的な惰性で、上の学校を望まない者が多いのだから、この社会では女の頭の良し悪しを間接にテストする標準が甚だ不足なのだ。それだけ女学校の成績というものが見合の一部分となるのだが、それは結局出身女学校の出来る出来ないの評判に帰着するのが現状のようだ。そうなるとやはり入学試験落第率の高い出来る女学校が嫁入り仕度としても概して良いわけになる。無論そういう「出来る」女学校も嫁入り資格を看却する筈はない。出来るだけ良家の子女の内から優良児を選ぼうと考える。
 こうして一般に女学校では、入学志願者の父兄の資産調べには抜け目がないようだ。折角の卒業生も無産者の娘では碌な処へ嫁にも行けまい、卒業生夫人団に仲間入り出来ないような才媛は学校としてあまり利用価値はない。私立の女学校になると、事業家である校長先生は何のかんのと生徒に無心を仰せつける。女の生徒は男の生徒のように悪たれでなく批判的意志がなくて従順だから問題はないが、父兄母姉団に充分な資産がないと問題が起きるし、金が集まらない。之に反して父兄母姉団の大勢が有産者ならば、今度は父兄母姉も生徒も競って献金して呉れる。入学者の資産状態を厳重に調査する必要が益々あるわけだ。
 男の特殊な学校でも資産状態や家庭の状態までを調査する。之は夫々の社会圏の幹部となるに相応わしい貴族としての資格を調査するわけである。帝政時代のロシアの将校はその殆んど大部分が貴族であって、この貴族という社会的支配権の尤もらしさを、軍隊の指揮権にまで利用したのであるが、それに似た現象はどこの国にも珍しくない。そして、「恒産なきものは恒心なし」という支那の聖人の唯物論を逆用しようとするこの現象は、今日では一般の中学校の入学許可に際してもなくはないようだ。例えば前科者の子弟は何と云っても普通の子供よりも入学に不利だろう。無職の父兄の子弟も亦そうだ(悪い意味に於ける無職というのは社会的定位を占めないことで、即ち社会では可能的な犯罪性を意味して来つつある)。思想傾向[#「思想傾向」に傍点]を考査するような場合も結局はこうしたものに帰着するのである。女学校などになれば愈々この点が深刻に又神経質になるので、現に、心中したり婦人関係で問題を起したりした有名な人物の娘は、体よく退学させられている位いだ。旧くは女優になったために同窓会から除名された人もいた。嫁入り仕度の最中に、こういう不吉なことは縁起が良くないに違いないからである。
 さて今述べた事情は、今日の入学試験の一般的事情の上に、主に資本制社会の内部に於ける封建的家庭制度から来る一種込み入った条件が加わった処のものだったのである。そこで再び元の一般的な事情に立ちかえるが、例の入学志願者偏在という現象は、当然子供の非人道的な入学試験準備を呼び起こさざるを得ない。之は前に云った所のブルジョア社会の自然法則のほんの一つの結果に過ぎないのだが、特にそれが世間の親達の道徳的実感に直接に触れるものであるために、今日入学試験に対する問題と云えば、殆んど凡てここを中心にして提出されているわけなのである。この試験準備の浅ましさに面をそむけない者は恐らく一人もいないだろう。だがただ物の結果だけをどんなに矯めようとしても矯められるものではない。暫く前東京府の学務課では、小学校に於ける入学試験準備を厳禁して見たが、必然性あって産まれたこの入学試験準備が、ただ一通りの禁令で止む筈はない。潜行的な形で依然として行なわれたので、或る程度までの準備は大眼に見ようということになったと覚えている。今のままで入学試験準備を廃止するには、試験準備をしてもしなくても受験に大して影響を及ぼさないような試験の仕方を選ぶことだが、そうかと云って一頃試みられたくじ引きや怪しげなメンタルテストは全くの不合理か或いは単に新しい種類の入試準備を強要するものに過ぎない。小学校側からの成績申告が殆んど無意味であることも亦云う迄もない。文部省が入学考査に難問題を提出するのを禁止したのが、せめても合理的な対策だと思うが、之とても準備の量を制限するだけで却って質を重加する結果を招くに過ぎないかも知れない。
 入学試験準備の軍縮会議が成立しないとなれば、残るのは府立とか市立とかいう「良さそうな」中等学校を新しく沢山造ることだろう。之なら問題は一応綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]に解決するだろう。だがそれでもやがて又例の入学志願者偏在が始まるに相違ない。全受験者即ち全入学者の内に優良児と中以下の子供との間の大きな開きがある以上、或る学校には比較的優良な子供だけが入学するという可能性が、段々著しくなるというのが、ブルジョア自由社会の例の自然法則だったのである。
 世間の人は入学試験準備の弊を試験施行者である中等学校教育家の罪に帰したり、或いは試験準備施行者である小学校教員の責任に帰したりする。だが色々の部分的現象に就いてはとに角として、原則としては夫は全く当っていないのだ。又之を母親や父親の見栄や流行かぶれに帰するのも何等の解決ではないのである。子供の父兄は一定の已むを得ない理由なしに、単に見栄をしたり流行を追ったりするのではない。それにはすでに述べたようなもっと実質的な根拠があったのだ。
 だが次のような意味では、試験地獄の弊が家庭の親達の「責任」問題になるということを見逃してはならない。一体受験地獄という言葉は、受験者当人である子供達の気持から出た言葉だというよりも、寧ろ自分で子供に試験準備をさせている当の親達の意識から出た言葉なのである。年はも行かぬ頭の柔かい子供達を不自然な残酷な準備に駆り立てながら、そうすることが、不可避な必然性と客観性とを有っているということを知っている親の目には、之は全く地獄の名に値いする。誰も好きで地獄に堕ちるものはないのだが、堕ちざるを得なくて堕ちるのが地獄というものの神学的な意味ではないか。で、受験者は当の子供なのだが、受験責任者[#「受験責任者」に傍点]は、受験の責任を最も直接に感じるものは、却って親達自身なのである。苦しめた者が自分であって見れば、それだけ成功させてやりたいというものではないか。
 子供の方は場合によっては案外試験を気にしていないかも知れない。親達が或る学校を受けろというから受けて見るので、受験責任者は親達の方だと思っている子供も少なくないかも知れない。とに角一等心配しているのが親達だということは平凡なようだが見逃すことの出来ない一つの事実である。そうしてこの事実は年と共に著しくなっていく。この頃では中等学校の入学試験ばかりではなく、帝大の入学試験にまで、大きな子供(?)につきそってやって来る母親があるそうだが、之は何も帝大の入学試験が困難になって来たからではないので(以前は高等学校の入学試験でさえ、父兄がついて行くなどという珍風景は見られなかった)、それだけ受験責任者が、受験者自身から父兄乃至親達に、即ち又家庭そのものに移行したことを示すものであり、それが中等学校の入学試験から段々と高い処にまで及んで、遂に最後に大学の入学試験にまで現われたに過ぎない。こういう意味に於て、最近の試験地獄は、親達の責任に移行しつつあるのである。
 従来は、男の子など、父親の社会的地位や職掌からは比較的独立に、子供は子供なりに新しい運命を開拓すべく入学を志望する、という意味が相当に活きていたのに、最近の社会ではそういう新しい未知の運命を開拓するなどということは、例外な場合か空想としてしか許されなくなった。受験者たる子供の家庭の家庭的及び社会的条件が、自然と圧倒的に入学希望の内容を決めざるを得ないように、世の中がなって来たのである。重役の息子は重役に平社員の子は平社員になるように稼業がもう一遍世襲的(?)になって来るように見える。入学試験の責任者が親達へ移行したことの原因はここにあるのである。
 社会の表面に現われた秩序が今日のように固定化されて来ると、今までは家庭が社会からの避難所であったり、逆に又社会が家庭からの開放だったりしたのが、今度は家庭自身が社会秩序のただの一延長になり、或いは同じことだが、社会全般が云わば家庭主義社会というようなものになって来る。ここで親孝行と云ったような日本の身辺道徳が、社会道徳のイデオロギーにされたりするのだが、こういう社会では、社会へ向かって伸びて行こうとする子供も、全く家庭化された善良な家族の一員として終始せざるを得ないように、段々なって来るのである。――そういう事情の一つの現われが家庭の親達を入学試験の受験責任者にするのであって、旦那様は外で働き、奥様は家庭の取り締り役に任じ、坊ちゃんやお嬢さんはママと女中とが育てると云ったような、中産以上の社会層に見られる所謂家庭らしい秩序の外面を保っている家庭では、子供の入学試験・試験地獄は、もはや子供のものではなくて、お産や病気と同じように、全く家庭の日常の主婦的な心配事と相場が決って来ている。
 で、小市民層以上のパパやママが、試験地獄を気に病む程、実は却ってそれだけ試験地獄は深刻化して行くことになるのだ。子供達がこの試験地獄から解放されるためには、彼等は入学試験から解放されるよりも先に、家庭から、家族の一員としての母性愛的隷属から、解放されなければならぬ。夫はつまり日本[#「日本」に傍点]の「家庭」というものが従来の魔術を失うことなのだ。
[#改頁]

 21 学生スポーツ論

   一 スポーツ・就職・学生[#この行はゴシック体]

 政治家などは多分、忙しくて困る困るといいながら、忙しくしていないと居ても立ってもいられないのだろう。学者は苦しい苦しいといいながら、本を読んだり物を書いたりしていないと落ちつかないらしい。サラリーマンは退屈だ退屈だといいながら、仲々愉快な暇つぶしをやっているようだ。自分の行動形式が結局一等好ましいものだということを、義理にも正直にいい触らさなければならない者は、恐らく、信仰家と呼ばれる宗教専門家だけだろうと思う。――ひとり宗教的信仰に限らず、政治上の奔命もビジネスも読書や著述も、一種の耽溺三まい[#「まい」に傍点]境を用意している意味で、どれも薬品的な阿片的な効果を有っているのである。
 スポーツも亦この意味で、他の行動形式と同様に、一つの阿片であって、特にそれが生理的な効果にもっともよく結びついているだけに、宗教的自己高揚よりも、もっと阿片的だといっても好いかも知れない。だが宗教が民衆の或いは寧ろ無知な市民や農民の、阿片だとすれば、スポーツは中層市民の、或いは特にインテリ市民の阿片なのである。
 心理的興奮や生理的興奮が、瞬間、楽天的な世界観を伴うことは、たとえそれが不健全な現象である場合でも、それだけでは少しも非難に値いしない。自分自身でスポーツをやって見れば、少なくともそれがどんなに愉快な、良い、健康感を覚えさせるものであるかということは、すぐ判る。
 だが、この甚だ結構なスポーツが、阿片的効果を現わすのは、第一に、それが耽溺という形で、例えば社会的関心とか実際生活の計画性とかから全く隔絶して、丁度四畳半にシケ込んだと全く同じに、逃避境を提供するようになった場合である。それは「文学中毒」や「哲学中毒」と少しも変らないので、昔の文学青年や哲学青年は煩悶や厭世で自殺したが、今日のスポーツマン(スポーツ青年)が自殺しないのは、偶々阿片がスポーツの場合では、心理よりも生理の方に先に効くので、それだけスポーツは「健康」で「健全」であるからに過ぎない。
 これはまだ良いのだが、このアヘン的効能が社会的に利用されると、色々な結果をもたらして来る。かつてはスポーツを体育[#「体育」に傍点]と称して奨励したが、そういう「体操」は段々人気がなくなって、剣道柔道というようなもっと「精神的」な武士らしいものが公認となり、やがて一寸下等になっては相撲が台頭し、それからいわゆるスポーツとして野球が絶対王権の玉座を占めるに至った。しかしもう野球となっては、ほとんど日本魂がなくなっているから、それに対抗
前へ 次へ
全46ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング