学団が分解した結果何になるのかという契機を抽出して見ると、単に教授団当局が市民的利益社会として再構成されるだけではなく、学生をも含めた学団全体が又、当然一つの市民的利益社会として再編成され、且つ認識され直されることが露出する。こうして大学は最も有力な市民的就職機関[#「就職機関」に傍点]として生長するのである。でここに世間では実際的教育[#「実際的教育」に傍点]の必要が叫ばれる。そして例えば入学試験の受験現象なども、ここから独特の内容を受け取る。
でこの契機から云うと、大学の例の内部的矛盾などはもはや問題ではないのであって、大学学団は再び、少なくとも対内的には一見分裂のない云わば幸福な統一を楽しむことが出来る。対立は単に大学そのものと市民社会との職業地位上の需要供給関係にだけ集中される。学術上の権威に就いては、大学と社会との間には何等の対立ももはや存在しない。もし仮にあるように見える場合は、その対立は個々の教授なり(例えば自由主義教授達)個々の学生なりと社会との対立に引き直されて了うのであって、大学全体としての対社会的対抗は抜きにされるか又は全く無力化される。教授は市民的地位の確保に、学生は市民的地位の獲得に、その共同の一般的なユーニヴァーシティらしい利益を直覚するのである。現今の大学の一種の静寂はここから理解されるだろう。
学生は就職の単なる方便としてしか、その学生生活を幸福に感じることが出来ない。それ以外の実質的な要求を有つ時(どういう幻想を有つかは今問題でない)、学生生活は完全に不幸だということが一応の事実である。――だがそれはとに角、批判の自由や学の権威は別として、学生は現在の大学に依って、曲りなりにも広義の知能的技術は獲得出来る、という事実に今何より注目する必要がある。広義の技術こそがインテリゲンチャの主体的な特質で、そこからインテリの一切の規定と使命とが導かれねばならぬからである。そしてこのインテリジェンスの養成こそ社会の近い将来になると必らず必要だったということの判るものなのである。インテリゲンチャを盲人蛇におじぬ底の楽観的な能動説によって規定することが尚早の誤りであると共に、之を自己自身に無責任な悲観的な困惑説で以て片づけることも、時節柄由々しい危険な誤謬なのである。
三 先生商売論[#この行はゴシック体]
都下の新聞によると、歌舞伎座で新派組や水谷八重子達が上演した翻訳劇、ハインリヒ・マンの原作で、ヤンニングスとディートリヒとが主演した映画を、更に日本で劇に直した「嘆きの天使」が、大学教授連盟からの抗議で改変して上演されることになったという事件がある。
私は映画のしか知らないが、映画によると、ギムナジゥムの謹厳な教授が、女芸人に迷って学校をやめ、一行と一緒に巡行してあるく内、母校の所在地で舞台がかかる時鶏の鳴き真似を強いられたので、発作的に発狂し、昔の教室の机に抱きついて生命をおとす、という筋である。
大学教授連盟は、この筋が教授なるものを侮辱することのこの上ないもので、特にユダヤ人排斥の目的から書かれた(?)この作を上演することは不見識の至りだから、というので厳重に歌舞伎座に抗議した。処が同座が一向取合わないので、遂に文部省と警視庁とを労わして、最後の部分を改変させて了ったのである。即ち教授が死んだ後で生徒達がアーメンを唱えることに直したのだそうだ。
一体この劇が大学教授乃至一般に教授を侮辱するものであるかどうかが、すでに甚だ疑問であるが、もし万一侮辱する結果になるとしても、自分達自身が侮辱に値いしない教授でありさえしたら、一向怒ることはない筈ではないか。そこにムキになって怒る処を見ると、大学教授連盟そのものが甚だ心細い教授達の集まりではないかと心配になる。かつて陸軍の新聞班が発行した処の議会でも問題にされたパンフレットが世間で話題に上った時、率先して満場一致でこの陸軍パンフレットの支持を決議したものは、この大学教授連盟主催の教授達の会合であった。それから又満州から軍人が帰って来たと云っては、御高話拝聴と出かけるのも、この大学教授連盟なのである。この大学教授連盟は、陸軍の将校達を学問上の指導者と仰いでいるようにさえ見える。
だから大学教授連盟が「嘆きの天使」の教授侮辱劇を気に病むのも強ち理由がなくはないので、実際をいうと日本の大学教授や高等学校教授には、充分に侮辱に値いする存在が決して珍しくないのである。現に私の友人で、或る地方の官立高等学校の教授をズットしていたのが、一つには同僚の愚劣さに耐え兼ねて、遂々東京に逃げ帰り、今では安い俸給生活やルンペン生活をやりながら却ってホットしている男を、二人までも知っている。そして之は何も高等学校に限らないことだ。愚劣な教授が侮辱された方が却って愚劣でない教授の方は助かるというものだ。処が教授連盟の代表者の主張によると「大体外国には学者をバカにする芝居がよくあるようだが、日本では決して許されない、今後厳重に監視する心算だ」というのである。こう主張している教授を主人公とするような喜劇が、今日の日本では社会的に大いに必要なのだが。
一体教授達が、ホンの僅かなことに侮辱を感じたがるのは、云うまでもなく、彼等の先生意識[#「先生意識」に傍点]からである。つまり教授といったような先生業は、その生業が成立する条件として、或る何かの社会的威厳を必要とするのである。この威厳が保てないと商売にさしつかえを生じるわけなのであるが、併し威厳の必要な職業は他にも沢山あって、将校や警官、又上級官吏や社長や課長から、凡そありとあらゆるものを含んでいる。この内特に知能的な指導力がこの威厳を裏づけていて、そして特に又、この威厳ある知能的指導力が同時に相手の弱点に食い入る支配力を意味する時、初めて先生[#「先生」に傍点]という身分が発生するのである。弁護士・医者・代議士・売卜者から所謂先生である教師に至るまで、皆そうした条件を持った限りの威厳業を意味している。――で例の大学教授連盟も、もしこうした一種の威厳業組合か、又は威厳業ギルドであるなら、歌舞伎座へねじ込むのも商売上大いに必要なわけだろう。
教授や先生が一種の威厳を条件にする威厳業だということに対して反対する人は、今日教師達がどこの学校に於ても、皆夫々教員職業組合を結成しているという事実上の意義を理解しない人だ。学生生徒の行動から学校問題が発生する時、学生生徒の集団に対していつも正面に押し出されて来るものはこの威厳業組合だということを注意すれば、この点はすぐ判るだろう。――一体今日、学の自由を叫んだり叫ばなかったりする大学のユーニヴァーシティーなる名前は、中世のカトリック教会学校関係者の職業組合を意味する言葉であって、今日の大学は実は、こうした中世大学に対抗して起きたブルジョアジーのアカデミー[#「アカデミー」に傍点]が変質したものなのだが、その名前には依然この中世の「ユーニヴァーシティー」を冠している。そして大切なことは、この教職組合=ユーニヴァーシティが、今では学生とは全く独立した組織となったことだ。大学の学生はこの二十世紀的ユーニヴァーシティには入れてもらえないのである。
だが所謂教授達の大部分のように、夫々の立派な又は影の薄い教員聖職ギルドを持てる程に、社会的に優遇されている先生方は、実際には大してその威厳について思い労らう必要はないようだ。内職をやっても、かけ持ちや原稿書きならば、名誉でこそあれ、威厳を損じるものではあるまい。困るのは小学校の先生なのである。
ある時市内の某小学校の校長が、教え児である女給を誘惑しようとしたのを発見されて馘になった。無知な少女を誘惑しようとしたことは多分絶対に許し難い行為だろうが、その他の点はそんなに問題になるべき性質のものではないと私は思う。小学校の校長が待合入りをしたというのがいけないというなら、それでは小学校の校長の上に立って之に対して事実上の命令権を持っている官公吏又各種議員達は、何もそういうことはしないだろうか。もし先生だけがしていけないというなら、そんなに偉い先生を先生でない者が支配するという今日の教育行政組織は全く変な組織と云わねばならぬ。
この事件で最も社会的意義のあるものは、実は小学校教員の内職問題である。例の校長が酔って女給をつれ出したのが、同僚が経営しているバーかカフェーだったからである。一体先生が本を書いたり論文を書いたりすることは、主に一つの副業としてであるが、この内職は却って威厳を増すのに、カフェーの経営の方の内職は、その威厳を傷ける。その意味に於て官吏や将校は断じて内職を許されていない。丁度一昔前の職業婦人が賤しく恥ずべきものと考えられた段階に、今日の所謂内職の位置があるのである。処で小学校の先生のやれそうな内職には、あまり立派な内職(?)は少ないので、多くは所謂内職らしい内職を選ぶ他はない。その結果先生にあるまじき[#「先生にあるまじき」に傍点]内職にまで及ぶのだそうだ。だがいかに先生にあるまじき[#「あるまじき」に傍点]内職と云った処で、そうした内職をやることが先生にとって必要であるとしたら、夫はすでにあるまじい[#「あるまじい」に傍点]内職ではないわけではないか。所謂内職は先生の威厳を著しく傷ける。併しその内職をやらない限り、他方に於て先生らしい威厳が又保てないとしたらどうなるか。――でこうして先生業の威厳は今日、この一角から崩れ出すのである。
「嘆きの天使」の先生となる前に、「嘆きの天使」の改変を要求したりなど出来るとは、先生冥加の至りと云わねばなるまい。
[#改頁]
19 学校教育二題
一 入学受験準備の問題[#この行はゴシック体]
入学試験乃至その受験準備の問題は、今日の教育家と父兄との頭を極度に病ましている処のものである。却って受験者当人の方はそれほどにも思っていないというような点も注意しなければならないが、それはさておき、この当人自身だって頭をつからせていることは云うまでもないことである。
尤も大学や専門学校の入学試験受験準備の問題と、中等学校入学の場合の夫とは一概に一緒には出来ない。現在就中問題になっているのは、云うまでもなく中等学校入学試験の場合についてなのである。だが、受験者当人にして見れば、探究や理解やの興味とは元来殆んど全くかけ離れた入学試験受験法などに、貴重な頭を使うことが、極度に苦痛でもあり、又根本的に馬鹿げて感じられることは、大学や上級学校への入学試験の場合と、中等学校入学試験の場合とで、根本的な区別はない筈だ。ただ、後の場合には何しろ受験者がまだ無邪気な児童上りであり、彼等自身には本当の意味での入学意志があるかどうか、簡単には決定出来ないのであって、一種の子供らしい見栄や責任感から、自分みずからが持つだろう受験の本当の必要感とは無関係に、幼弱な身心を無用に過労させるのであるが、そういうことが、児童の身辺の者から見て我慢が出来ないという処から、特別に小学校児童の受験準備が、殆んど人道上の問題に類するような大問題として意識されているわけなのである。
併し問題の要点は、単に児童の幼弱な身心を苦しめるからいけないというだけではなく、夫が児童のその後の発育に深い禍根を刻むに相違ないという処にあるのであり、又それだけではなく、元来くだらないことこの上もない受験術とでもいうべき特別な工夫に全力を傾けることは、それだけで児童の精神を歪曲するものだという点が大切だ。単に発育を阻害するだけではない、精神を歪曲し、それだけ児童の心情を、大きな真理への接近から妨げるという点だ。之は大げさに云えば、云わば人類に対する由々しい冒涜だと考えてもいい位いのものなのである。――元来受験術に興味を有って了ったり何かするようなタイプの子供は、その限りでは決して多くは伸び得ない子供ではないかと私は考える。子供の時から、親や教会の人達に教えられて神様のことなどを口走ったりするような子供は、その限りでは決して真人間に
前へ
次へ
全46ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング