出している)。この際警察にとっての問題は実は学生の取締りではなく営業者に対する取締りなのだが、その際の相手としては学生が持って来いなのだ。それ程学生は抑圧し易い、抑圧すべきもの、と相場が決っているわけである。労働者・無産大衆を抑圧せねばならぬという本能が、同様に、学生・現代青年を何とか抑圧せねばならぬという渇望となる。
学生だけにカフェーやダンスホールを開放しおしむというのは、何も学生の学業や年齢のことを心配するためではなくて、偶々そこが学生の弱い点だからだ。学業が問題なら六大学野球リーグ戦の方が遙かに邪魔になるかも知れないし、年齢が性的な問題となるのなら、学生どころでなく、大都会に流れ込む身売娘の方がズット問題が切実な筈だ。男だけを性的に束縛して娘の方は性的に放任(?)しておいていいということはあるまい。それとも上層では淑女や令嬢を、無産大衆層では男を、という取り締り方針なのだろうか。
こういう風に見ると、現代の学生が労働者と殆んど全く同じように、弱い[#「弱い」に傍点]ものだということが判ると思うが、之は一般に、現代青年なるものが無産大衆と殆んど全く同じように、弱いものだということを示す。つまり現代青年の特色は、普通時の青年が一種の強さを持っていたとは反対に、社会的に弱いということ、支配社会の継子だということなのである。そこから、現代青年と無産大衆との間の、本質的なアナロジー[#「本質的なアナロジー」に傍点]がなり立っているのである。――婦人運動論者の最も進歩的な者は、婦人と無産大衆とを丁度こういうようにして結びつけた。そして彼等乃至彼女達は、子供、少年少女をも亦この婦人になぞらえることによって、之をも亦無産大衆になぞらえた。処が今や、この少年少女がもう少し大きくなって、現代の青年男女になってもやはり、無産大衆になぞらえるような、弱い者だという次第である。
弱きものよ、汝の名は女なり、と云うのは、無論本当は、女の社会的な[#「社会的な」に傍点]弱さを指すのだろう。そうならば現代では、弱いものは沢山の名を持っている。曰く婦人、曰く労働者農民、曰く無産大衆、そして曰く現代青年だ。だから例えば、現代青年は丁度女のように社会的に待遇されているのである。現代の青年が女のようになったという心算ではない。街頭を日となく夜となく歩く女性化した現代青年も少なくはないが、併しそういうモダーンボーイの一種の類は別に現代青年の代表者でも何でもない。それよりも私は現代青年が、丁度娘乃至箱入娘のように、著しく家庭化したという現象の方が、意味が深いと思うのだ。
と云うのは、現代青年は貧困で下積みだったのだから、壮老年者が設定した家庭を離れては生活が困難なので、そこを覘って社会の壮老年者が、現代青年に家庭に帰れと強要しつつあるのである。家族主義の名の下に家庭主義が強制される。父権は却って拡張される(例えば民法改正に於ける自由結婚の否定)。母親だって息子よりも強くなる。本来なら息子に厄介がられるべきお袋も、今では息子の大学の入学試験にまで母権を拡大する。青年婦人即ち娘は、言うまでもなく花嫁学校に収容されねばならぬ。――処でこの家庭主義は、日本の無産大衆にとっても亦、恐怖でもありそして又魅力でもないだろうか。農民が都会から家庭に帰郷することによって、都市の失業は農村家庭の赤貧の底無し沼の内に、吸収されて行く。「都会には職はありません」というポスターは、失業の増大を告白するためではなくて、家庭を賛美するためなのである。――とに角、無産者と現代青年とは、女と同じに、家庭化されねばならぬ。
こうして現代という反動期は、青年の無能力時代なのだ。青年のこの新しく獲得した無能力という資格が、現代青年という一種族を造った。之は壮年者や老年者の単に年の若いもののことではなくて、現代の壮年者や老年者とは社会的に種族を異にした人間のことなのである。法律的に有名な「無能力者」としての妻が、いかに年を取っても男とはなれないように、現代青年は、どんなに年を取っても、現代の壮年や老年が意味しているものになれぬ。
だが、こう一概に云っては、不正確に過ぎるかも知れない。現代青年の皆が皆そうだというのでは無論ないし、現代青年の各種の社会層が皆そうだとか、又その点でどの層も同様だとかいうのでもない。それから弱い弱いと云っても、社会的に弱いということが実はどういうものであるかも、もう少し吟味してかからねばなるまい。
現代青年は云うまでもなく社会の各層各階級から出て来ているから、現代青年中に各階級の区別があるのは当然だ。そしてこの区別が事実、一つ一つの場合には、相当大きな差別を齎しているのも事実だ。併し丁度学生がそうだったように、現代青年も亦、一応そうした階級別から離れて、共通な輪郭と而も階級的な性質とを受け取っているものなのだ。――処でそうした上で、更にこの現代青年という普通な階級性質(併し階級をなしていると云うのではない)の上で、改めて現代青年の夫々異った階級性をもつ夫々の層を考えることが出来るし、又考えなければならぬ。青年労働者、青年農民、サラリーマン、学生、有閑青年、青年ルンペン、青年将校、などがこの階級性[#「階級性」に傍点]上の区別だ(必ずしも階級上[#「階級上」に傍点]の区別ではないが)。――尤もこの内、青年将校は、弱い現代青年の例外であって、現代青年の意義を踏みはずした者だが、之はまあ問題外としよう。彼等は現代青年の種類にぞくするものではなくて、寧ろ日本人の内のものと特別な種類にぞくするものと見ねばならぬようだ。彼等は現代青年ではなくて、単に将校なのだ。現代青年は親爺の登った梯をそのまま登っては行けない筈だったろうからだ。さて之を除けば、あとの現代青年が如何に弱い無能力者として社会的指定席にうずまっているかが判ろう。
現代青年の心理を現象的に分類することは、どういう風にでも可能なことである。一例としては、進歩的青年・「革新」的青年・文学青年・キネマ青年・スポーツ青年・ダンス青年などに分類出来るだろう。だが之は大して有用な区分とも思われない。――矢張り大事なのは、現代青年の社会的無能力という概略の特色だ。
併し、現代青年が社会的無能力者だと云うのは、略々無産大衆が、労働者や農民が、社会的無能力者だということになぞらえ[#「なぞらえ」に傍点]て、そう云うのであった。無論このなぞらえ方は、科学的に精密に行なってはいないから、現代青年と無産大衆とのこの譬喩には、ガタや隙がある。だが、それにも拘らず、やはり、現代青年は無産大衆のようなものだ。処で現代の無産大衆の弱さは、之を自覚すれば忽ち強さに豹変するものであることを忘れてはならぬ。そこで現代青年でも亦、その弱さの自覚は、事実上その強みとなることが、概略可能だと云うことが出来よう。尤も無産大衆はその組織を有つ、又は有ち得る。夫が彼等を強くするのだ。現代青年は現代青年として組織を有てるか。だが之は話しが変になった。青年が青年としての組織を造るとか造れるとかいうのは変である。青年を強くするその組織は、青年であるが故の組織ではなくて、無産大衆に類するものであるが故の組織でしかありえない筈だからだ。
現代青年は、ほっておけば限りなく弱い社会的無能力者に堕ちて行く他ない。それから立ち直るには、闘いが必要だ。一見壮年者や老年者に対する闘いである。併しそれには、やや外部からの、指導と援助とが要る。その指導者援助者は、このごろ見かけるあの青年の指導者や教育者のことではない。無産大衆こそが、現代青年の指導者だ。
[#改頁]
15 学生論三題
一 学生は変ったか[#この行はゴシック体]
旧いことは論じないとして、今から七八年前には学生の社会的役割というものが非常に大きかったということを、今更私は考えざるを得ない。労働者農民の組織活動や啓蒙運動に於ける学生の役割、学生運動が持っていた社会的意義、それから学生が要求する文化的形象の社会的な圧力(と云うのは評論雑誌其の他に於ける思想傾向、プロレタリア文学の発達、等々が実は主として学生読者の要望に答えるためであったから)、こうしたものは学生をして社会の最も積極的な分子と見做させるに充分であったのだ。
