て蔽われねばならぬと推理することとは全く別だ。啓蒙の本質を把握し之を活用することと、啓蒙主義[#「啓蒙主義」に傍点]に陥ることとは別だ。政治的活動は啓蒙活動にのみ俟たねばならぬとか、啓蒙は政治的活動から独立であるべく、その意味に於て純然たる文化活動以外のものであってはならぬ、とかいう啓蒙主義は、自由を主張することが自由主義になったり、ヒューマニティーの強調が人間学(主義)になったり、議会政治の尊重が議会主義になったり、経済活動の充実が組合主義になったりするように、極めて危険な論理的な虚偽なのである。――カントの如きは啓蒙の概念を定着するに際して、之をプロシア化せねばならなかったために、啓蒙の一応非政治的であるという実は極めて活動的[#「活動的」に傍点]な規定をば人の油断している間に、却って極めて制限的[#「制限的」に傍点]な規定にすりかえて了ったのだ。かくてカントは、啓蒙が一切の意味に於て非政治的であるということを、即ち政治的変革のファクターではなくてただの文化的向上の槓桿だということを、啓蒙主義的にシステマタイズして了ったわけだ。
つまりカント風の解明によると、啓蒙の一応[#「一応」に傍点]の非政治的特色(之は実はそれが一つの政治的活動であるが故にこそ必要な特色だ――丁度文学が本当に政治的な活動力を有つためには下手に政治的になることは許されないように)を逆用して、之を本当[#「本当」に傍点]に非政治的な特色へ引き直して了う。啓蒙の本来の政治的本質[#「政治的本質」に傍点]はどこかへ行って了う。丁度日本の「政治」が政治の名の下に却ってその政治的本質を隠して了っているので、もはや之を政治とは云い得ないように(代議士達のやっていることは政治であるか!)啓蒙も亦、わずかに「政治家式」の所謂「政治」のような意味に於てしか政治的ではなくなる。それが何か教育[#「教育」に傍点]とかポプュラリゼーションとか其の他其の他というものに帰しそうになる所以なのだ。
いつの場合でもそうあるべきだったのだが、特に今日、啓蒙と呼ばれるべきものは、ただの知識の普及[#「知識の普及」に傍点]ということであってはならない。政治的見識[#「政治的見識」に傍点]の大衆的普及ということでなくてはならぬのである。単にアカデミックな知識を一般の素人にも分譲するということなら、夫は何等啓蒙活動ではない。啓蒙とは知識なり見解なりをある一定の政治的な意図[#「政治的な意図」に傍点]の下に、大衆[#「大衆」に傍点]に普及することであり、その際その知識なり見識なりは一定の政治的機能を果す事によっておのずから広義の政治的見識へ編入されるのである。だからアカデミックな知識のポプュラリゼーションは殆んど啓蒙活動の態をなさぬが、之が正当な意味に於けるジャーナリズム(但し現在のブルジョア・ジャーナリズムの要素の大部分は正当にジャーナリスティックな機能を果していない)の一ファクターとなる時、それはやや啓蒙活動の性質を帯びて来る。この時啓蒙活動の相手となるものは、もはや一般素人というものではなくて、民衆であり人民であり大衆である。この後のものはジャーナリスティックな(新聞と政治的見解との連絡に注目)又政治的なカテゴリーなのである。前者は之に反して、単にアカデミシャンの有ちそうなカテゴリーにすぎぬ。
今日日本に於てなぜ啓蒙活動が必要かと云えば、一切の社会的デマゴギー(民衆の愚昧化を条件として、根本的に虚偽である処の、しかも卑俗には尤もらしい処の、固定観念と流行語とを人民に教え込むことだ)、と対抗するためである。夫は民衆の真の利益を自覚に齎すための一つの不可欠の手段のことなのである。そして今日一切の社会的デマゴギーは結局に於てファッショ的言論へと統一されて行きつつある。ヒトラーは一九三六年秋ニュルンベルグのナチ大会で、ボルシェヴィズムはユダヤ人のものであるが故に之を打倒せねばならぬと「獅子吼」したそうだが、こうしたものが一九三六年度の世界的デマゴギーの特徴をなすだろう。
