き起こす目的因とでも云うべきこの青年的理想は、この意味では却って一種の「理性の狡知」であり、摂理の「見えざる手」だとも云えるだろう。この理想や理想主義は決して堅実なものではなくて薄弱なものであり、その意味ではこの理想家的青年期は堅実でなく薄弱なものだが、併し夫をすぐさま病的に薄弱なことや不健康な不堅実さである、と云うことは出来ない。青年は肉体的発達期にある。それを貫く生命の特色は寧ろ健康ということだからだ。
 青年なるものは一般的にそうなのだが、処が時代々々によって異る青年の社会的生活条件は、折角のこの一般的特色を、一たまりもなく吹き飛ばして了うことも出来るのである。――青年は認識不足なものだ、若い者は誤ちが多い、と云われる。それは一般的にそうだ。だが一体今日の壮年は認識不足でないのだろうか。そして今日の老年はどうか。なる程今日壮年や老年の多くは相当うまくその社会生活をやっている。今日の青年は壮年になった処で到底ああはやれまいと思われる位いだ。この資本主義社会は矛盾に満ち、貧困と失業との波に洗われているとも云う、世渡りはムツかしいとも彼等は云っている。そのくせ彼等はとにも角にも相当うまく泳いで行っているのである。私達位いの年の者はほぼ壮年の初期と云えるのかも知れぬが、私達の友人はもうすでに少なくとも府県の部長級に進んでいる。そうした連中は決して世間に対して認識不足どころではないのである。だがそれにも拘らず、或る金持ちのルンペン(?)勉強家の友人によると、この連中は会う度に馬鹿になりつつあるということだ。その意味は、彼等が経験を豊富にして行けば行く程、何か一種の社会的認識を失って行く、というのである。
 青年は空想家で理想主義者・理想家だと云う。併し今日の日本の青年は壮年や、老年に較べてさえ、決して空想家でもなく理想家でもない。年々加重する失業と貧困とは、後のジェネレーション程之を余計に嘗めねばならぬように、この数年来方向が決っている。今日の青年は以前の即ち今日の壮年に較べて、その空想や理想という、自然的な欠点か特権かを振り回すだけの余地を、極度に速かに失いつつあるのである。云わば、この空想のための社会的条件や理想の社会的可能性の年々の悪化の量が、青年から壮年になることによって失う空想や理想の自然的素質の量を追い越して了っているように見える。
 でこういう具合に、青年の壮年乃至老年に対する自然的特徴は、現代の社会的横車によって押し切られて了っているのだから、今日ではもはや、単なる青年を語ることも出来なければ、又単に青年を壮年其の他に対比することも出来ない。今日はそういう事情に立ち至っているのである。無論青年と壮年とは年の上では異った顔をして生活しているが、併しこの両者を比較することによって吾々は何を得るかと云うと、この両者が銘々担っている若い自分の時代、又は若かりし自分の時代、の特徴の対比を得るのは論外として、その他に、社会の全く相反した二つの姿の対比を得るのである。一つはどうにかやって行ける社会の姿で、一つはどうにもなりそうにないという社会の姿だ。前者が壮年ならば、後者が現代の青年なのである。
 現代青年は青年らしさを失った、吾々の若い頃はもっと勢があった、青年は堕落した、という風に云いたがる人は非常に多い。青年よ、宜しく酒も飲み、リーベもせよ、コセコセした社会的関心などは振り捨てよ、と説く、老文学書生先生もいた。その社会的関心と云うのがマルクス主義経済学のことなのか、暮夜に先輩の門を敲くことなのか、こう云う場合には往々見境がつけられていないようだが、とに角青年はその自然の青年らしさを失っているから、そしてそれを失っているということに気付いてさえいないらしいから、之を教えてやろうという、親切な壮年や老年者は少なくないようだ。
 併し之は全く妙な現象と云わねばならぬ。青年らしいのはその自然的に条件づけられた(否之も亦実は社会的条件なのではあるが、併しその社会そのものが自然に出来ている場合のことである)認識不足にあった筈だが、処が現代の青年は、その認識不足を失いかけたと云って、その認識不足を取り戻せと云って、説教されるのである。青年は青年らしくなくなった。即ち社会的認識が備わり過ぎた、と云って非難するらしいこの壮年者や老年者は、いまだに青年の夢を自分の内に許せると思っている認識不足の主だというようになるようだ。
 なる程現代青年の社会認識の過剰らしいものは、社会科学的認識の過剰でもあるし又他方に於て就職戦術的認識の過剰でもある。二つは氷炭相容れないものだが、併しそのどちらかに態度を決定しなければならないというのが、現代青年の宿命なのである。壮年者以上の者はそんな態度の決定などを現在必要としないばかりでなく、自分の過去の青年時代にもそういう必要はなかった。でこの説教する壮老年者は実は現代の青年を殆んど全く理解していないのである。つまり時代はこれだけ進んで来ているのだ、それを身を以て知っているのが現代の青年だ。夫を理解出来ないのが現代の壮年以上の年齢の者だというわけである。それ故にこそ彼等はこの現代の青年を理解出来ない。――こう考えて見ると、現代に於ける青年と壮年との区別は年の区別でもジェネレーションや時代の区別でもなくて(何となれば両方とも現に同じこの時代に生きているではないか)、全く現代社会が有つ二つの社会側面、現代社会が示す社会の二つの姿、の区別だと云わざるを得ない。
 普通、時代はその青春によって計られるようだ。と云うのは夫々の時代の精神は青年の心理を以て特徴づけられるようだ。だから現代を知るとは現代青年の心理を以てするのが、歴史的認識の常道であるように見えるかも知れぬ。だが実は今日では、之は現代の社会の一つの側面一つの姿をしめすだけなのである。現代は、壮年者の時代が段々と青年の時代の手に移りつつあるというように云って了っては、片づかないような時代である。時代自身が、現代の社会が、二つに割れているのだ。と云うのは、青年の生活条件と壮年以上の生活条件との距離が、普通ならば略々一定していて、或る時間が経てば息子は親爺の二代目になれるのを、現代では親爺は親爺として歩いて行き、息子は息子として歩いて行くので、息子は親爺の生活の梯を後から登って行くわけではないのであって、親爺が登って行く生活の梯を息子は却って降りて行くというような関係だ。両者の生活条件の間の距離は、段々と大きくなる。
 でこの通り、壮年者以上と青年との区別は、年とかジェネレーションとか時代とかいう時間的な区別でなくて、一つの社会の空間的な二つの方向と云ったような区別になっている、と云うのである。――現代青年は単に次の時代の者や新しい時代の者ではない。そういう風に考えることは、壮年者以上をば消えて行く時代の者とか旧い時代の者とかに見立てることに他ならないが、夫は要するに壮年者以上の者が、青年との比較に於て、青年に対して相対的に譲歩をして行くということだろう。処が現代の壮年者以上は、青年に対して決して譲歩などはしない。彼等はあくまで踏み止まろうとする。なる程彼等は刻々老いて行く。だがそれにも構わず彼等は踏み止まる。青年とは彼等の後継ぎではなくて、彼等とは独立に彼等に対立して来る一種の敵のようなものだ。
 であるから現代の青年程、深刻に壮年者以上に対立しているものを見ない。現代青年は単に新しい時代、即ち既成の又は旧い時代に対立又矛盾さえする時代の児だというだけではない。彼等は、云わば永久的に社会の下積みなのである。彼等は概括的に云うと云わば永久的に貧困なのである。青年が壮年者以上と対立し又矛盾さえもするというだけの場合ならば、之までの社会変動では無論珍しいことではなかった。明治維新がそうだった。だが明治維新の青年は、云わば永久的に貧困であったか、永久的に下積みであったか。現にそうではなかったのを、吾々は吾々の父親達や祖父達に於て見るだろう。
