から光を当てられる。
学生は一般大衆から色々な点で区別されている。なる程彼等は第一に知能分子である。それと云うのも社会的に多少は経済上の余裕があって、相当高等の教育を受けることが出来たからだ、だがそれと同時にこう云うことも忘れてはならぬ。日本の教育制度は云うまでもなく、有産者的な制度と方針と内容とのものであり、学生も多少とも有産者の層の出身であるが併し例えばイギリスの学生のように特殊な貴族層の出ではなくて、実は勤労大衆の或る程度以上の層の凡てから出ているということだ。プロレタリアや貧農出身ではないが、大衆的な勤労層は之によって代表されているのである。その限り学生の社会的位置は決して選ばれた好いものでも何でもなくて、大体に於て貧窮しているのだ。一般の勤労大衆が貧窮しているからなのだ。
尤も同じく貧窮していても、子供を専門学校や大学へ送り得る親達自身は(たといいかに無理算段して一つの投資のつもり[#「つもり」に傍点]でやるにしても)勤労層の比較的上部のものだ。全体の極めて少ないパーセンテージに過ぎない処の上部のものだ。併し学生自身にはこの点そのままはあて嵌らない。学生は彼等の次のジェネレーションである。そして親達は自分達の次のジェネレーションの生活までも保証出来る程に、有産者ではない。そうでなければこそ子供には教育を与えて、出世もさせたいというのであった。従って学生層は平均してその親達よりもズット社会的に経済生活の劣った層であり、又そうした層を約束されているわけで、そこに就職問題の真剣な意義もあったわけだ。
単に学生がその親達よりも経済的に低い社会層をなし、又約束されているだけではない。社会的待遇も亦学生は最近極めて降下して来た。学生であるが故に許されるという特権は形式的に残っているが、併し学生であるが故に許されないものの方が実質的には比重が大きい。学生は寧ろ一人前の大人となって来た(学生らしくなくなった)のであるが、その大人たるや道徳的に最も抑圧された層の大人として通用しなくなった。之は云わば婦人の位置と似たようなものとなって来た。或いはもっと本質的な類似を持って来るなら、学生は無産大衆化し、更にプロレタリア的な位置におかれるようになって来た。学生運動は労働運動と近接のつながりがあったが、又そうしたつながりのあるものとして取り締られた。
かくて経済的な能力から言って又道徳的な権利から言って、学生層は決して特権層とも比較的な特権層とも云う事は出来ぬ。寧ろプロレタリアになぞらえられる[#「なぞらえられる」に傍点]ような無産大衆の内での、或る特別な層だと云うべきなのである。だから学生を単なる中間層とか小市民であるとか、又そういう意味に於てインテリゲンチャであるとか云うのは、一応は本当ではあるにしても、それで以て学生という[#底本では「う」が脱落]カテゴリーを片づけ得たと思うなら大きな誤りだ。
問題は学生生活の今日のような歪曲を如何にするかということだったが、今まで云って来たことで、この問題は結局、勤労大衆に属し又プロレタリアになぞらえられる[#「なぞらえられる」は底本では「なぞえられる」と誤記]ような学生、という或る特別な層に於ける生活の歪曲を何うするか、ということになった。夫は第一に[#「第一に」に傍点]勤労大衆層乃至プロレタリア層に準じて考察されるべき内容のものだ。そこでは単なる[#「単なる」に傍点]学生の問題も、単なる[#「単なる」に傍点]学生生活の問題も実はないのである。この点は「学生問題」を提出するに当って第一に大切な点だと思う。――だが第二に学生は夫にも拘らず学生であって一般の無産勤労大衆自身やプロレタリア自身ではないことは云うまでもない。或る特別な民衆だ。と云うのは知能の高い民衆であるということだ。或いはもっと正確に云うと比較的高い知能を期待出来る処の若い民衆だと云うのである。なぜなら学校教育だけが知能や教養を与えるのでもないし、又学校教育が却って知能を低めたり教養を妨げたりすることも事実だからである。
