れはいまだにどこの資本主義国でも大衆的[#「大衆的」に傍点]には(有閑マダムは別だ)社会化されていない処のものだ。家庭は資本主義社会に於ける封建遺制の孤塁である。
 この点日本が世界の模範であることは、日本婦人の美徳として讃えられている処である。外国人の旅行者はこの美徳を失礼にもゲーシャ・ガールの内に、振り袖の裏に発見する。最近の例はコクトーなどというフランスの文士の言動だ。彼の言葉によると日本人はなぜあの美しいキモノを着ないで洋服などを着るのだろうかというのである。この国際観光局的現象は、実はやがて国際文化振興会的現象なのであって、日本婦人の美徳は実に国辱映画的な本質のものであるわけだ。
 さて日本の女性教育に就いては有名な『女大学』が存在している。女大学が封建的社会秩序、実は封建的生産生活の体系、を露骨に擁護したものであることは言を俟たぬ。「婦人は夫の家を我家とする故に唐土には嫁を帰るというなり仮令夫の家貧賤成共夫を怨むべからず天より我に与え給える家の貧は我仕合のあしき故なりと思い一度嫁しては其家を出でざるを女の道とす」。「婦人は別に主君なし夫を主人と思い……女は夫を以て天とす返々も夫に逆いて天の罰を受べからず」。かくて女は夫を主君とする封建的家庭の人的労働用具に他ならぬ。人的労働用具乃至労働力は最も経済的でなくてはならぬ、「下部あまた召使とも万の事自ら辛労を忍て勤ること女の作法也」、「朝早く起き夜は遅く寝ね昼は寝ずして家の内のことに心を用い織縫績緝怠べからず又茶酒杯多く飲むべからず歌舞伎小唄浄瑠璃等の淫たることを見聴べからず」云々。
 福沢諭吉が『女大学評論』と『新女大学』で之を一々批判したが、日本の資本主義が帝国主義の段階に入り金融資本の要求の下にファッショ化しても、この点は根本的には改められない。否ファッショ化の下には却って日本の女性は支配者の手によって実に無謀無責任にも、愈々家庭化され封建化されることになって来たのである。結婚難(之は男性の就職難に随伴する現象に過ぎない)という資本制の矛盾は、女性を封建家庭化することによって救済されるかのような神話が作り出される(花嫁学校)。女性の知能教育として意味のある女学校の英語を廃止せよという議も生じて来る。職業教育を意味していた女子の専門学校は、最近入学者の数を著しく減少しつつある。失業者を家庭へ吸収させるために、女性は社会から家庭へ追い込まれる。そのために必要なのは女性の社会的低能化でなくてはならぬ。之は日本に限らずドイツ・イタリヤなどの支配者の社会教育方針なのだ。――日本女性の教育が、男性教育に較べて著しく封建主義的であり、而もそれが最近の数年間に於て甚だしく強調されだしたことは、資本制下に於ける女性と家庭とのくされ縁から云って、宿命的なことなのだ。
 女性と家庭とのくされ縁と云ったが、このくされ縁は資本主義下に於ける特色であることを忘れてはならない。と云うのは前にも述べたように、封建的家庭秩序は資本主義の成長によって次第に破壊されたにも拘らず、資本主義自身は家庭と資本制自身との矛盾を遂に解くことが出来ないのである。過剰労働力がうようよしていて夫が頭痛の種でさえある処に、特殊な女性向き労働を除いて、不熟練な婦人労働力など何の必要があろう。従って家庭労働を社会化し主婦や娘達を生産場面へつれ出すことは、一般的に云うと資本には何等の興味のもてないことなのだ。この際に男女同権の叫びなどは、それが何か或る一つの恐るべき勢力と結びついて恐怖とならぬ限り、資本の耳に訴えることの出来る筈はない。ブルジョア・デモクラシーの発達が低い日本に於ては特にそうだ。
 ソヴェート連邦に於ける女性は男女平等に社会的教養を得られる組織になっている。単にそういう方針があるだけではなく、そういう方針が成功する社会的機構があり、そして事実相当の程度にまで夫が成功している。と云うのは、他のことは論じないとしても、ソヴェートに於ける家庭労働は、目的意識的に社会化[#「社会化」に傍点]の過程を進められつつあるのである。共同食堂・託児所・同棲生活の自由・等々の発達が之を示している。ここでは女性も亦労働の権利を憲法によってのみならず社会の実地に於て、与えられている。而もそれは女性の母性の保護の下にである。ヨーロッパ大戦に於てはヨーロッパの交戦国の女性は、男性の手不足のために生産労働にかり出されたが、併し狡兎死して走狗烹らるの譬えの通り、資本の必要から見て不用になった彼女達は、忽ち家庭へたたき戻された。それを最も痛切に身にしみて感じねばならなかったのは今日のドイツの無産婦人だったろう。尤も戦時共産主義時代のソヴェート労働婦人も、やがて労働力の不熟練による低質のために、次第に淘汰されたという事実は忘れられてはならぬ。特に新経済政策以来そうなのだ。だが、之は社会機構の問題ではなくて女性の教育程度(労働能力の教養)の問題であり、だから女性の教育が社会的に発達すればよくなる事柄であり、而も女性の教育を阻害する反動的な必要はどこにもないのであり、のみならず女性の教育を男性と同等に、なお又資本制的教育より遙かに矛盾なく、促進する社会的条件自身が、そこには備わっているのである。
 だが女性教育の日本に於ける反動振りは、必ずしも資本主義の発達が後れていたということだけでは説明出来ない。資本主義が日本よりも遙かに後れている中国に於ては、ヤンガージェネレーションの女性インテリの社会的地位は、平均して日本よりも確かに高いと云わねばならぬ。之は結局に於て現代支那に於ける女性の社会教育が、少なくとも部分的には可なり進んでいることを物語っているだろう、教育の理想は元来、一つのイデオロギーとして、国際的な可動性を有っている。之は日本にも支那にもそのイデオロギー的影響を有ち得るものなのである。ただ支那に較べて、半封建的残滓が社会の基底として政治的に遙かに強く制度化されている日本の、法治的秩序の良さが、この影響の自由を妨げているのではないかと考えられる。恐らく中国ではその法治的秩序の不統一のために却って、丁度日本の維新の初期がそうであったように、この教育の理想(つまり社会の理想だが)が比較的正直な影響を或る一部の進歩層へ与えることが出来るのではないかと思われる(但し中国の女性教育に対する進歩的影響は、日本の明治中期以来のような一種の退化を招くことは当分はあるまいと想像する。なぜなら支那は内部的な動きを当分続けて行くだろうから)。
 だが日本の家族制度が、女性の社会化を妨げつつある処の原則であるにも拘らず、又この社会化防止・家庭的強制の強調にも拘らず、この事情が徹頭徹尾反動に過ぎぬということは云うまでもない。と云うのは、こうした条件、こうした動きは、大勢の運動方向の必然性を、結局に於てどうすることも出来ないのである。現に日本の家庭は刻々に破壊されつつある。家庭を離れた農民は続々として都会に侵入しつつある。夫が都市膨張の一つの有力な原因になっているのだ。職業婦人は年々増加しつつある。之は今の処、それだけ家庭結成の延期を意味している。こう云った状態は女性を封建家庭的な生物として取り扱おうとする支配者男性にとっては全く失望に値いするものであり、又自分を封建家庭的な存在としなければ幸福を感じないような婦人の甘味な夢にとっては極めて不幸なことだ。だがこういう不幸の感情の原因は、この家庭崩壊という事情自身にあるというよりも、寧ろ、この崩壊する家庭に社会的利益の最後の望みを託している社会教育者や女子教育家、「識者」や婦人雑誌の「記者先生」にあることを忘れてはならぬ。春秋の筆法を以てすれば、婦人ジャーナリズムこそは現代女性を不幸にしている責任者の第一人者であるかも知れない。
