なる。だが教養を量るバロメーター自身を離れて、教養の実質を実際的な問題とすることは出来ないかも知れぬ。教養は関心のシステム如何によって打診出来ると云った。処が実際、意欲のシステムがチャンと出来上って育ちつつあることが、取りも直さず教養というもの自身かも知れない。そうすればこれは性格の発育[#「性格の発育」に傍点]ということと極めて近いものを持っている。発育[#「発育」に傍点]するメカニズムを持っている性格は教養の可能性を有っているのである。教育とは何を教育するのかと云うと、性格を教養する(ビルデン)ものとも云われているだろう。性格を有たない人間はいないように教養の無い人間はない筈だが、それにも拘らず性格の発育する人間としない人間とがある(「この児は性格があるよ」と女中がストリンドベリを批評した――「女中の子」)。それと同じに、教養の有る無しが考えられ得るのだ。優れた思想とか豊富な思想とかいうものも結局そういうシステムの教養に関すると云っていいようだ。
一を聞いて十を知るということは単に素質のよさを意味するには限らないので、教養に於ける関心・意欲・思想・の体系の働きだと考えてもいい。眼光紙背に徹するのも判りの良さも、共感の大きな能力も、理知的な自信も、皆ここから来る。文化上の本物とインチキとの見分けもこのシステムという生きた尺度から事実出て来る。システムのない者は性格がないものだから、人の真似でもしない限り、この見分けはつかない。――で良い感覚=良識という意味に於ける常識[#「常識」に傍点]は、教養の一つの内容だと云っていいだろう。之は所謂通俗常識を否定して而もその常識の壇に立ち帰ることによって、通俗常識を良識へ高めるものだ。民衆の意識を高め得るものが之だ。吾々は文化的理解についても見識[#「見識」に傍点]とか識見[#「識見」に傍点]とか、優れた見解とか卓越した意見とか云っている。教養の実質はこの辺りに横たわるだろう。
今この教養を便宜上一つの心理的能力と考えると、感覚の良さ[#「感覚の良さ」に傍点]というものになる。感覚は意欲の体系の夫々の断層だ。吾々は断層を見て或る程度まで教養という地殻を推定することが出来る。感覚はただの生れつきの素質とは考えられない、正に教養される[#「教養される」に傍点]ものだ。それには知識[#「知識」に傍点]の基本的な訓練[#「基本的な訓練」に傍点]が、最も大切な条件であることを、声を大きくして主張しなければならぬ。知識の基本的訓練は教養にとって全く宿命的なものだ。だがそれにも拘らず之は教養の条件[#「条件」に傍点]であって教養そのものではない。丁度感覚が知識そのものではないのと同じに。この感覚の印象の響き方を聞いて、教養の立てる音を知ることが出来る。この音によって教養の質を判断出来る。――教養とは教育があったり物知りだったりすることでもなければ、物やわらかな品のいい好みや心構えのことでもない。そういう教養の観念は少なくとも今日では、甚だ教養に乏しい[#「乏しい」は底本では「之しい」と誤記]通俗観念に過ぎぬ。教養は認識的営養を摂取する能動的な感官をもつものだ。健康な人間の営養機関のようなものを有っている。
教養という概念は一般にこうだとしても、その新しい教養とは実際どんなものかと問われるわけだ。だが事実それはまだわれわれの手近かでそんなに発達しているわけではない。具象的な肉体性に於て、之をここに描いて見せることは困難だ。だが少なくとも、真の教養の感覚的な現われの、その一部は、云って見ればマテリアリスティック・ムッドというようなものをきっと伴うだろうと考える。実際吾々が想像する教養ある人間を文化的俗物から区別するものは、ここにあるだろうからである。
さて真の教養の第一の目的はこうした教養を発達させることにあると云っていいかも知れぬ。教養とは教養され教育されるものを指す。だが現代のわが国に於て教育と呼ばれ得るものは何か。之は完全に、支配機構の官許的活動の一つにしか過ぎない。すると、こうした「教育」によって教養を教育しようするのは、変なことでなければなるまい。では何が教養を発育させるか。それは「教育」ではなくして、民衆に於ける啓蒙活動[#「啓蒙活動」に傍点]なのだ。啓蒙とは今日、単に知識を通俗化したり普及したりすることではなしに、オッポジショナル[#「オッポジショナル」に傍点]な教育活動を意味する文化運動なのである。
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13 作家の教養の問題
文学者・文士・乃至作家は一種の職業人を意味する。職業人としてのジャーナリスト又は著述業者の一種である。そういう職業によって生活するという意味に於て、文学者は一種の専門家[#「専門家」に傍点]だと云ってもいいのである。文学を職業としない文学者、即ち生活資料は他の手段で獲得する文学者、もいないではないが、大体に於てそういう種類の文学者はエキスパートとしての特色を備えていることが少なく、従ってディレッタントに過ぎない場合の方が多い。専門家というものもその職業的訓練から離れて理解されるべきものではあるまい。
なる程職業的訓練は同時に職業的変質を意味する場合が極めて多い。今日のブルジョア社会に於ける職業的訓練なるものは、生活のノルマルな発育を歪曲することによってしか得られないだろう。特に文学者や文士の職業界は可なりにギルド的組織の形態が残っていて、ギルド的な成長をして来ているのだから、この職業人は甚だ屡々、職人気質を持っているのである。職業的眼界の狭さや、新しい世界への接触に対する反感、技術的自負心と外界に対する無知とから来る独りよがり、必要以上の友誼感と反目、甚だ世俗的な仁義、其の他数え立てれば数知れぬものがあろう。だがそれは否定的な反面ばかりに注目するからであって、職業の積極的な本来の面目は、とに角それによって実際に生活が営まれるということだ。資本制社会では資本主義的な意味に於ける職業しかなく、而もそういう資本主義的な秩序に於ける職業に依るのでなければ、社会の生産機構に直接結びついた実際生活[#「実際生活」に傍点]が行なわれないのであり、つまり資本制秩序にぞくする職業に基づく生活以外に真の生活は大衆的にはあり得ないのだ(職業的変革家などの場合は別として)。――この職業というものの持っている生活上のリアリティーこそ、専門変革の社会的リアリティーを産むもので、この際、専門家であるか専門家でないかは、エキスパートであるかディレッタントであるか、ということに他ならないのである。玄人とは、一定職業の職業人であることによって、一定の専門家であるものを指すのだ。
で専門家というのは、その専門領域に於て他の人間よりも秀でているもので、生活の根幹がその専門領域による職業を通じて発育するというメカニズムを持った場合の人間のことであり、その限り極めて積極的なものを意味するのだが、処が他方に於て、この同じ言葉が色々の消極的なニュアンスの下に慣用されるということも、見落してはならない。例えば未熟なアカデミシャンの三四の人間に接して見るがよい。学術・技術上のアカデミシャンでもいいし、文芸や芸術のアカデミシャンでもよい。特に露骨なのは前者だが、彼等は恐らく、自分の専門領域以外に就いて無関心であっていいというような権利を持つことが、専門家というものだと考えているだろう。あれは私の専門ではないのでよく判りませんが、というようなことを口にする専門家は、結局自分の専門領域外のことには無関心であったり無知であったりすることを合理化しているに他ならぬのであって、彼等の学者なら学者、文士なら文士としての、人間的無責任を告白しているに他ならない。他領域に就いては他領域の専門家の仕事を一応信用してかかるというならば、それはそれで当然なことでもあるし必要なことであるが、併し他領域の専門家を信用するにも、どれを信用しどれを信用しないかは、自分の責任だ。私は哲学は専門ではありませんが、などと云っている科学者に限って、ロクでもない哲学を振り回して平然たるものだ。こうして「専門家」の常識的[#「常識的」に傍点]見解ほど始末の悪いものはないので、まずお医者さんの政治論と云った種類のものだろう。