要するに簡単に云うと、学生は知能(インテリジェンス)に於て一般の民衆から区別されることが本質的な点なのである。学生は他の一切の規定によってその特性を規定することが出来る。だが今は、学生生活の歪曲を如何にするかという問題だ。この問題にとってはこのインテリジェンスが根本的な観点だ。――つまり学生生活の歪曲は他でもないので、知能という人間の普遍的に日常必要な一つの技能[#「技能」に傍点]を当然最もよく訓練されてあるべき学生が、その技能の習得に於て障害を受けているということが、何よりの学生生活の歪曲なのであって、この歪曲を矯正することはだから当然、知能という技能によって社会的特性を与えられている処のこの学生というものの「社会的」位置をハッキリさせることに他ならず、学生の一種の技能者・技術者としての社会的使命を自覚することなのである。之が学生という「社会的カテゴリー」に忠実なる所以なのだ。
学生に関する学生自身にとっての一切の問題は、終局に於て、この「知能的技能者としての学生」というカテゴリーから見て、解決されねばならぬと私は信じる。この意味に於ても「技術の獲得」ということは、学生の社会大衆的な使命だ。学生はそのためには願ってもない境遇だ、大衆は学生に対して(馬鹿書生は別として)、この知能的技能者を求めている。大衆自身の未来の社会のために、この要求の前に学生生活の見透しとモラルとは明々白々ではないかと思う。
以上すでに書いたり云ったりして来たことであるが、最後に一つのことを之につけ加えたい。夫は学生にとっての自意識[#「自意識」に傍点]と大衆性[#「大衆性」に傍点]との結びつきである。と云う意味はこうだ。学生は一種の知能分子である。知能=インテリジェンスの特色は、夫が最も自覚[#「自覚」に傍点]され易いと云うこと、自意識を必然的に随伴するということだ。かくてインテリゲンチャにとっては自意識なるものがいつも正面に押し出される。だからかつて「知識階級論」が行なわれた頃、文士達は自意識と云うもので作家の人間的知能を云い現わそうとしたものだ。それはそれでよいのだが、併し自意識に於ける自分、自我、というものは何かが判っていなければ、危険この上もないのである。朕は国家であると云ったルイ十四世のようなのも自我なら、一切の事物は自分の観念に過ぎぬと考えたバークリも自我だ、自意識も大切だが自分を自覚するこの自分が抑々如何なる自分かがもっと大切だ。学生はインテリゲンチャとして、自意識が濃厚だ。併し学生の「自分」は何か。
だが実はそのことは先程述べたのである。学生の身分は、学生という社会層は、民衆にぞくするものである、無産勤労大衆乃至プロレタリアに準ずべきものであると云った、夫がこの「自分」の説明である。学生の自覚は、自分を大衆として自覚することだ。
大衆の足場・眼・以外に、学生の立つべき又持つべき足場も眼もあり得ない。学生と云う特別な層があって夫が独自な足場や観点を提供すると思うなら、恐らくそういう学生はこの支配者社会に於て最もよく飼い馴らされた処の「学生の本分」を専門とする処のものだろう。夫は学生が「自分」を失うことだ。学生問題が消えて無くなることだ。
三 学生はなぜカフェーから閉め出されるか[#この行はゴシック体]
暫く昔、日本で学生が書生と呼ばれていた頃は、社会的に学生が可なり優遇されていた時期であった。なる程貧乏な学生(「苦学生」・「貧書生」)は今より多かったらしいし、又書生一般の生活程度も当時の水準に較べて今よりもずっと低くて、身なりや日常生活も今の学生よりはしみったれていたらしい。併しそれにも拘らず、彼等書生は書生であるとして世間に立派に通用していたのであって、書生流[#「書生流」に傍点]は一部の社会の一個独自な生活理想を示す優秀な風俗でさえあったのだ。
今の学生は一面から云えば寧ろ社会的に一人前になっていて、表面上は世間並みの人間と昔程の相違を有っていないが、それは実はそれだけ学生が社会に同化しなければならない弱みを意味するので、彼等がすでにその弊衣破帽式生活に自信を失って了った証拠なのである。現在の学生は他の階級や身分や職業に較べれば依然幾種かの特典をもってはいるが、根本的な点では、昔の書生に較べて著しく社会的に不遇になっている。大人びたとも子供臭くなったとも云われているが、泣く児が悪まれるように、それが、益々彼等の社会的冷遇の理由にさえなっている。
昔の書生は、新興支配階級の幹部候補者として養成されたものであったから、初めから一定の社会的役割と使命とを持っていた。それは自他とも許していたことなのである。たとい実際眼の前にいる書生は貧相でも、彼等は可能性に於ては立派な支配者の列に連なるものなのだから、社会的に或る一種の重きをなすことが出来た。尤もこの現実の貧相と可能的な偉さとの妙な対比が彼等を一類型のカリケチュアに仕立てたが、それは寧ろ人気者がもつカリケチュアの類であった。
だが彼等はやがて幹部に列するものではあるのだが、併し何と云っても一個の候補生に過ぎない。現実社会の一定の必要に対応している限り彼等の社会的地位は一人前の大人並みのものだが、併しまだそれの未熟者だという意味では単に子供で半人前に過ぎなかったのだ。そこで彼等に対しては、社会から来る制限が、丁度貴族の而も坊ちゃんに対するように二重にルーズであり得たので、この特典を利用して、書生は思う存分、食ったり飲んだりあばれたりすることが出来たのである。
処が日本の独特な資本制がその独特な軌道に乗り始め、行くべき処にまで行って了うと、支配者幹部の椅子は段々余地を持たなくなる。そしてこの軌道自身に限度があるのだから、椅子の余地は自発的にも益々狭められて行かねばならぬことになる。資本制的支配者幹部の候補生の筈であったこの学生なるものは、段々に幹部候補生の資格を実際には解除されざるを得なくなる。大学を出ても学士様でも、食えなくなって来たのである。尤もこの場合でも、学士様は食えなくても学士様はもはやすでに学生ではないのだし、そして食えなくなれば学生もしていられないわけだから、依然前に変らず学生は学生である限り立派に親の脛をかじって、食ってはいるのだが、併し幹部候補生としての学生の社会的使命はもはや成り立たなくなったのだから、当然学生に対する社会的待遇は悪化せざるを得ない。
学生は学生である限り立派に特権的に食っているにも拘らず、学生は一種の可能的な失業者と見做されることになり、云わば一種の余計者で邪魔者だとさえ考えられて来る。学校を減らし学生の数を制限しろと社会では提案し始める。――だがそれにも拘らずこの現象は半面に皮肉な関係を含んでいるのだ。というのは学生は可能的な失業者であるのだが、それ故に却って又三年なり六年なりの失業延期の特典の所有者でもあるのである。即ち彼等は例えば中等学校を出てすぐ様失業者の資格を受け取るのを避けるために、更に三年なり六年なりの失業延期をするのだが、それが彼等の専門学校なり大学なりの学生生活になるわけだ。尤も之が、高等教育を受ければもっと良い口があるだろうと考えるからでもあるのは事実だが、それはこの失業延期案を、そういうはかない希望で以て置き換えようとする自己慰安の方法に過ぎないのであって、大学専門学校出身者の方が中等学校卒業生より却って就職率が低いということは、相当世間に徹底している事実なのだ。
で今日の学生、特に大学の学生などの可なりの部分は、意識的無意識的に、失業の代りに学生生活をしているとさえ云って良い。そうすれば学生は一つの立派な職業[#「職業」に傍点]で、之によって学生は社会から一定の身分に相応する待遇をだけ期待する権限を受け取ることになる。
例の書生は併し決して社会の一隅を占めるこのような職業人ではなかった。彼等は云わば計り知れない無制限な可能性を蔵した限定し難い茫漠とした層であった。之
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