なる見込がないと私は思っているが、丁度そういう意味に於て、私はそう考えるのだ。例えば受験術・受験法・に精通しているような中学校卒業生は、決して信頼し得る秀才ではあるまい。児童についてだってその通りだ。それから、こういうタイプの子供が大きくなって学者にでもなったとすれば、例えば経済の研究をやる代りに経済学方法論ばかりに興味を有ったり、教育に興味を有つ代りに教育学や教育学方法論にばかり関心を持ったりするタイプになるのだろう。精神のこう云った種類の歪曲は、児童の受験準備の間にすでにその萌芽を見出すのではないかと、いうのである。
 無論親達も、教育家や先生達も、今のこの点をこんな風の形で心配してはいない。親達にして見れば、専ら自分の子供が苦しめられるのに対して、本能的な義憤を感じるに止まっているようだ。所謂受験地獄が、受験児童自身の意志からではなくて、却って親達の意志から強制されるのだという自覚を親達は暗々裏に有っているので、この本能的な義憤は愈々劇しい形を取るのだ。親達は子供をこの地獄の苦悩に落さねばならぬ自分自身の社会的不幸を呪っているのである。だがこの本能的な感じをつきつめて行くと、私がさっき云った、例の人類に対する冒涜というような処へ行きつくのである。
 又教育家達にして見れば、受験準備による児童の無用な苦痛を何とか軽減せねばならぬという親達の観点とは一見全く無関係な或る立場から、入学試験受験準備の問題を困ったものだと公言しているのである。と云うのは、入学試験が現に存する以上、小学校に於ける何等かの形の受験準備が絶対に必要なわけだが、この受験準備の結果が小学校教育の正規の方針を著しく偏極させることになるので、之では充分に小学校教育の主旨を貫徹出来なくなると云って、苦情を持ち出すわけである。ことに文部省あたりが見る公的な根拠は専らこの辺にあるらしい。実はここに少し疑問があるのであって、一体、入学準備教育によって排除されたり歪められたりすることを心配される所謂小学校教育の主旨なるものが、社会的に考えられた現実の教育情勢から独立し得る程にそれ程抽象的に完備したものかどうかが、多少皮肉に観察されねばならぬものにぞくする。さっき、受験法に興味を有つようなタイプの子供には恐らくロクな児はいないだろうとは云ったが、併しその受験法の内容になるものが、夫々の学科の要点や要図であるとしたら、受験術の教育はおのずから小学校教育の締めくくりにさえなるかも知れないので、受験準備も一概に非教育的なものとは限らぬことになる。それに試験を受けるということも、実は児童に対する一つの社会的教育でさえもあるかも知れないではないか。
 従って小学校の本来の教育が理想的なものであるが故に、そのプログラムに於て公認されていない受験準備の教育は、それだけで反教育的だというのなら、それは文部省的思い上りと云わねばならぬ。で、教育家や先生や文部省の役人が、受験準備を呪う心情の内で取るべきものは、単に人間的教育そのものの歪曲に対する呪いだけであって、所謂小学校教育の大方針から外れたからと云って、準備教育を悪魔のように呪うのは見当違いだろう。一体小学校の本来の教育方針そのものが、人類教育の歪曲でなく、例の人類に対する冒涜でないと、誰が保証し得るのだろうか。
 で以上から結論されるように、入学試験準備の問題が、世間の問題になるのは、或いは世間の問題としての権利を有つ点は、結局に於て、之が自然な真理の可能性に富んだ子供の精神を明らかに歪曲する、というただ一つの事実にあるのである。そして而も之が、児童の身心の形式的な発育をさえ妨げることになるというのだから、この事実が一種の実証的な根拠を得て来るのである。――前にも云った通り、一般に受験準備なるものは、人生の一つの不可避な不幸であって、之に就いての訓練は、そのものとしては立派に教育的価値を有っている。このことを忘れてはならないのだが、併し他方、例えば就職運動にばかり巧みな男は、決して社会的に意味のある男ではあり得ない、ということの真理の方が、この際一層大切だ、というのである。
 だが之は少しも問題の内容の説明でもなければ、ましてその解決でもない。以上は単に、この問題がどういう点で問題になっているのか、又されねばならなかったのか、という説明だけだ。――処が、入学試験が現に存在している以上、受験準備の必要は絶対的なので、受験準備の善悪に拘らず之は必然なことにぞくする。少なくとも入学試験が現存する以上はである。
 そこまでまず第一に考えられる解決策は、何とかして入学試験そのものを不要にしようという企てである。一体入学試験の必要はどういう機構から生じるかというと、云うまでもなく夫は、中学校なら中学校の教育に値いする人間だけを選択し、教育の価値のないものは之を拒もうというような根拠からではない。尤もこう云うと、如何なる児童もそれなりに中等教育を受けることに妨げのあろう筈はないではないかと云うかも知れぬ、だから中学校(一般に中等学校)教育に値いするとか値いしないとかいうことは無意味でなければならぬ、というかも知れぬ。だが、社会全般の見地からすれば、一定の与えられた量の中等教育施設の下では、中等教育に値いするしないという標準は立派に立ち得る筈なのである。処が現在の階級別による経済条件に基く限り、こうした一般的な被教育資格の標準は存在しない。相対的に優秀な素質を有つということと、被教育資格を社会的に保証されるということとは、殆んど全く関係がないのが、この社会の教育事情だ。教育の機会は均等だというかも知れない、出来る子供はいつでも入学出来るように制度が出来ている、というかも知れぬ。だがそれは単に名目上の制度からそうだという迄であり、それが実質的にもそうだというなら、夫は子弟の教育費資本を所有するごく一部分の社会層だけを見て之を社会の全般と考える極めて偏頗な同類感に立っている結果にすぎぬ。無産者大衆が教育の機会均等を実質的に享受しているなどということは、全くの譫言《たわごと》にすぎまい。――で中等学校の入学試験の必要は、社会全体の合理的な計画的施設として生じているのではなくて、現代社会の云わば全くの自然現象として生じているのであるということを、記憶せねばならぬ。教育施設の全社会的な合理的統制からではなくて、教育施設の或る意味でのレーセ・フェールから生じるものが、今日の入学試験の要求である。
 この点判り切ったことだとも云えるが、併し之によって、単に入学試験準備だけでなく入学試験そのものまでが一種の社会的罪悪であるかのように見做され易い理由を、説明出来るだろう。つまり之は、自由競争が社会的に信用を失いつつあるのと同じような理由に基いているのである。そこで入学試験そのものが一種のバーバリズムであるかのような気持になり、入学試験否定論も発生し得るわけだ。小学校からの成績申告書を専ら利用することにしたらばどうだろうかとか、入学願書受付順に入学させろとか、抽籤で入学を決めろとかいう思想も、ここから発生するのである。云うまでもなく之は、入学試験準備の弊に耐えなくて始まった工夫なのだが、併しいつの間にか、入学試験そのものの否認を動機とするようになっているという点を、今は見落してはならぬ。そうでなければ、受験準備に較べていささかも合理性を持たぬ抽籤や願書順のような迷案を工夫する気になる筈がないだろう。こうした入学試験の代用案が、実際問題としては決して一般的に通用し得ないものであることは云うまでもないが、とに角くじ引きの如きに至っては、何と云っても完全な社会的ナンセンスだと云わねばなるまい。
 それはさて措き、入学試験の必要が、教育施設の或る意味での自由放任主義から生じて来ているという点は、「良い」中等学校と良くない中等学校との対立となって現われているのである。良い学校と良くない学校との開きがあるが故に、少なくとも現在の入学試験の必要が生じて来ているのである。中等学校の収容可能の人員の総数と入学志願者の総数とを比較して見ると、必ずしも入学志願者の方が目立って多いとは限らないというのが現状だ。従って、元来今日の中等学校数に止めておいても必ずしも入学試験は必要ではないかも知れないのである。処が、良い学校とそうでない学校との間に開きがあるために、良い学校への入学難と、悪い学校の入学者募集難という、珍現象を呈しているわけだ。
 一体良い学校というのは何かというと、必ずしも教師や設備のよい学校のことではなく、より多く秀才の集まる学校のことに過ぎない。つまり入学志願者が多くて、同じ二百人を取るにもより優れた二百人を取ることが出来るという学校のことだ。処がこの良い学校には入学志願者が愈々殺到するというのだから、つまり志願者の多い学校は益々その志願者が殖える(或いはより秀れた志願者が殺到する)ということに他ならない。之は丁度、資本が大きければ大きいだけ、資本増大の量も愈々大きくなるという資本主義的レーセ・フェールの法則と、本質的に同じような物なのである。
 処がこの良い学校と悪い学校との[#「良い学校と悪い学校との」は底本では「良い学校との悪い学校と」と誤記]対立の原則は、単に現在の凡ての中等学校を公立や官立にして見た処で、決して根絶されるものではない。一旦平等になっても、一寸した傾向がつくと、その傾向は自分みずからを助長して、またまた著しい対立を産み始めるだろう。夫は丁度、資本主義機構の内で、如何に資本の過度の増大や分配の不公平やを修正しても、資本主義の根本機構である貧富対立の原則は停止しないと同じようなものだ。で、資本主義のもとに於ける統制経済が、資本主義のレーセ・フェールに相当する貧富対立を是正出来ないように、今日の階級的な教育機会の不均等の原則を改めない限り、如何に中等学校に於ける入学者の分配の公平を期しても、私立中等学校への補助を試みても、学校増設を企てても、要するにそうした「統制」や「社会政策」を施しても、入学試験の必然性を食いとめることは出来ないのだ。
 もし仮に一切の無産者大衆の子弟の中から、今日だけの数の中等学校入学志願者を募るとするならば、彼等はその素質に於て(環境による影響は別とする)、今日の小市民層以上からなる同数の入学志願者団とは較べものにならぬ程優秀な、ピック・アップ・チームを構成するだろう。この粒の揃った一団は、之をどういうように分配しようとも、良い学校と悪い学校との開きを実質的に無視し得る程度に止めることが出来るだろうと、私は想像する。それに、もうそういう場合には、頭の比較的悪い中流以上の子弟で以て一儲けしようというような、営利中等学校は存在出来まい。――つまり、今日の良い学校と悪い学校との対立は(そこから今日のような遽しい入学試験競争と受験準備とが始まる)、無産者大衆の圧倒的に多数の子弟が殺到しないのを幸にして、大して被教育的価値のない分子が、小市民やブルジョア層から、経済上の余裕を利用して、入学志願者の群に投じることから生じるのだ、と私は云いたいのだ。こうした根本的な社会的不平等が、回り回って、受験準備というような児童精神の歪曲の道へと導くのであった。
 無論こういう理想的なピック・アップ・チームとしての入学志願者達にしても、夫が中等学校から上級学校や大学へ、皆が皆そのまま這入れるというような施設は、まず望めないとしよう。上級学校へ行けば行くほど、収容人員が減ると見るのがこの思考実験では自然であるようだ。だからそこには矢張り、いつも、入学試験なるものが待ち受けるかも知れない。だが一方に於て、試験準備による教育上の惨禍は、受験者の意識が発育し独立するに従って、減少して行くのだし、又他方に於て、各段階の教育に応じて夫々、被教育資格者の全社会的な水準が設定されるのだから、要するに相対的に高度の素質をもつものが、公平に、相対的に高度の教育をうけるという結果になるだろう。で少なくとも、小学校児童の試験準備というような悪質な困難は、容易に避けること
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