よらずに何かの様式で性欲や愛情を満足させねばならぬ男女は、社会の道徳によって極度に虐待される。侮辱されたり後ろ指を指されたり、権利を蹂躙されたりする。最近或る愚昧な一群の「名流婦人」達が、公娼制度の擁護を叫んで起って云うに、良家の子女の貞操を保護するためには公娼という官許の売淫制度が社会風教上必要だ、というのであるが、こういう馬鹿げた考えも案外従来の常識とひどく距ったものではないのである。
併し何と云っても、家族の財産に基く一夫一婦制に則った所謂「結婚」なるものは、従来の日本の社会に於ける男女関係の最も公的代表者であることは云うまでもないので、徳川時代の封建制の下では、この結婚なるものが大抵の武士や町人や百姓達にも実行出来るものであった。この点明治時代に這入っても大した変りはなかったようである。でそういう場合には、実際は社会の至る処に結婚難があったにも拘らず、結婚難という事実が、まだ問題にならずに済むことが出来た。社会の相当の階級では、大体に於て、結婚難は例外のような場合でなければ決して起きそうになかった。娘達は年頃になれば、何とか親達の手によって、どこかの男の妻として片づくことが出来た。普通の家庭の十人並みの娘なら、この点安心していられたのである。
結婚難ということがやかましくなり、重大な社会問題になって来たのは、大正の末期からであるように思う。その頃から事実結婚難が大きくなって来たのが根本の原因だが、その結果として、結婚難ということを世間の人間がハッキリ認めて口にすることが流行になって来たのである。
ではなぜ結婚難がこの頃から増大したか。結婚難の原因は色々と挙げられている。女学生教育が普及したために、勉強のおかげで婚期を失するのだという考えもあるらしいが、この説の辻褄の合わないのは勿論だ。皆んなの婚期が延びるのだから、それだけ年を取っても婚期を失うという筈はないのである。結婚適齢期は段々後れて来つつあるのである。娘達の眼が肥えて来て、要求が贅沢になったから、というのも聞えない。男はそれ程屑ばかりでもあるまい。又職業婦人になる者が多くて、その職業婦人という独立な生活の自由を失うのが嫌だというので結婚拒絶症になっているのだ、という説明も見かけるが、それは大体から云うと嘘で、職業婦人は年齢の関係もあって、最も結婚を熱望している女群なのだ。ただ事実、なぜか結婚が出来ないのである。之はという相手に出会わないからである。
だが一番間違いのない処は、結婚難が大部分男の側の就職難[#「就職難」に傍点]に原因しているということだ。独身の男達が就職難なので、結婚しても女房を養うことが出来ぬという事情があるから、聡明な男や女は、結婚という生活を拒絶せざるを得ない。之を男の意気地なしと云おうと、女の贅沢と云おうと、女の理想が高すぎると云おうと、我儘と云おうと勝手だが、とに角若い男女の欲望や愛情の如何に関らず、社会の経済関係がそうなって来ているのだから、仕方がない。なる程無理をすれば出来るような結婚もあるが、そうまでして経済上の苦痛を忍ばねばならぬ程、青年男女は「結婚」というものの権威[#「権威」に傍点]を信じていないことも事実なのである。無論結婚という形式は好い華かなものだが、その反面には忍ぶべからざる苦痛と気づまりと絶望とがかくされているという真理を、実は今日の男も女もすでに知っているのである。結婚という制度は青年子女にとっては、痛し痒しの制度となりつつある。そう感じられるのは、結婚難というものが、ごく普通な現象と見える程にこの社会で増大したからなのだ。
つまり今日の所謂結婚という古来からの社会制度が段々矛盾を持って来るようになって来たのであり、又現代の青年子女がその矛盾を愈々切実に感じなければならぬ破目になって来たのである。処が結婚制度のこの矛盾は、さっき云ったように、就職難という経済生活の矛盾から、出て来るのだ。就職難ばかりではない、その裏には事業の失敗、商売の失敗、賃銀の低下、生活費の高騰、失業、こうした一切の社会の矛盾がひそんでいる。一般にこういう経済生活の矛盾から、結婚という社会制度が事実上行なわれ難くなり、それが結婚難というものになって来ている。男が悪いのでも女が悪いのでもない。社会のこの矛盾は大正の末期から著しく感じられるようになった。
