来て、理性的に賢明なわけだ。どうせ死ぬのな
前へ 次へ
全46ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング