が出来るというわけだ。
こういう思考実験は、現下の小学校教育制度の下に於ては、全くの空想にぞくする。併し必要なのはこの思考実験ではなくて、この思考実験を要求するような、現下の教育の事情の認識なのであった。今日の日本の教育は、その内容は云うまでもないとして、教育施設から云っても、夫が中等学校以上になれば階級教育なのである。義務教育からこの階級教育へ移る処に、恰も中等学校入学試験なるものが横たわっている。中等学校へ行こうと希望する者の可なりの多数は、心算だけでも少なくとも専門学校や大学へ志すものだろう。この方向は社会に於ける階級的特権を保証するものであるか、そうでなくても少なくとも特権の記号となるものだ。それ故にこそ小市民層以上の親達は、その子弟の中等学校入学に就いてああも真剣にならざるを得ないのである。そして「良い」中学校とは、余計に高等学校や官立の専門学校へ入学出来る学校のことだ。「良い」高等学校とは、余計に帝大へ入学出来る学校のことだ、等々――でここまで来れば、受験準備が児童の真理の可能性に富んだ精神を冒涜するとか何とか云って見た処で、夫は野暮と云うものであるかも知れない。
実際問題として、入学試験準備の弊は根本的に除き得るか。この社会の教育原則に立つ限り決して除き得ないというのが、以上からの結論である。公立の中等学校を(東京に就いて云うと)今日の十倍にしたならば、一時之を除くことは出来よう。だが恐らく之は事実上不可能なことだろう。そうすると他に何等の決定的な対策も残されていない。わずかに、試験問題の合理化(なるべく受験準備の如何によって規定されないような問題を出すこと)、受験準備の弾圧、父母への訓戒(良い学校への虚栄! を捨てよ)云々位なものだ。この種のものがごく瑣末な影響しか与え得ないことは、誰知らぬ者もないのである。
困難は、現下の教育理想の内部に止まって技術的に解決しようとする限り、解けない。この問題の「教育家」的な解決は、もはや断念すべきではないかと私は思う。
二 高等教育の問題[#この行はゴシック体]
日本ブルジョアジーの代表的な社交機関である経済連盟は、かつて時の松田文相の希望によって、実業教育懇談会なるものを組織して、実業教育否広く高等教育一般についての意見を練っていた処文部省から正式に実業教育改善意見の答申を嘱されたので、この懇談会の成案を答申書として提出することになった。
要点の第一は、高等学校(高等科)を廃して、大学予科一年又は中等学校第五学年を以て之にかえ、大学卒業年度を二年乃至三年短縮しようということであり、要点の第二は、総合大学を廃して単科大学(今日の専門学校に相当する)を主体とし、特に学術研究の志しあるものだけが大学院(今日の総合大学に相当する)に入学すること、というのであり、要点の第三は、各階梯の学校が夫々完成教育を施す処であって上級学校への予備教育の機関である弊を打破すること、である。
それより少し前に、中学校乃至中等学校を四年制の建前にしようという当局の意見もあったが、中等学校教員や教育者の多数が、大反対をしたのでその後あまり音沙汰を聞かない。とに角、教育年限短縮はこの頃の社会の持論のように見受けられる。
四年制中等学校の建前に対する反対意見の主なるものは、上級の最後の一年間の教育が中等教育に於て占める絶大な効力を尊重しなければならぬ、という点にあったようだ。年限短縮論者の中には、欧米の大学卒業の年度が日本に於てより遙かに年少であることを根拠にしようとするらしいが、夫は必ずしも当らないそうで、日本だけが特に教育年限が長いのではないというのである。
今、中等学校教員の生活問題から来る反対動機はさし当り論外としよう。なぜなら之はたしかに社会に於ける[#「社会に於ける」に傍点]「教育[#「教育」に傍点]」なるものの重大問題であるのだが、併し少なくとも直接には、被教育者の教育の問題ではないからだ。之を抜きにして考えるとして、即ち被教育者の教育だけを社会に於ける教育全体から抽象して問題にする限り、教育年限が長すぎて悪いということはどこにもない筈だ。まして日本だけが教育年限を短縮しなければならぬという理由はどこにもない。だからその限り[#「その限り」に傍点]吾々は、遽かにこの中等学校年限短縮案には賛成出来ない、と云わねばならぬ。
だが問題はもっと根本的な処に伏在している。一体中学校の第五年学級が、中学一般教育上絶大な教育的効力をもつのが仮に本当としても、その教育的効力なるものが、どういう種類のものであるかによって、改めて考え直して見なくてはなるまい。中学校では本当に普通教育的な即ち人間の生長にとって本当に普遍的な意義のある、教育を元来施しているのかどうか、それが判らなければ、この教育的効力なるものは信用ならぬ。処で一体中学校では、吾々が日常生活しているこの社会の産業や経済の基本的な常識をどこで与えて呉れるか。人間の科学的思想の点で活きた好さを一体どんな教師が生徒の胸にたたき込むか。文学的頭脳や読書法が誰が授けて呉れるのか。無意味に瑣末な歴史的トリビアリズムや、地理学的雑多や、方程式の解法の形式的な習得や、真理への興味を殺すための修身や、卑俗なブルジョア社会の通念を尤もらしく見せる公民科、などしか、そこにはない。――中等学校で本当に教育されるものがあるとすれば、夫は全く、例外に自分自身を教育し得るような、すぐれた素質の生徒だけだ。あとはただ五年なら五年という年限の来るのをブラブラと待つだけなのである。
こういう中等学校などは早く切り上げて、もう少しは生きた人間的教育や又少なくとも専門的教育を施すような上級の学校にサッサと這入って了った方が、確かに教育的効果が絶大と云わねばなるまい。そういう点で私は、中学校の本質が今日のようである限り、五年よりも四年、四年よりも三年の方が望ましい年限だとさえ考える。――中等学校が入学試験の予備教育であるかのような観を呈しているという弊は、今日の中学校教育の当然の本質的な帰結であって、元来教育的な内容を持っていないものは受験準備の機能でも営む方が、まだしも増しなのである。
こう云って来ると、如何にも高等学校・専門学校以上の教育は、中等学校のと較べて、立派であるように聞えるが、決してそうではない。ただ教育の師範学校的観念は、低学級になればなる程意義をもっているので、小学校よりも中学校、中学校よりも高等学校乃至専門学校、それよりも大学という風に、段々師範的教育観念は無意味に帰するので、即ちそれだけ上学級になる程、学校的教育から被教育者の方が自由になって、社会的な自己教育に依存して来るのである。だから、学校的教育の弊害や悪作用は、高等教育に進むにつれて段々薄くなる、というわけだ。――だがそれにも拘らず、生徒や学生の社会的自己教育を、出来る限り妨害して、学校教育(夫は結局師範教育を典型とする)の独占に帰せしめようとするのが、今日の高等教育の方針なのである。無論どんなバカげた方針に基く教育でも、それが強制するイデオロギーの媒介物になる客観的な実質のあるものは、曲りなりにも教育され教え込まれるから、本来の意義に於ける教育的効果の多少のものはどのような場合にもなくはないが、それを理由にしてこの教育の全体を是認することは出来ぬ。
でこういう理由から、私は現代の学校教育(下級教育から高等教育・大学課程までも含めて)はなるべく早く切り上げて、少しでも早く社会教育と之に基く自己教育とを被教育者に任せる必要があるとさえ考えるのだ。――ただしここで条件をつけておかねばならぬのは、こうした社会教育乃至自己教育を、卒業後もなお依然として、否益々、有力に又誤たずに実施し得るだけの能力と見識とを与えることは、あくまで学校教育の責任であり、或いは寧ろ、学校教育を利用[#「利用」に傍点]しながら之を蝉脱すべき、高等被教育者の自己責任だ、ということだ。学生や生徒は、どんな教育方針の下にあっても、少なくとも大学や学校に於て、研究法と勉強法と読書法とを獲得すべきなのである。
処が又、この社会的教育なるものが、今日の日本では学校教育以上に不誠実なものなので、却って之をはね除けつつ之を利用[#「利用」に傍点]するだけの見識と能力とを、学校教育から吸収せねばならぬ位いだ。――だからこうなると、実は、強ち学校教育の年限さえ短縮すればよい、とばかりは云えなくなるのである。要はつまり、学校教育の年限の長短[#「年限の長短」に傍点]ではなくて、学校教育の本質の改革[#「本質の改革」に傍点]如何に関わるのである。そんなことは判り切ったことではないかと云うかも知れないが、併し文部省的(夫が又師範的なのだ)教育観念に対しては、之は相当こたえる[#「こたえる」に傍点]結論なのである。と云うのは、文部省では教育は実質に於て半年一年という零細な年限を単位にして評価されるのであって、人格教育とか情操教育とか其の他云々という教育の本質(無論そんなものは教育の本質などではあり得ないのだが)の方は、全くのつけ足しだということが正直な肚だからだ。
さて以上は、教育という観点から教育年限・教育制度を問題にしたのであったが、例の経済連盟の高等教育改善案(実業教育改善案はその本質に於て之だ)は、全く別な観点から問題を取り上げている。経済連盟のブルジョア代表達は、専ら彼等の使用人の生産[#「使用人の生産」に傍点]という観点から、この問題を提起するのである。そして夫が、文部省が経済連盟に対して教育制度に就いて諮問した(一寸意外な)意味なのである。経済連盟のブルジョア代表達は、何と云ってもこのブルジョア社会の当の主人であり選手なのだから、先生や文部省のお役人とは違って、教育というものを社会に於ける一つの実体として見る術を心得ているわけで、被教育者に対する人間教育というような抽象的なセンチメンタルな教育学的イデーなどからは、立派に解放されている。ブルジョア社会に於ける教育を最もよく知るものは、教育家でもなければ教育行政家でもなくて、正にこのブルジョア代表の卓見なのである。
だがこの卓見の内容には色々の動機が連関して含まれている。ブルジョアジーによれば、学校乃至大学は、ブルジョアジーの広義に於ける使用人を生産する施設に他ならない。官吏を養成するのも学者を養成するのも、サラリーマンを養成するのも、つまり社会に於ける知的な活動分子を生産することに他ならず、夫がブルジョアジーが広義に於ける使用人生産の一つの場合に他ならない。之が彼等によれば、実際社会に役に立つ[#「実際社会に役に立つ」に傍点]教育ということの意味だ。
処がこの実際社会に役に立ち方が、時代の生産条件と共に変化する。一頃の日本では、生産の資本家的組織にとって最も必要だったのは、支配・管理・労働・の技能ある幹部であった。幹部はその人間圧力から云っても、一般勤労者とは差別された特色又は優越のレッテルを持っていなければならない。それが大学[#「大学」に傍点](帝大・それから官立大学・それから公立私立の大学)、経済連盟で総合大学[#「総合大学」に傍点]と呼んでいるものの、卒業生であったのである。
だがこの幹部の新しい部署が段々減って来なければならぬにつれて、大学出のインテリ失業問題が起る(尤も之は実は一般の失業問題の一環にすぎないのだが)。そこで当然この資本社会の代表者達は、そういう幹部(学士)生産に対する生産制限を答申せざるを得ない。そうでないと、インテリの失業という(多分資本家自身にも責任のある!)社会問題が発生するからだ。――金のかかる(国費も要れば息子の学資も要るし、それに大事な点は雇い入れるにも専門学校卒業生より少しはサラリーを余分に出さねばならぬ)不経済な総合大学[#「総合大学」に傍点]が無用である所以だ。――まして国費をかけて国体に反するような教授や学生を出す大学などは、無用の長物だ、というわけである。
資本家の教育理論は、教育フールのセン
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