学生というのは大体大学生を標準にして云うのだが、この学生は当時、単に学生であるだけでなくて、当時のインテリゲンチャの代表者であり、そして又それが、或る限度に於て、意識ある無産者(主として労働者)のモデルになるという状態でさえあった。学生がこれ程社会的リアリティーを持っていた時代は、云うまでもなく日本ではそれまでなかったし、今後も恐らくなかろうと思われる。
私はある時偶然、武田麟太郎が自分の「大学生」振りを語った小品を読んで、非常に面白く思った。この不良な大学生が如何に社会的活動をなし得たか、という点を考えると、全く今昔の感に耐えないとでもいう他ないのである。武麟もその一人だが、この社会的リアリティーを背負って立った学生達の代表的な一団である新人会や、その社会的組織であった学連などから、運動家、理論家、作家などを面白い程多数に輩出したことは、誰知らぬ者はないが、注目を怠ってはならぬ点だろう。而もどれも早く若くして世に出たのだ。試みに最近の大学卒業生に就いて考えて見ればよい、この連中はもはや決して、あれ程易々として社会に乗り出すことは出来ないのだ。その時期は、汐時は、もう過ぎたように見える。
この頃の学生は勉強しなくなった、気魄が衰えた、ということをよく聞く。恐らくそれは本当なのだ。大学や学校が社会的真実を教える機関であることを完全に止め、而も学生の社会的意義に何等採るべき積極性がなくなった時に、学生がクサるのは当り前のことだ。七八年前の学生は必ずしもサラリーマンの候補者ではなかった。少なくとも自信のある学生は自分の未来にもう少し自由な活動分野を空想することが出来た。そこには創意を充たすだろうような理想を空想することが出来た。今では夫がないのだ。学生生活はサラリーマン生活の予備校に過ぎなくなった。学生の文化的役割さえが、可なりの部分サラリーマンへ移行していることを見落してはならぬ。
だが云って見れば学生のこの予備校的存在は、当然と云えば当然なようなものである。社会秩序の変動が眼の前にブラ下っているように思われた時には、予備校的存在はただの予習期のものではなくて、新興の要素であり得るわけだが、一応その秩序変動が眼の前から一定の距離を距てたように感じられる時期になると、予備的存在は要するに予備校的存在に戻るわけで、旧秩序へ編入される前の予習期にならざるを得ないのである。尤も与えられたこの秩序自身に何か期待が持てるのなら(明治大正中期頃迄のように)、予習期には予習期らしい意義と張りがあるのだが、この秩序そのものの無価値を一旦知って了っている以上、まことに希望のない予習期と云わざるを得ない。
併しそれだけに又却って、学生は社会のリアリティーを本当に味わわなければならぬ時代に来たのだし、又それを味わうことの出来る時代に来るのだとさえ云っていい。学生は学生としての身の振り方を今までになく真剣な問題にせざるを得なくなる。その結果、今では学生とサラリーマンとの間の社会的意識の上での区別は殆んど無くなって、学生が安サラリーマン化すると共に、サラリーマン自身が又一部分従来の学生の持っていた文化的な役割を分担するようになって来たので、サラリーマン間のグループ活動など多少は意義を有つようになって来ているのだ。つまり之は学生が社会に於ける極めて地味な位置を占めるようになり、その点サラリーマンなどと大して変った意識を持てなくなったと共に、全体としてこの種の学生サラリーマン等の青年インテリが、地味な道を辿りながら、而も何かしら社会的にもわずかでも動かねばならぬという事情におかれるようになって来た、ということなのである。
だから今日の学生は駄目になったと云われながらも、矢張り学生の優れた分子は文
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