度の技能にまで行けるものだということである。徒弟制的な訓練(幼年期からの住込み式教育)は大抵の人間を一人前の職人に仕立てるものだ。ピアノの天才さえ厳密な組織的な徒弟訓練で一定の玄人水準には達するということを聞いているし、どんな芸者でも三味線は相当なものだろうと思う。作家だってそうなのだ。
 して見ると今日の職業的・専門的・に強靱な作家達も、何も別に特別に作家としての資質が高い人間ばかりではないのだ、可なり凡庸な素質と性格との持ち主が、文壇的ギルドに於いて忠実に年期を入れたということだけで、有難いことには立派に一人前の作家として生活して行ける場合が、少なくはあるまい、ということになるのだ。今日の日本の作家の大多数が普通の人間の作家的資質を遙かに抜んでている人間ばかりだとは、私は到底考え得ない。――前にも云った通り、彼等は職業的の専門家として到底素人やディレッタントの追随を許さない。だが一体、文学[#「文学」に傍点]の専門[#「専門」に傍点]とはどういうことか。それは魚専門や鳥専門の学者の「専門」ということとは別だろう。畳屋や表具師の専門とは別だろう。ましておはこ[#「おはこ」に傍点]や十八番[#「十八番」に傍点]というものでもあるまい。云って見れば、文学には専門というものはないのだ。丁度生活に生活専門の人間がいないのと同じにだ。云って見れば、作家という専門家や職業家はいるが、文学の専門家や職業家はいないのである。では文学に就いては猫でも杓子でも同じかと云うと、それは又決してそうではないので、丁度人間に人間として優れたのもいれば劣っているのもいて、「偉い」人間と「馬鹿」とがいるように、文学的に優れた人間と文学的に駄目な人間とのけじめは、機械的にはつかないが実際上厳正につくのである。併しだからと云って、偉い人間が人間の専門家で馬鹿は人間の素人だとは云えないように、これは文学の専門家であるないとは別なことだ。
 ではこれはどういう区別なのか。文学的に優れた者と文学的に駄目な者との区別は。――教養[#「教養」に傍点]の問題がそこにあるのだと私は思う。
 尤も教養という言葉は場合によって一定の趣味訓練のことをも意味している。官学的学校教育のあることをさえ意味する。甚だしいのになると観念論哲学にタブらかされた不始末をさえ意味する(ドイツ文化主義者のBildung)。こういう脱落的な言葉のニュアンスも大事であるが、この点は後に見るとして、今云う教養とは人間の眼[#「眼」に傍点]と頭[#「頭」に傍点]と胸[#「胸」に傍点]と腕[#「腕」に傍点]とを意味するのだ。人間的教養というようなことも云われるが、之も言葉としては危険であって、云わば動物的(?)教養だって大事なのである。つまり、宗教馬鹿や政治馬鹿やアカデミー馬鹿や、小市民馬鹿や、インテリ馬鹿や、ダラ幹馬鹿や、哲学馬鹿や文学馬鹿、こういう各種の「馬鹿」という厳粛な社会現象が実在しているが、この馬鹿とは一般的教養の不足から来る結果を指すのだと私は思う。――職業[#「職業」に傍点]や専門[#「専門」に傍点]、専門的知識[#「知識」に傍点]や専門外的知識[#「知識」に傍点]、の如何に関らず、教養のあるなしということがあるのである。いや、職業や専門や知識が、却って馬鹿を増長させ教養を妨碍殺減する有力な動力になることさえあるのである。そこで職業的専門家としての作家の教養ということが問題だ。今日の日本の作家の文学的資質が決して悉くは高くないだろうと云ったが、それは他ではないので、作家の教養が決して一般に優れていないということだったのだ。優れていないとは、一般の他の職業人、専門家に較べてである。無論他の者より劣っているとは云うことが出来ない。少なくとも一定の特徴から云えば優れているのだ。だがそういう風に優れているのは、作家という職業と専門とから云って当然な普通のことなので、それを以て作家が一般の他の人間より、教養が専門的に優れていると云うことは出来ない。文学はつまり人間の教養の問題なのだが、それを創作という専門的職業に結びつけている作家は、当然極めて高度の教養が要求されてよい筈なのだ。人間の専門家はなく、文学の専門ということは云えないように、教養の専門ということもいけないのだが、それにも拘らず、便宜上、教養の専門家であるべきものが、文学業専門家としての作家なのだと云ってもいいだろう。