之は今更私などが説かなくても知れ渡った常識なのだが、それよりももっと手近かな打開策を聴かせて欲しい、と読者は云うかもしれない。私でも、仮に自分を結婚適齢期の娘と仮定すれば、色々私独特の求婚工策がないでもない。併しこの工策は、私がインテリ娘であるか、お百姓の娘であるか、地主の娘であるか、ブルジョアの娘であるか、商人の娘であるか、職工の娘であるかによって、或いは又、私がオフィスガールかバスの車掌か、女教員であるか商売女であるかそれともただの娘や女学生であるか、などによって、別々でなくてはならぬ。女性よ、聡明になり活発になれと云って見た処で、又女性よ女らしくなれと云った処で、そんな一般的な処方は役に立つまい。
ただこういうことは考えられる。結婚難かどうか知らないが、少なくとも結婚の条件を悪くしているものが、日本で男女交際の発達していないことだ、ということは一考に値いする。封建時代には職業が世襲であったように結婚範囲も世襲のようなもので、旗本の娘は旗本の息子へ、町人は町人へ、という具合に、数から云っても大体つり合うことが出来たので、深窓の内にだまって坐っていても縁はいつかは降って来たが、資本主義時代にはそうは行かない。結婚も亦ここでは出世と同じに銘々の個人の手腕によるわけだ。この手腕を発揮出来るチャンスが男女交際なのだが、日本で夫が発達していないのは、とに角結婚の条件として悪い。つまり自由恋愛という特別な結婚の予備生活のチャンスがないのである。日本の社会では恋愛という制度[#「恋愛という制度」に傍点]がないのだ。恋愛はただの間違い[#「間違い」に傍点]にされている。
処がこの男女の交際、自由恋愛のチャンスは、最近とに角多少は開拓されて来ている。一般の社交というものが開けて来たからでもある。キネマやスポーツや、オフィスに於ける事務やは、若い男女の公然たる接触と、共通の生活内容とを齎した。併し皮肉にもそれと全く平行して、結婚難は増々増大して来ているのはどういうわけか。男女の社交は勿論結婚の条件を甚だ好くするもので、絶対に欠くことの出来ぬものだが、之を結婚難の解決だと思い違いをしてはならぬ。
リンゼーの友愛結婚は一見、この結婚条件の改良を意味しているようだ。恋愛から這入って試験的に結婚して見て、悪かったら解消しようというのである。だが同時に之は結婚難の一種の解決でもあることを注意したい。なぜかというとその内にはすでに産児制限が含まれている。試験結婚中は産児制限をするわけだが、この産児制限の実行が不可能ならば友愛結婚は今の処無意味に帰する筈だ。と同時に友愛結婚は一夫一婦の肉体関係を絶対視しようとする従来の結婚観念を是正するものなのだ。これまでの貞操観念は一夫一婦の肉体関係が絶対だということだったが、この貞操観念をもう少し実際的なそして精神的なものにしたことでもある。産児制限が自由に行くなら結婚して最も負担になる分娩育児が自由になるのだから、結婚はその大部分の困難を失うし、結婚が試験的に出来て而も無貞操を非難されないのなら、無意味なまでに結婚に対して「慎重」である必要もなくなる。之は確かに今日の結婚難の一部分の解決だ。実際、男女は別々に生活するよりも、一組ずつ共同生活[#「共同生活」に傍点]をした方が、経済なのである。
尤も私は之を結婚難の根本的解決とは思わない、大衆的失業がなくならねば、そして之と無関係ではないが、今日の「結婚」という社会制度の持っている財産上の関係が変革されなくては、要するにこの社会の経済的機構が根本的に変らなくては、結婚難の源泉は根だやし出来ぬ。之は空想ではなくてソヴェート・ロシアあたりで現に部分的に実現している処だ。その代り、その場合の結婚[#「結婚」に傍点]というのは、今日日本の上流家庭の奥様やお嬢様方があこがれているような、ああいう内容を具足したものでは恐らくないのだ。で、いずれにしても、今のままの結婚を理想とするような結婚は、依然、否全然、困難だ。併し仮にリンゼーの友愛結婚のような打開策でも、今日の日本の上流夫人令嬢方のつつましい女らしさを狼狽(?)させるに充分だ。だからどっち道、今のままの結婚理想の下では、結婚難打開の根本策は無いということになる。
結婚という観念なり理想なりを変更しないと、結婚難は消えない。要するに「結婚難」と今日云われている処のものは解決不可能なものだというのである。ではどう変えるか。一例は家庭というものである。女達は結婚前も(結婚後はなお更)、結婚は男と家庭生活を持つことと思っている。その言葉は好いが、どういうことかと思うと、職業婦人は社会に於ける職業生活をやめることであり、ただの娘達はなるべくボーナス(?)の多い家庭労働へ就職することである。いずれにしても社会的労働の代りに「家庭の人」となるのである。社会の代りに家庭に這入るということが、女の結婚だ。処が男にとっては、まるでそうでない。これは男の結婚と女の結婚との悲しむべき食い違いだ。而もこの男と女とが一緒に暮すのである。その結果はどうなるか。それは奥様方の充分御承知のことだ。
結婚という観念を、家庭主義から解放せよ。現にアパートなどというものが家庭を建築上の造作から変えてかかっている。日本の家庭は今、日一日崩壊して行きつつある。廃墟に立つことを欲しない青年子女は、その結婚の理想から家庭主義を捨てよとか家庭を有つなというのではない。家庭だけを頼りにして結婚生活が出来るという迷信から醒めよというのである。家庭を持ちながら、出来るだけ社会的職業を持って社会人として独立することを理想とせよ、というのである。
尤も之は理想だ。現在の日本の家庭は、家族銘々の習慣から云ってこの理想には極めて不向きだし、それに第一社会に於ける就職難自身が絶大なのだ。そして家庭の矛盾となって現われている炊事や育児を社会的に合理化す社会施設はまるで省られていない。だが理想は理想であり、真実なのだ。少なくともお嬢さん方(と云うよりも奥さん方と云った方がいいだろう)の所謂「結婚」という理想よりも、先々の見込みのある理想だろうと思う。
女が働きに出れば、ただでさえ就職難な亭主達は愈々困るだろう、と云うが、夫は全くそうなのである。だがそうだからと云って、ヒトラーのように、女の七児生産を奨励するような家族主義が、民衆の幸福を愚弄するものであることに変りはない。独りドイツのヒトラーに限らぬ。日本でも今日、この家族主義は甚だ無責任に旺盛である。この家族主義は社会に於ける就職難を弁護している。だから結婚難を弁護しているのも亦実に、この家族主義、家庭主義だということになる。夫が例えば花嫁学校主義なのだ。
そんなまわり遠い社会政策ではなくて、私の年頃になった娘の縁談を早く何とかして呉れというかも知れない。それなら私はこう云おう。何、その内いつかあります。世間が結婚難だからと云って、何も貴女の娘さんに限って結婚出来ないということにはなりません。世間は世間、貴女は貴女というのが貴女の建前ではありませんか。それから、結婚難は世間の社会の問題ですから、之を解決したって貴女のお嬢さんの嫁入口が決まるわけでもありません。結局貴女は結婚難など問題にする必要はなかったのです、と。――個人々々が自分やお友達の結婚ばかり考えている限り、結婚などという社会問題[#「社会問題」に傍点]はどこにも存在しない。結婚難を問題にしたいなら、社会問題――社会自身の矛盾――を問題にしなければならぬ。処で家庭主義者には之は一寸無理な注文だ。尤も手近かに自分だけの結婚が問題なのなら、コケットリーというもので充分実際的に役立つだろうとも、私は思っている
前へ
次へ
全46ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング