チメンタルな教育理論などとはちがって、右のようにガッチリしたものなのである。だが資本にだって資本に固有なセンチメントが欠けてはいない。資本は宗教的情操[#「宗教的情操」に傍点]を有っている。このことを知っている文部省は、経済連盟への諮問と同時に、僧侶と牧師とから出来ている宗教教育審議会に、宗教教育について諮問を発したものである。その答申によると、日本の教育は大いに宗教的情操を織り込まねばならぬということである。
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 20 受験地獄論

 田舎の或る女学校に勤めていた私の友人が、とうとう校長と喧嘩をして追い出された。同僚の先頭に立って、校長排斥をやった処、校長はイッカな動こうとしなかったので、社会的な質量の軽い方の彼が、反作用によって追い出されて了ったのである。校長排斥の理由は彼によると数え切れない程あるのであって、どれ一つとして現在の公立中等学校、中でも女学校の校長という地位を特徴的に物語っていないものはないのであり、どれも必ずしもこの校長の人格だけに固有な特徴として非難されるべきものはないのだが、その内に一つ、次のような笑って済ませない理由が含まれていた。
 県当局に対して万事ぬかりのないこの校長は、実は同時に仲々卓越した人間通だという結論になる。彼は部下の若い女教諭に命じて、卒業間近かの小学校の女生徒の家を訪問させて、自分の女学校へ入学することを勧誘させたのである。尤も近所には通えるような学校はあまり無いのだから、他の女学校へ行かずに自分の学校へ来いと云って勧誘するのではなく、娘さんをとに角女学校というものにお入れなさい、と云って勧めるのである。別に秀才や天才児の家庭を選んで勧めて歩くのではなく、四年間か五年間通学させるだけの学資の出る家庭でさえあればいいのだから、その内には低能で始末の悪いのもいるだろう。それを承知で勧誘する以上は、入学させてから矢鱈に落第させたり何かは出来ない。でつまり落第はさせない、四年なら四年で卒業させる、という請負をして歩かせるわけである。それはまあいいとして、友人が一等憤慨したのは、校長がこの女教諭に対して、特にお白粉を塗って行くように注意したという点なのだ。
 敏感な友人のことだから、この注意を何か特別に売笑的なものと感じて憤慨したのだろうが、併しこの程度の売笑性ならば寧ろ社交性や服飾道徳にさえ数えられるべきもので、美人であることは夫だけとして見れば秀才であることと同じ自然的素質なのだから、秀才にあやかるために、又は益々秀才振りを発揮するために、勉強することが良いことであるように、お化粧をすることは良いことなのだ。娘の両親でもお祖父さんでもお祖母さんでも、綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]な先生に勧誘されれば、あまり綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]でない先生に勧められるよりも、気が進むのは自然である。校長の奇知はそこを覘ったものと見える。
 併し問題は、そうまでして浮身をやつしてまで入学志望者を募集しなければならない女学校又は他の諸学校の存在である。というのはもし入学志願者がいつも定員に満たないようだと、学級の整理と教員の整理とは必然の結果なのである。その結果は又、その学校の社会的な資格が段々落ちて行くことだ。校長にして見れば、ジットしたままでいて、自然と左遷されていることになる。こうなるとだから入学志願者が学校を造るのではなく、学校が入学志願者を製造しなければならぬ。東京などの私立営業の学校にはこうした場合が極めて多いので、別に女学校に限らず又中等学校に限らない。客引きがなければ宿屋の主人も番頭も食えなくなる。偶々女学校だから女の先生をマネキンに使った迄であった、そして女のマネキンは綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]なのが当り前だ。
 思うに入学志願者の少ないこの女学校の校長は、入学志願者の多過ぎる学校の校長よりも、遙かに教育の名に於て苦悩していることだろう。他の校長達は自分の学校の入学志願者が多すぎることを喜び又誇りとしているだろう。之は鉄道省の役人が、いつも満員で乗客がウンウン云いながら詰め込まれている列車を見て満足するようなものだ。私が友人ならば、例の女学校の校長よりも、こうした名誉ある校長を排斥する心算である。
 少なくとも中等学校の数は、中等学校入学志願者の数を根拠として、与えられなくてはならない。と云うのは、入学志願者の大抵のものが無条件に入学出来るだけの中等学級数を用意するのが、一応当然なのである。況して今日の中等学校では一般人間として受けるべき程度の教育さえ授けられていないだろうから、殆んど凡ての入学志願者を入学させるということは無条件に必要なことだ。その意味で中等学校の実質は一種の義務教育だと考えていい。――処で義務教育ならば、単に自発的に入学を志願するものだけを受動的に収容するだけではいけないので、進んで入学志願者を開拓しなければならない筈である(こういう点から云っても女の先生にお化粧させた例の校長の方が結果から云って良心的かも知れぬ)。併しそうすると、資産や学資の如何に関係なく、一切の社会層から入学志願者を開拓するのが理の当然となるだろう。それでは財政上の予算が許さないし、又学校商売としても成り立たなくなる。そこで一等都合のよい入学志願者制限法、即ち又学校制限法は、或る一定社会以上に志願者を限定するように、万端施設することである。曰く、相当高い授業料、就職の禁止、昼間学校の建前、等々。
 でこうなると、入学志願者と中等学校数とを均衡にせよと云って見た処で、その入学志願者数そのものに一向社会的な公正さがないのだから、無用な心配と云わざるを得ない。入学志願者が不足だということも、実は予め入学志願者を社会的に制限した上でのことで、入学志願者が多過ぎるということも亦単に、こうした入学志願者の社会制限にも拘らずなお或る学校の受験者だけを取れば数が多すぎる、というに他ならない。事実上は、入学志願者総数と、入学し得べき中等学校とは、それほど不つり合いではないらしい、単に受験生が或る特定の学校に偏在するに過ぎないのだから、社会の階級的施設としては、今日中等学校の数は却って理想的だと云っていいかも知れない。
 だが丁度普通選挙の理想のような普通入学(一般入学)ではなくて、(階級的な)制限入学なのだから、すでにそれだけ普通[#「普通」に傍点]教育=義務[#「義務」に傍点]教育の目標からはずれているわけだ。そうすれば、どうせはずれているならば、普通[#「普通」に傍点]教育の代りに秀才[#「秀才」に傍点]教育か何かを主義にした方が、教育の理想から云って合理的ではないだろうか。所謂中産階級層以上の子供を一様に教育する代りに、その内での相当の秀才だけを選抜[#「選抜」に傍点]して教育した方が、ブルジョア社会の幹部候補生養成としてもズット合理的な筈である。中産階級層以上の家庭なり子供自身なりが進んで中等教育を受けさせよう受けようというのを拒むことは正しくない、というなら、無産者がその子供にせめて形式的な中等教育(内容的には随分歪曲された社会知識を注入するがそれは大人になれば訂正される)を受けさせようという気持になることを拒むことは、正しいことか。ブルジョア的有力者の馬鹿息子が中等以上の教育を受け得ないのは世道人心を害するとでも云うのであろうか。
 さてこうなって来ると私は、一般的に云えば寧ろ入学試験の賛美者とならねばならぬ。単に学校の収容人員に対して相対的に入学を制限するばかりではなく、寧ろ子供や生徒の知能の絶対的な一定標準に従って、入学を制限した方がよいとさえ考える。ブルジョア層や小市民層出身の、出来ない生徒を相手にしたことのある教師は、これだけの数の生徒を無産者大衆から選抜したならば、どれだけ社会的に経済的だろうと、思わないものはないだろう。――だから悪いのは、入学試験そのものではなくて、一定の階級的入学志望制限統制を社会的に施しておいた上で自由競争的な入学試験をやることから生じる色々の結果にあるのである。と云うのは例えば、社会的に入学志望を制限するから、人類全般の知能素質から見て大した教育上の効果を期待出来ないような入学志願者がそれだけ割合を多くするので、入学志願者の間の知能の開きが大きくなり、之が自由競争をする結果「良い」学校と「悪い」学校とが出来て、入学志願者が多過ぎて困る学校と少な過ぎて困る学校との分裂が始まるのだ。少し考えて見ると、これが今日の入学試験地獄の根本的な遠因であることが判る。
「良い」学校というのは世間で往々考えるように教師と施設とが良い学校を云うのではない。男の子ならば、上の良い学校(又しても良い学校)へ余計入学出来るような学校のことを指すので、それが原因ともなり結果ともなって、沢山の入学志願者と高度の入学試験落第率とを有つ学校が良い学校なのだ。その他に学校の優良さの意義はないのだから、良い学校と悪い学校との対立が一旦始まったが最後、良い学校は或る程度まで益々良くなり、即ち志願者が集中し、悪い学校は或る程度まで益々悪くなる、即ち志願者が減って行く、というのが原則になるのである。之は大きく云えばこのブルジョア社会の自然法則だから、家庭や子供に向かって、虚栄心を捨てろ、自分の個性に応じた(?)学校を選べ、皆んなの行く処へ流行を模倣するように集って行ってはいけない、等々と世間の教育僧侶達がどんなにお説教しても、少しも効き目のないのは当り前である。誰が一体、見す見す損をすべく、「悪い」学校を選ぶ者があるだろうか。
 つまり今日の中等学校は、相当優秀な子供を収容するにはあまりに数が多すぎる[#「多すぎる」に傍点]ために、或いは相当優秀な子供の数が中等学校の数の割にあまりに少ない[#「少ない」に傍点]ために、良い学校と悪い学校との対立の余地が生じているわけで、もし仮に無産大衆の圧倒的な多数の内から之だけの数の子供を選ぶと空想するならば、悪い学校を実現するだろう素質の劣った今日のブルジョアや小市民の子供などは、初めから問題になれないから、入学志願者の偏在などは、起き得ないだろう。つまり鈍才でも資本主義的市民権を有っている子弟だというので、社会が教育を志すことから入学難が生じるのである。――教育から階級的意味が消え失せる時には、所謂秀才教育からもその弊害が消え失せるだろう。今日の入学志願者の偏在は金や資本の偏在のようなもので、大きく云えば資本制自由社会の必然的な一結果だとも云えるのである。
 尤も特に女の児の場合などになると之にもっと複雑な事情が加わる。と云うのは良い学校という意味にもう少し複雑なものが加わるのである。今日の処、女学校は普通、嫁入り仕度の一つに数えられているのは否定出来ないようだ。中産階級層以上の教育ある男の妻となるには、その知識はとも角として(女学校の授ける知識は大して社会的通用性から云って問題にならぬ)、その趣味やイデオロギーから云うと、どうしても少なくとも女学校卒業者でなくてはならぬ。処が、男の方は少なくとも先頃までは、主に頭の能力によって出世も出来、世渡りも出来、就職も出来ると想定されていたが(実は必ずしもそうではなかったのだし、又益々そうでなくなりつつあるのだが)、女の方の出世であり世渡りであり又就職である嫁入りは、今の処何と云っても、当人の知能的能力ばかりでなく、容色や品や乃至は実家の資産や地位によって決定される部分が多い。そこで、自然と良家の娘が集まる学校が、結婚率が高くて結婚年度が低い学校となり、女学校を嫁入り仕度に数えている家庭にとっては、そうした学校が良い学校となる。知能上の素質の高い学校に這入れなくても、良家の子女の通う学校ならば、見栄から云っても女らしい野心から云っても満足だということにもなるのである。だがそうは云っても、同じ嫁を貰うならば頭のいい方がいいに決っている。処が女は女学校以上の学校に進む者が男程多くないのであって、仮に素質が善く学資に不自由しなくても社会的な又家庭
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