 併し現に日本の家庭は崩壊しつつある。その結果女性は家庭から社会へ、いやでも投げ[#「投げ」は底本では「役げ」と誤記]出されつつあるのである。処がこの不幸こそは正に女性にとって何よりの教育[#「教育」に傍点]になっているのだ。如何なる女性反動教育家もこの教育的効果に就いては悪口を云うことは出来まいし、又無論之を妨害することも出来ない。女が医学博士や何かになることは、日本の文化の発達を意味するものだと云わざるを得ないだろう。職業婦人や之と風俗上或る共通な前進を共にしているモダンガールや女学生も、男達が実際そういうタイプの女を好きで夫が殿方の要求に適しているとすれば、嫁入り前の娘をかかえた親達は、もう何も云うことはなくなる筈である。キネマやレヴューも今日では最大の女性教育機関である。校長先生の人格を以てしても一ターキーのサインやディートリヒのイットの教育的威力には敵わないのだ。封建武家の生活からの伝統にすぎない各種のお作法やお行儀も、洋装の制服の前には滑稽なファースにしか過ぎなくなる。実際このおかげで娘達の脚は急速に長くなったのであり、それから見ると彼女のお袋達のヨチヨチあるきは醜悪で不作法なものとなった以上、誰ももはや之を非難する勇気を有たない。体育やスポーツ(体育とスポーツは元来別で特に或る政治的な必要の下にのみ一致させられているが)に於ける女性の進出は、女性教育の成功でこそあれ、女性の堕落だとは誰も云うまい。
 だがこうした女性の教育上に於ける進歩は、反動的な日本の教育者にとっては、その三分の一は意識的意図に基いているが、残りの三分の二の半分は無意識的なものであり、あとの方の三分の一は全く意図に反したものに他ならない。つまり女性は支配者の教育方針とは半ばは独立に、自分で自分の教育を行いつつあるわけなのだ。そして女性教育の問題はこの自己教育の方向にあるのである。女性を教育するものはだから現代、何よりも社会の転化そのものであると云わねばならぬ。今日の女性教育にとって最も有効な手段の一つは、女性が封建的家庭から独立することだ。之が資本主義下に於ける女性教育の根本的矛盾を解決するに必要なコースである。だが本当に封建的家庭から女性が独立出来るということは、つまり現下の資本主義下に於ける家庭の崩壊と共に、之を合理的な結婚形式に高められる新しい性関係のなり立つ社会の建設の他にはないのである。モダンガールの類はここまで問題を押し進めていない。だから彼女達には単なる無能な不平とニヒリスティックな快楽以外に生活の開放がないのだ。――でそうなると問題は単なる女性[#「女性」に傍点]の問題でもなく、又単なる教育の問題でもない。この問題は大衆の階級的動き[#「階級的動き」に傍点]の他には実地の解決を見出だすことが出来ないということになる。女性教育に就いてすぐ様思い浮べられるのは男女共学の問題と広義の性教育の問題とである。だが日本の現状では(尤も日本には限らぬが)夫をこの大衆の階級的動きから割り出さぬ限り、男女共学も性教育も決して実を結ぶことは出来ぬ。婦人参政権問題も廃娼問題も皆そうだ。――教育の根柢は学校でも家庭でもなくて正に社会だ。そして女性教育の根柢は女性の問題や教育の問題にあるのではなくて、正に社会の階級的動きの問題にあるのである。
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 17 現代青年子女の結婚難

 結婚生活に這入ることが、社会生活として、とに角容易なものでないという意味なら、結婚難は昔からあったわけだ。極度に貧困な男や、色々の階級の売女達は、昔から結婚難であった。彼等は、少なくとも世間からレッキとした夫婦関係と見做される一夫一婦制度に則った性生活には、容易に近づくことが出来なかったのである。之は要するに貧困から来た。
 だから結婚というこの制度は従来、社会に於て相当な位置を占めているような階級の人間だけにとって当り前至極な制度であり、大して苦しまなくても這入ることの出来た制度であったが、他の相当少なからぬ数の下層の男や女にとっては、羨しくても手のとどかない社会制度だったわけである。
 而もそういう社会で通用する道徳は、一夫一婦制度が神聖犯すべからざる鉄則だと教えるのだから、結婚したくても出来ない男女、而も正式の結婚に
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