育なるものに相当するに他ならないが、処がビルドゥングの方は、正に知識の集積を通じないでは得られない処の、一定の文化的人格の造築を指しているからである。
 ドイツ観念論哲学によるビルドゥングというこの倫理的学究的観念こそは、正に教養の一種である。ごく教養のあるらしい教養観念である。事実この際教養という日本語はこのビルドゥングの訳に相応して用いられている。だが之は一見して判るように、甚だ個人主義的な観念に基いているものなのだ。自己の完成・自己の造り上げ・ということがこのビルドゥングだ。教養は人間の問題であって制度や何かの問題でないから、個人主義的に取り扱っても不都合は生じないではないかと云うかも知れないが、併しこの場合の個人主義は一種の[#「一種の」に傍点]文化主義を伴っている。と云うのは社会の物的生産機構やそれに基く生産技術的な人間的能力は、遺憾ながらこのさいの文化[#「文化」に傍点]の内には数えられないのである。文明[#「文明」に傍点]に対立するものがこの場合の「文化」の意味で、こういう文化は当然個人の自己完全という意味のビルドゥング=教養とならざるを得ないわけだ。之は悪く倫理的な観念だ。
 この個人主義による教養の観念が階級的に何を意味するかは察するに余りあるのだが、実際、この教養の観念が(ドイツ式)アカデミシャニズムの刻印を不抜なものとして持っていることをまず見逃してならぬ。ドイツ式の特にアカデミックな大学を卒業[#「卒業」に傍点]することが「ビルドゥングを得た」ということなのだ(尤もアカデミーの歴史的発生は十六七世紀で、之は封建的神学大学に対立する新興ブルジョアジーの学究的社交組織であったが、今日ではアカデミーの機能は全く大学の双肩の上に懸けられている)。大学に固有なアカデミー主義は今日、わが国などのブルジョア大学の最も著しい社会的特色をなすものであり、そこに超階級性を装うブルジョア・アカデミシャンの最後の安住の場所が設けられてある。こういう現代ブルジョア・アカデミー的カテゴリーの一つが、このビルドゥング的教養なのだ。――ブルジョア教育の最高形態としてのビルドゥング(但し現在の日本の大学では之さえ純粋ではないが)、という観念が教養と教育とを、又教養と知識とを、結びつけている。之は著しくブルジョア制的な学究的観念だ。
 併しこういうビルドゥング的教養も亦前のディレッタント的教養と同じく、要するに階級的固定観念や伝統的な好みのマンネリズムに帰する他ないという事は、少し考えて見ればすぐ判る。なる程大学に於けるビルドゥングは、「文化人」に必要なアカデミックな或る常識[#「常識」に傍点]を与える。少なくとも専門領域に就いての学界水準に相応する常識を与える。この点が独学者やアマチュアを専門学者から区別するのでもある。だがこういうアカデミックな教養は、アカデミー自身の退廃鈍化を覆すだけの力は少しも持たない。却って退廃鈍化を進行させるものこそその際のビルドゥングだということにもなる。つまり今日ではもはや、アカデミックな専門領域の停滞を打破する結果にならざるを得ないような総合的な見地[#「総合的な見地」に傍点]は、このビルドゥングとは別なものになって了っているのだ。そうすればこのアカデミックな教養は専門的職業人の徒弟的な躾け[#「躾け」に傍点]のようなものに過ぎなくなる。すると之は人格の完成とか自己の造り上げとかいうものでは更々なくなるわけだ。つまり一つの退屈な階級的趣味か感覚かの母体のようなものにすぎぬことになるのである。――こういう教養は、より新しいより高い教養の社会的発達に対して、恐らく、単にギルド的な排他意識しか持つことが出来まい。かくて大学生は常に教養があり、民衆は常に無教養だ、というようなことにならざるを得ないだろう。
 だが私は今日、新しい型の教養を待ち受ける処は、民衆の内以外にはないと思っている。教養とは何かはまだ判らないのだが、とに角従来の教養の本質的な変更蝉脱なしには、吾々は真の教養を得ることは出来ないだろう。今日の教養やビルドゥングは吾々に必要な新しい意味での教養を与えることが出来ない。事実今日のブルジョア教養は、教養としては社会的信用を失いつつあるのであり、又従来の意味での教養の程度さえが、どうやら一般には低下して来たようだ。教養の崩壊が教養観念の入れ代えを要望している。

 では新しい意味での教養は何かということになるが、それより先にまず教養は一般的に云ってどう考えておくべきであるか。処でさし当り便宜な方法は、教養の欠乏か無教養の特色を指摘して見ることだろう。どういう徴候によって教養の欠乏又は無教養を吾々は決定し得るか、又してもいるか。一二の徴候を挙げて見ると、第一に関心・興味の範囲の狭小ということである。関心や興味は大体伝習的に教育されているものであって、関心や興味にはいつも宗派的なエチケットがあるものだ。之が往々職業的に決っている場合さえある。このエチケットを無視して関心を拡大するには特別な自信を必要とする。この自信は関心の自然な生きた動きと之に対する忠実な信頼とに基くものだ。例えば日本の文学者の多くは、あまり社会的政治的経済的事象に興味を持たない。偶々持っていてもその興味を忠実に文学的な自信を以て、自分から信頼することが出来ぬらしい。関心は文壇の花園に局限される。ここに作家の教養という問題が若いジェネレーションから起きる原因が横たわる。
 関心興味の範囲が狭小だということは、同時に関心興味の偏頗であることをも意味する。当然関心を持つべきものに対して全く無関心であるということは、とに角人間として重大な欠陥でなくてはなるまい。尤も当然関心を持つべきだ、とか何とかは、どこで決まるのかと問われるかも知れないが、夫が取りも直さず教養という一つの規範から決って来るのだ。――一体なぜ関心上の不感症が生れて来るか。それは関心の体系[#「体系」に傍点]が貧弱であるか歪んでいるか、それとも全くシステムの態をなしていないか、だからだ。その結果、関心が偏ったり関心閾とも云うべきものが発達しないで狭小だったりすると共に、他方に於ては逆に、関心が無原則に散逸して観念狂奔症の類にさえ近づくことも生じて来るのである。何に、どこに、関心を持つかは教養の徴候だ。子供や未開人がつまらぬ物を珍しがったり驚いたり喜んだりするのには、それ相当の関心のシステムの生長が想定されているのであって、そこに未熟なものの持つ一つの完成とでも云うべきものが見出され、とに角何か優れた真実があるのであり、子供らしく優れた性格というものもあるのだが(本当の児童文学はこれがなければ出来る筈がない)、併し大人がくだらぬ[#「くだらぬ」に傍点]ものを面白がるのは、何と云っても醜いものだ。
 この醜さは関心のシステムがなっていない[#「なっていない」に傍点]ことを表現しているわけで、教養の欠如は正に之によって測定出来るというような次第だ。だが、くだらぬ[#「くだらぬ」に傍点]ものへの関心と、新しい関心対象として価値あるものの発見[#「発見」に傍点]との間には、ごく似た現象が見られることを注意しよう。新しいものの発見は、大抵の場合、くだらぬものへの関心という廉で、教養の欠乏であるかのように軽蔑されるものだ。発見は初の内はなくてもがなの好事や堕落とさえ云われるものだ。だが新しいものを発見し得ない人間は、決して自分の内の関心の発展的なシステムを持っていない人間だろう。もしこの人間が関心の組織的発展力を持っているなら、当然現われるに相違ない健全な連想力[#「健全な連想力」に傍点]によって、関心と関心との間の関係が追求されるに相違ないから、関心体系の振幅は自然と肥りながら拡大して行く筈だ。そうすれば未知のものに就いても、夫々の体系に相応しい見当づけ[#「見当づけ」に傍点]が行なわれるに相違ないのである。この見当づけの探照燈の下に照らし出された新しいものは、新しい関心対象に値いするものとして、初めて発見[#「発見」に傍点]されることになるわけだ。情意上の見当づけ・見透し・(予見・先見)というものが、新しい意欲を動機するのである。夫が新鮮な関心・興味というものだ。
 だからつまり、教養のあるなしやその程度は、持たれる関心の徴候によって、物の着眼点のありかによって診断出来そうだと私は考える。之は問題の取り上げ方や取り扱い方一つにも明らかなことだ。関心の質的特色は教養のバロメーターとなるだろう。たとえ教養の実質そのものが何であるかはまだ判らぬとしても、このバロメーターは実際的な利用価値を有っているだろうと思う。
 仮に今ここに、Aという男に取って関心の強い事柄で、他の男Bにとっては正直に云って一向関心の対象にならぬものがあるとする。而もこのAの方がBよりも知識も豊富で時代の動きも理解しているということを、このB自身が知っていたとする。その時にBなる男はこの事物に就いて、ごま化し笑いをするのが普通だ。この男はこの対象に就いて真面目[#「真面目」に傍点]になれない。処がAの方は本当に真面目なのだ。このBの方は関心を持たねばならぬらしいということに気づいているのだが、さて実際を云うと自分ではどこが面白いのか判らない。そこで彼は不真面目[#「不真面目」に傍点]という態度を最短距離にある行為として択ぶ。明らかに彼はここで教養の欠乏を表現している。――インテリマダムの前で社会の情勢でも論じて見給え、彼女は必ず気の利いたと思うような冗談口で、話をそらして了うだろう。話を茶化して構わない程度にインディフェレントなものだと考えているからだ。
 一般に教養人や文化人は、従来、諧謔を理解すると考えられている。この点恐らく新しい型に於ける教養についても或る程度まで変るまい。と云うのは、高い豊富な関心の体系から見て、話題になっている対象が比較的小さなサットルな関心にしか値いしないので、諧謔が可能になるのである。だが要するに原因は関心のシステム如何にあるのであって、このシステムから云って重大なものに対しては、勿論大真面目になることが教養の命じる処でなくてはならぬ。だから、教養のある者は要点々々に於て真面目であり、之に反して、重大な力点を置いて然るべき処で真面目になれない人間は、教養のない人間なのである。一体色々な意味に於ける馬鹿[#「馬鹿」に傍点]は、大体不真面目なものだが、「馬鹿」という規定と教養の欠如とは深い関係があるだろう。学殖ある無知[#「無知」に傍点]というものがある。
 一つ特殊な例を選ぼう。世間で使っている言葉を自分の言葉として使う場合、その言葉をどういう深度と広範度とに於て使うかを見れば、その人間の教養の一端が判る。無論一般世間では単に便宜と習慣からして、どの通俗語に就いてもあまり教養のある使い方はしていない。だがこういう通俗語を如何なる程度に洗練して使えるかということが、教養の程度を示す一端となるというのである。「人格」・「貞操」・其の他其の他の類の道徳的通用語は、教養のある使い方とない使い方では、雪と炭との差を生むだろう。「ファッショ」・「独裁政治」・其の他其の他の政治的通用語も亦そうだ。後の方の場合には、社会科学的な知識の有無が人の政治的教養の有無と深い関係を持っているのであるが。――通俗語を洗練し生かして力のある言葉にまで仕上げるのは、多分詩人や思想家や評論家の仕事だろう。そういう意味に於て詩人や思想家や評論家にとって、教養は宿命的な意義を有っているだろう。
 だが例は言葉に限らないのである。言葉の問題は実に観念[#「観念」に傍点]の問題のことだったのだ。通俗的観念を如何に批判し、之を如何に生きた力ある観念にまで仕立て直すかということが、作家や哲学者の教養に懸っている。所謂作家の教養なるものも、その一端がここに現われるわけだ。――でつまりこの種の場合の例で判るように、教養は常識[#「常識」に傍点]と何か直接な連絡があるのである。

 では愈々、教養というものの実質は何かということに
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