 それ故現代では、少なくとも現代の日本や日本に類する社会事情の国では、自然的な意味に於ける青年なるものは、無いと云ってもいいし、又あるとしてもそういう観念には当て嵌まらないと云った方がいいだろう。その意味で、もう今日では青年はいないのだ。多くの青年指導者や青年教訓者は、いない者に向かって道を説いている。現代は優れた教育者(例えば吉田松陰とか下っては杉浦重剛とか)がいないと云って、教育者は赤恥をかかされている。教育界に人なし、と云って、実業家で教育に関心を持っている人の内ではその人ありと知られた文部大臣平生釟三郎氏なども、吐き出すようにくさしている。官立大学の教授などは決して優れた人物でも優れた教育者でもないことは、今更学園争議大学の例を見るまでもあるまい。併し青年のいない処に、青年の優れた教育者などあり得よう筈はないのだ、いないのは良い教育者ではなくて、主人公である青年自身だったのだ。
 普通の青年、自然的な青年、はいないようなものであるが、併しこのことは却って、一種独特な、壮年になる準備や見習としてではなく、独立な、或る年の若い人間達がいるということに他ならなかった。之をして青年と云うなら、それこそ現代青年[#「現代青年」に傍点]というものだろう。――現代青年が、普通の自然的な意味に於ける之までの青年と、根本的に異る特色は、夫が云わば永久的に貧困で又云わば永久的に下積みである、という点にあった。之は丁度、現代の大衆、無産大衆のような[#「無産大衆のような」に傍点]ものに、他ならない。現代青年というのは無論初めからそういう階級を云い表わす範疇ではないから、之が無産大衆だと云い切ることは、勿論意味がない。だが現代青年と無産大衆とを離して理解することは、事実難いのだ。
 例えば現代青年の一つの代表的な種族である学生を取って見よう。学生はインテリゲンチャなどと混同され易いが、無論それは乱暴なことだ。学生という範疇は一つの自分乃至職業を云い表わすものだ(図書館へ行けばカードの職業欄には学生と書くのだ)。だから本格的な学生は(夜学生や職業学校生は別だ)たとい芸人学校や職人学校(音楽学校や高等工芸学校など)でも、学生業以外の職業を許されていない。処が誰もインテリなる範疇をそういう身分だとも職業だとも考えていないだろう。それ程学生は一つの社会自身を意味するのだが、それにも拘らず、之は決して充分な意味で階級ではない。処が無産大衆なるものは、或る階級性を云い表わすことによって略々一つの階級を云い表わす処の言葉である。――でこうして学生と無産大衆とは、範疇的に別なシステムにぞくしていると云わねばならぬが、それにも拘らず、二つは何か直接な関係があると見られているのを、見落してはならない。
 学生の学生運動は、無産大衆の労働運動とは、範疇的に別なシステムにぞくする運動だが、併し事実、二つはほぼ同じ気脈に於て行なわれる。事は単に学生が大体インテリであって知能が自由であるために、労働運動に理解があるとか同情が持てるとかいうだけでは説明されないことで、学生自身が自分の運動を労働運動になぞらえ[#「なぞらえ」に傍点]ているという点を忘れてはなるまい。彼等この現代青年の一種族は、無産大衆と何か同様な社会的状態に置かれているのである。大学生其の他は決してそう札つきの無産者の家庭の者ではない。世が世なら官吏にでも政治家にでもなれる処だ。それが自分を無産大衆みたいになぞらえ[#「なぞらえ」に傍点]なければならぬ。――ここに現代学生の、即ち一般には現代青年の、特別な固有な意義が見て取れるだろう。
 彼等現代学生のこういう自己意識が併し、決して感傷や無知や思い間違いから来ていないことは、社会が彼等を実際にどう待遇しているかを見れば判る。警察は彼等を労働者と殆んど全く同様に、労働者になぞらえて、待遇する。彼らはこの支配社会からそういう仕方で抑圧されているのである。カフェー・ダンスホール・其の他の禁圧も、この学生をねらって試みられる(学校は学校で方々で昭和ザンギリ令を
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