 日本では作家は文学者とも考えられていて、一種の学者のような響きを持っているが、勿論之はただの言葉の習慣であって、東洋的学問の特色の伝統にすぎない。と云うのは、つまり東洋特に日本では、文字を知っていることが学者であり、そして漢籍学者は詩文を能くしたものなのだ。漢籍の文献学[#「文献学」に傍点]者が事実官許の文学[#「文学」に傍点](徳川期を見よ)をやったのだ。そこから文芸は文学というような文献学と同じ名前に満足するのだろう。処でこういう文献学位い教養と紛らわしいものはない。なる程古典的文献に習熟していなければ、文化の歴史的発展が頭に這入らないから、物の理解は伸びない。その限り文献学は教養の不可欠の第一課だが、併し文献学者はまだ何等の思想家でもないのだ。仏教学者や古典学者が思想的に如何に「馬鹿」であるかを見ればよい。教養は何のために必要かというと、他ならぬ思想の展開深化のためにこそ必要なのだ。もしそうでなかったら、文芸学者ならぬ作家という専門的職業人に、何んだって教養などが要る筈があろう。
 文献学の場合でも判る通り、知識はかならずしも教養の本質ではない。自然の科学の知識にしてもそうだ。併し知識のない処に正常な思想は絶対にあり得ないわけだから、思想を促進する知識(そうでない知識は勿論知識でも何でもないのだったが)は教養の本質の一部だ。思想を促進する知識は既得の知識ばかりではなく知識を求める関心[#「関心」に傍点]の正しさと広さを要求する。教養のバロメーターは、その人が如何なる関心を持つかにあるだろう。
 知識の充実と広さ、関心(それは特に社会的関心だ)の正鵠と広さ、之が一方に於て心情や感能の鋭敏的確を産むと共に、思想体系の代謝機能のもつ博大な活発さを生むものなのである。ここで初めて教養は、詩人(但し行を何遍も変えて原稿を書く作家の一種のジャンルのことではない)と思想家とをもたらすのである。作家がこうした詩人と思想家でなければならぬことは、云うまでもないことだ。作家はそれであればこそ大衆のための社会的認識を委任されているのだ。
 処で実際を見ると、作家の多くのものは決して詩人としても思想家としても優れてはいない。詩人は例えば言葉に秀でている筈だろう。尤も言葉に徒に潔癖なばかりが詩人の能ではなくて、社会の大衆が用いている日常の言葉の本当のよい理解者であり深長広範な語義の創造者であることが、教養としての「詩」だろうと思う。こういう意味で言葉の天才は、一言一言考えたり云い直したりしてつかえつかえ講義をしたヘーゲルなどで、ヘーゲルの「範疇」というのは之だ。併し日本の作家で、そういう教養の含蓄のある言葉や範疇を持っている者が何人いるだろうか。韻文作家としての所謂詩人は、言葉に対して単に神経過敏だというだけで社会的には却って鈍感であるか(萩原朔太郎氏の如き)、それでなければ徒に言葉に熱中して了って、本当に言葉を使いこなしていない。言葉を思想の範疇として使いこなす筈の作家(それは彼等の評論や時評に於て端的に現われる筈の現象だが)ほど、言葉即ち観念を出鱈目に、常識的に、便宜的に、浅墓に、而も朋党的に使っているものは少ない。ブルジョア作家は特にそうだ。彼等は一定の言葉=観念=カテゴリーが、文壇という文化的一地方で使われていると同時に、哲学でどう用いられ、社会的にはどういう連関に於て役立っているか、を真面目には考えてみない。こうして、作家の実際性と客観性とは、世間の日向に出ると露のように消えて了うのである。日本のブルジョア作家が、就中社会現象の文学的評論乃至時評に於て無能であることは、著しい。こうした文学的方言[#「文学的方言」に傍点]は教養の狭さと低さとの徴しであり、文学的・詩的・透察の凡庸さと、関心と知識との貧弱を意味するが、それというのも、作家の職業的専門家としてのマイナスな宿命から来るのは云うまでもない。日本の作家の思想性の貧困と云われることにも、色々吟味した上でないとハッキリしない点はあると思うが、少なくともこうしたことが、思想の欠落ということの一つの内容なのである。
 作家の教養の問題は、作家という職業的専門家にとっての鞭である。この鞭を欠く時、作家が専門家的な偏狭と職業的な卑しさに堕することを防ぐものは、もはや存在しない。ただの自意識や魂の逞ましさや、アンチ・ジャーナリズムなどでは追いつかないのである。作家には博大深長な「常識」と新鮮鋭利な社会的認識[#「認識」に傍点]とが必要なのだ。社会は、本当に文学を生活の必需品としている処の、生活のある大衆は、実はひそかにそれを作家に要求しているのだ。大衆は作家から気焔やゴシップではなく、真実の思想を聞きたいのだ。で教養は特に作家の社会的義務だ。いやそれは職業的な義務なのだ。但し、女形的な「たしなみ」というような歪められた躾けではなくて、最も普遍性をもった堂々たる職業的訓練なのだ。――処で作家は、之を妨げるものを衷心憎むことを知らねばなるまい。作家の真の教養を阻み、人間の真実の思想を圧えつけるものを。実際の要点は結局ここにある。この要点に就いて真実を欠いているものには、教養も思想も何もかも本当は無駄な話しなのだ。
[#改頁]

 14 現代青年の問題

 子供は現実主義者である、壮年は自我主義者である、その中間に位置する青年は、之に反して理想主義者である、と云ったヨーロッパの思想家がいる。人間というものを、社会の歴史的時代の特色から引き離し、社会の階級的構成から脱臼させて、古来今日に至るまでの共通な性質の粉末を寄せ集めれば、青年は大体理想主義者だと云っていいのかも知れない。
 併し青年が理想主義者であるのは、必ずしも理想を構想する客観的な現実の条件が彼等にだけ与えられているということではない。もしこの社会のどこかに、そして何かの時期に、そうした理想を構想出来るように客観的な現実の条件があったとすれば、独り青年に限らぬ、壮年も少年も、老人さえもが、劣らず理想主義者となれるだろう。だが尤も、こういう客観的な現実の理想によって鼓舞されることばかりを、世間では理想主義と呼んでいるのではない。理想さえ追求すれば夫が理想主義だというわけのものではない。現実性のある理想を追求して生き得る人間を、現代では寧ろ唯物論者と呼んでいる。社会建設の理想を以って生活している人類は、ソヴェート・ロシアに於てのように、唯物論者なのだ。
 でこの思想家が、抽象的にも、青年一般なるものを理想主義者だと考える時、之は云うまでもなく単に、青年が社会に対して認識不足であるということを意味しているに過ぎない。そういう青年的理想主義の理想とは、単なる空想か無条件な願望なのであって、之は大体春季発動期と関係のあるフロイト的現象なのだ。青年女子の婦人雑誌的な結婚の夢や、或る種の文学青年の情熱や、又今では比較的目立たなくなったが田舎青年の立身出世癖などが、之だろう。この社会的認識の欠乏は壮年や老人ならば却って、反対にチャッカリした悪く常識的な思想と生活とを産むものなのだが(今日では一定の認識不足なしには社会生活は甘く行かぬ)、それが青年の場合だと、無条件的な野心や冒険欲となって現われるというだけだ。
 之は一応本当なのだから、吾々は之を善いとか悪いとか云うことは出来ないだろう。生活認識の欠乏、生活意識の軽躁さは、無論決して好いことではないだろうが、併しそのおかげで青年が自分の人間の内に眠っている色々の可能性・能力・素質を、偶々発見する機会が少なくないとしたら、之を単純に不健全な認識欠乏とばかりは云うことが出来まい。野心や冒険を惹
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