この間或る結核専門[#「専門」に傍点]の医学博士が治療国策を論じたものを見たが、社会科学に就いての常識を殆んど全く持っていないこの医学の専門家は、他領域の専門に就いて全く素人くさい議論をしているのだが、而も自分が結核の専門家であるというので、この素人論も何か専門的な意義があると錯覚しているらしい。比較的心臓の弱い「専門家」は自分の専門領域以外へは決して眼を転じないことをアカデミシャンの節操のように思っているし、之に反して、比較的心臓の強い「専門家」は自分の専門領域以外へ出て出鱈目なことを云い振らす。いずれも専門領域以外のものに対して無責任[#「無責任」に傍点]であることの、アカデミシャン的「専門家」の必然的な態度であることに変りはない。――つまりこういう意味に於ける専門家とは、自分の専門領域のことしか知らない、という消極的な弁解屋(弱気な又強気な)を意味していると云わねばなるまい。
今日の理科的又文科的なアカデミシャンに見られるこう云った専門家振りは、云うまでもなくアカデミシャンとしての生活を保証する処の一種の職業組合が、産んでいる意識なのだが、そうだとすれば、前に云ったあの積極的な意味での専門家、即ちその独自の職業によってその生活の根幹が発育するという形での専門家と、ものは同じものに他ならぬのであって、つまり専門家という意味には、こうした真実な意味と莫迦げた意味とがあるということなのだ。丁度職業にも、社会的リアリティーとしての意義があると同時に、職業的賤しさがあったと同じに。
でこの裏と表とのある職業人専門家なるものの一般的な事情は、文学者、文士にも亦特別な形であてはまるわけだ。文学者・文士として主だったものは、今日の日本では作家であり、特に小説家[#「小説家」に傍点]なのだが、職業人=専門家としての小説家に、どんな真実と社会的リアリティーとの積極性があるか、又同時に、莫迦莫迦しさと職業的な卑小さとがあるかが、一考を要する点だ。
今日の日本の読書子の有態の感想を正直に述べさせるなら、月々の評論雑誌や文芸雑誌や文芸同人雑誌に載る小説(主に短篇中篇小説)を読んで、恐らく誰でも、何と無駄なものが多いことだろうと慨嘆するのではないかと思う。忙しいのに読まされて腹が立つと云った種類のものが決して少なくない。之は広く文化現象の上から云っても、文学界の権威から云っても、まして作家自身にとってはなお更のこと、不名誉なことだ。だがそれはそうでも、こうした本質的にクダラないガラクタでも、毎月相当の分量のものをしかも夫々のヴァラエティーを与えて発表し続けるということは、決してそんなに馬鹿にはならぬことなのだ。ここには素人の真似の出来ない職業的訓練があるのである。そして実際、こうやって低調ながら職業的持続を持ち応えて行ける者は、持ち応えている内にいつかは又いつの間にか、少なくとも多少の真実とリアリティー[#「リアリティー」は底本では「リアリアティー」と誤記]には逢着するのだ。之は専門家でなくては一般的には期待出来ない事情ではないかと思う。
一つ二つの可なり優れた短篇小説を書くことは、比較的偶然にも出来なくはないが、多数の駄篇の発表を通じてともかくも相当な創作を略々コンスタントに発表するということは、そう容易なことではあるまい。この点、多作か寡作かというような数量や又良心の問題などとは割合関係なしにそうなのだ。――之は職業的な専門的作家の寧ろ積極的な価値ある側面のことだが、併し他方、こういうことをすぐに思い出さねばならぬと思う。考え方によってはこうした職業的訓練は実はそんなに驚くべきことでも何でもないので、誰でも、特別にポジティヴに素質が悪くない限り、或いは一人前の性格力さえあれば、夫々の道に於て、今言った程
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