化的な役割を現実に社会の内に持っているのであって、今日の評論雑誌の真面目なものは、依然として学生をその最大の顧客としているのである。今日の学生にも、矢張り明日というものがあるのだ。ただそれがそんなに手取り早くないというまでであり、従ってオポチュニストにとっては根が続かないというまでで、こういう時にこそ、確実な分子とオッチョコチョイ分子との本質的な区別が眼に見えて来るものだ。
興味のあるのは学生と教授との関係である。教授の授業は面白くないと云って学生は相手にしないというようなことが云われているが、学生生活の張りのあった時期にはたしかにそうだったのだが、現在では必ずしもそうではないのである。今日の学生は案外神妙に教授の言説に関心を持っているのではないかと思う。少なくとも以前のように教授を真向から批判しようという気持ちもなし、批判の必要も本当には感じていないのではないかと思う。口ではツマラぬツマラぬと云いながら、一体どこがなぜツマラぬのか判らないのが多いようだ。結局社会的に何が真実であるかを知っているものが少なく、従って教授のどこがクダラないのかを比較によって知る術べがないのである。そういうことは、もうどうでもよくなって、教授とは就職関係でつながりを保つ方が必要なのだ。処がそういうことがやがて、教授の学問言説そのものにひかれる心境と一つなのである。
最近の学生は総じて教授や大学当局に対して、以前ほど批判的ではない。之は学生の社会的役割が低調になったと共に、同時に又、教授や大学そのものの社会的重大性が著しく減じたからでもあるのである。事実今時若いくせに大学の先生になろうと願っているような人物には、大した人物はいないのである。今日の大学教授は一介の俗吏の相当の地位にあるものに、頭から敵《かな》わないのである。実力から云っても社会の信用から云ってもだ。私は新築地劇場で「流れ」という芝居を見たが、劇としてはどうもあまり面白くなく幕が降りても拍手がバラバラだったが、併し一個処、妙に気取った紳士が出て来て、それが「大学の先生」だということが判った時には、一同声をあげて笑いこけた。大学の教授が今日の民衆から如何に漫画化されて見られているかを、私はツクヅク感じたのである。
大学、教授、学生が、それ程社会的なインポータンスを失いつつある時、この一連のものがお互いにいたわり合うことは無理からぬことだ。そこで学生は大学や教授に対して可なり八百長的になっている。その結果は、何等の社会的大義名分を持たないような、大学お家騒動などが方々に起きるのであって、之に関係する学生は全く大学の家の子郎党の心算でやっているとしか見えない。以前の学生ならばこういう形の学生争議を、学生の社会的運動に利用しない限り、潔しとしなかったろうに。
こうした大学の一般的な状勢の下に、併し矢張り一面学生の社会的役割の積極性は、地下水のように浸み渡っていると云わねばなるまい。今日みずから絶望することなどを覚え込んだ学生は、どの道初めから絶望に値いする学生に相違ない。失望する者はサッサと失望させてやるがよい。学生や青年インテリの社会的使命は云わずして明らかなのであり、ただその使命の実行には以前と違って極度のネバリが必要になって来たというだけに過ぎないのだから。学生の社会的意義は本質上変りはしないのだ。
二 学生の技能と勤労大衆[#この行はゴシック体]
最近私は学生や青年の問題について、書くことを注文されたり意見を徴されたりすることが非常に多い。何が問題になっているのだろうか。何かが見えない動機となってそういう問題を提出させるに相違ない。その匿れた暗礁は何か。
学生にとって最近最も切実な関心となっているものは第一に、就職と入学試験とである。前者は専門学校や大学の学生生徒の生活をスッかり引き浚って行って了っているし、後者は小学校から始めて中学校・高等学校・の生徒達の生活を殆んど完全に支配して了っている。そして入学試験の問題の最後の関心は云うまでもなく就職への関心だ。
私は之に就いて良いとか悪いとか云う勇気をもはや持っていない。入学試験の弊害位いは制度の改革によって矯正出来そうに想像されるかも知れないが、夫が決してそうではない。第一制度そのものの改革が決して短い時間の内に実行される底のものではない。教育関係当局は、入学試験の弊害を実は口で云う程重大視しているのではない。それよりも大切なのは教育の精神であったり「精神教育」のことであったりする。教育制度(学校の年限短縮や延長のことに過ぎなくても)の改革云々となると、入学難とか何とかいう民衆の立場からする関心などはどこかへ飛んで了って、すぐ様教育の「精神」だ。真面目に民衆のために教育を考えてなどいない。又仮に教育制度が適当に改革された処で、入学難の根本的解決などは出来るものではない、なぜかというに、入学難の背景には、母親の虚栄心や小学校の校長さんの世渡り術などより遙かに重大な動力として、将来の就職という目標が作用しているのだからだ。
そこで就職問題の解決だが、之が抑々今日の社会問題の随一の困難なものの一つである事は云うまでもない。之は学校の先生達の卒業生売込運動や卒業生の各種のヒロイズムでも解消しないし、「世間雑話」的な世渡り精神でも役に立たぬ。そうした種類の粒々たる心労も、例えば軍需景気の一寸した上下の作用で、声のない虫のように、ひねりつぶされて了う。就職問題など一にかかって、支配者の腹具合にあると云うべきだろう。併しそう云っても銘々は食わねばならぬ。責任は支配者にはなくて、学生の場合なら、卒業生の銘々やその親や親戚にある。之が所謂「就職」問題なるものの意義だ。
こうして入学試験の問題を就職問題へ解消して考えると、結局学生の最も切実な問題と云ったものは決して学生だけに特有な問題なのではない。今日誰だって食うに困っているか食うに困ることを恐れているかだ。その一群の民衆が偶々学生と云うものにすぎぬ。親の資産で食ってゆけるものは就職などは体面の問題にすぎぬ。学生であろうとなかろうと変りはない。従って又、食えないとなると学生であろうが、なかろうが又変りはないのだ。ただ学生の方は卒業まで何とか食えるという条件の下に置かれている多少恵まれた一群の民衆で、卒業を機会に「就職」の時期が家庭と社会とから指定されている人間達に他ならない。
就職問題が併し何か学生生活にとって切実な関心となっている、と云い立て[#「云い立て」に傍点]られる意味は、勿論一般の失業問題がやかましく云い立てられる意味とは、多少違ったものを持っている。学生の就職問題の場合には、夫が学生生活を歪めるから悪いという点が、論じる人の意識の上では相当重きをなしてはいないか。純真なるべき学生の精神や、学生の好学心や、其の他其の他を傷つけると考えるから、就職難問題が何か学生に特有な問題にもなるのである。そういう意味から、現代の学生は学生らしくなくなったとか勉強しなくなったとか、或いは享楽的になっているということさえの事実(之は何と云っても事実だろう)の責任を、この就職難問題へ持ってゆくのである。
併し勿論就職難は学生をいつもこのように無気力な学生に仕立てるとは限らなかった。一頃世間は学生の赤化の原因はさし当り就職難にあるとも云っていたものである。でそう考えて来ると学生生活を歪曲しつつあるものはもはや決してただの就職問題=就職難だけではない。それから来る単なる条件反射のような意識だけでもない。之を通して学生は、社会に対する或いは寧ろ未来の社会に対する、希望と期待とを失って了っているのだ。それが今日の学生生活の歪曲を齎していると云うべきだろう。今日之は誰でも云っている処だ。
学生は青年であり、即ち時代の新しい矛盾の下に発育して来た者だから、この矛盾が醸す各種のイデオロギーに著しく動かされる。と云うのは学生にとってはイデオロギーなるものの作用は極めて現実的なのだ。学生はイデオロギーに多分の信頼を置いている。既成社会の現実よりも遙かに多く、学生はイデオロギーに期待する。現実を踏み越えるイデオロギー、或いは寧ろ良い意味に於けるユートピアと云ってもよいが、この観念物や思想物に動かされる。青年の夢と呼ばれるものが之だ。処がこの現実を踏み越えようとするイデオロギーが社会的に一時通用しなくなると、もはや学生には何等希望の特権がなくなって了う。現実に対する計画者としての学生は最も無能な民衆の一群だ。ここに学生生活の歪曲なるものが発生する。
そこで学生生活のこの歪曲をどうしたらば良いか、という問題になるのである。尤も社会の支配層にとっては、この状態は大して学生生活の歪曲でもないと考えられるかも知れない。学生が学生の本分を忘れて学生運動をやったり労働運動に働きかけたり、又啓蒙運動に携わったりするよりも、今の方がまだしも学生らしくて都合がいいと考えているのが、かくれた事実だ。誰もそんな事は口には出さぬが、支配層の言動を総合するとそう診断せざるを得ない。社会の支配層は民衆のための教育に就いてなど、真面目に考えてはいないと言ったが。本当に学生生活について真面目に考えている人間は当局に椅子は占め得ない。いや社会に於ても足の四つある椅子には腰かけていられないのである。そこで学生生活のこの歪曲をどうしたならばよいか、併しどの点が一体歪曲された学生生活なのか。学生が著しく享楽的になったからか。だが実を云うと享楽ということは少しも悪い事ではあるまい。学生は学生の生活を楽しまねばならぬ。野球がよく軍事教練がよいなら、ダンスもよければ喫茶店でレコードを聴くのもよい筈だ。もしダンスやコーヒーやレコードが学生の本分外ならば、凡そ今日の野球程学生の本分を踏み出したものはないと私は信じる。そして若し学生生活を何等かの手段に化すことが悪いならば、就職運動で馬鹿となるのが歪曲だと同じに、他の運動や教練だって歪曲だ。併し学生生活の本分をそんなに狭く理解すべきものではない。学生の本分は何であるかなどということを決め得る人間はどこにもいないのである。夫は学生自身が事実上決めて行くものなのである。少なくとも生活を楽しくし生活の幅をつけるということは、人生の上で大事なことだ。問題は凡ての民衆が一般的に夫をなし得ないからこそ起きるのだ。
生活を楽しむためのチャンスが多いという点で、今日の学生は過去の学生よりも幸福であり、且又却って学生らしいのである。これ自体は学生生活の歪曲でも何でもない。それよりも要点は、学生が勉強しなくなったということらしい。――処がこの点でも無条件に片づかないものが含まれている。一体現在の学生はどう言う意味で勉強しなくなったか。私は寧ろその逆の場合に出合う事が多い。学生は仲々よく勉強する、ノート勉強をやるのである。教授の云うことを割合善良に信じるようになっているのである。就職のためにはこうした勉強は必至なのだ。して見ると之も普通の意味では学生生活の歪曲ではなくて、却ってノルマルな学生生活に還ったということに過ぎぬ。
社会科学の勉強[#「勉強」に傍点]は、丁度文学科の学生の小説勉強のように「学生」なるものの本分(?)を踏みはずしたものであったに相違ない。「学生」と云うこの社会の馴致されたカテゴリーから云って、今日の学生生活は大して歪曲はされていない。学生と云う馴致されたカテゴリーは、今日こういう学生生活を要求しているのである。
だから私は云うのである、学生が学生である限り、即ち「学生」と云うこの社会機構の承認されたる一環を以て自ら任じる限り、即ち又そういうものとして社会の民衆から自分達を区別する限り、今日の学生生活は殆んど何等歪曲などされていない。夫を批判したり何かする資格をその学生は持たぬのである。学生が「学生」に止まる限り、何も問題はない。あれでいいのである。だが学生が単なる「学生」ではなくて、民衆の一群であり、而も圧迫され踏みにじられた世間の大衆の或る一群だとなると、学生の問題は全く別な角度
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