ではこうしたファシスト・デマゴギー(その背後にはファシスト的社会・政治活動・の一連が控えている――例えば国家は資本家ではない、国立の工場では労資の区別はない、そこでは対資本家的労働組合は不合理だ、等々)、に対抗する唯一のものが、最上のものが、日本では啓蒙なのか。日本では民衆の利害のためのプロパガンダは許されないか、人民の利害についてのアジテーションは許されないか、人民のオルガニザチヨンは許されないか。――私は今ここで、こうした政治上の見解に触れることは出来ぬ。だが少なくとも、わが国の現下の事情に於て、オルガニザチヨンやアギタチヨンやプロパガンダ等の特に政治的な言論活動形態と平行して、特に必要で又特に現実味のあるものが、啓蒙活動だろうということは、常識的にも承認出来ることではないかと考える。ファシズム反対の広範な民衆のフロントが問題になる時、この一応非政治的で純文化的な政治的文化活動こそ、その処を得て最も有効に活躍し得る時であり又しなければならぬ時でもあると考えられる。フロンポピュレールの活動に於て、例えばフランスのように(又わが国の場合では往々批難さえされている処だが)、文化運動[#「文化運動」に傍点]の意義の重大さが特に認められていることは、理由があるのである。
処が今日までわが国に於ける啓蒙活動は、決して目的意識的ではなかった。事実の問題としては相当の啓蒙的実績は挙げているのであり、例えばプロレタリア文学などが果した啓蒙的効果は絶大なものであったが、それすらが実は啓蒙活動という自覚の下に行なわれたのではなくて、啓蒙的効果は云わば思わぬ収穫として残ったというまでだ。その理由はさし当り、啓蒙という観念の有っているその政治的な特色とそれの一応の非政治的純文化的特色とのからみ合いがリアリスティックに的確に把握されていなかったことにより、又幸か不幸か、今日までそういうリアリスティックな把握を強制されるような情勢に立つことがなかったということにあるのである。――今日は啓蒙という特殊の文化活動の様式が、プロパガンダ(宣伝)やアジテーション其の他と併んで、独自の社会的意義を公認され得る条件を備えており、従って又この社会的意義を活用し得又活用しなければならぬ時期でもあるようだ。
各種のジャーナリズム機構(独りプロレタリヤ・ジャーナリズムに限らずブルジョア・ジャーナリズムさえ)の意識的活用其の他が、啓蒙活動に固有な様式となる。今日所謂「合法的出版物」(その意味は現在極めて曖昧であるが)なるものの意味の重大性はここにあるだろう。比較的に原則的な又或る限度までしか時事的でない啓蒙活動の、素材乃至内容は、この様式の下にあっても相当運用の効果を挙げることが出来るだろうと考える。
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12 教育と教養
教養ということが今日一つの問題とされている。主に文学の世界に於てであるが、勿論そこに局限される理由はないし、又あってはならない。文学の世界に於ては教養は特に作家の教養という形で日程に上っている。実は読者の教養というものも問題であったので、大衆文学と純文学との比較検討の類は一部分この問題に基いていたわけだが、夫が今日、特に作家の教養という外形で、教養という問題一般への緒口となっているのだ。
そういうなら当然、文芸批評家の教養というものも問題にならずには措かないわけだが、それに就いてはおのずから触れることも出来よう。いずれにしても之を単に文学の世界だけの問題として片づけることは、それこそ教養のない片づけ方と云わねばなるまい。と云うのは現に、作家の教養に就いての要求は、作家の社会的歴史的知識、そうした社会理論や一般の科学的認識、を要求するということがその動機の一つだったのであって、夫は明らかに作家が単なる文学の世界乃至文壇にその作家意識を局限してはならぬという、注文なり反省なりの結果であったからだ。
教養の最も卑俗な観念は、多分ディレッタンティズムに於けるそれだろう。ディレッタンティズムそのものに就いても色々の理解の仕方があるわけだが、今は之をごく普通に用いられている意味に取るとする。即ち一種の有閑層が有つ感覚の一定条件による階級的洗練というような意味に取るとする。そういう形のディレッタンティズムによる教養の観念は、一見極めて教養的で従って高尚なようなものだが、それにも拘らず、この教養的である点自身が卑俗の卑俗たる所以なのである。なぜならこの場合、教養のあるなしは要するに或る一定の趣味に合うか合わぬかで決められるわけで、その趣味たるや片すみのすたれ行く階級によってマンネリズム化された退屈至極な固定観念以外に、意味がないからだ。極端な場合になると、通[#「通」に傍点]や通人[#「通人」に傍点]というものが之で、これ程悪趣味で無教養な現象はないのである。いや単に悪趣味や無教養だというだけでなく、そうしたものが特に「馬鹿」な慢心に由来することによって、より一層悪趣味となり無教養となるのである。
こういう意味の教養は、社会の或る種の層を通じて多々ある現象なのだから、もっと詳しく解剖しなければならないのだが、教養というもの自身が何かという今のさし当っての問題にとっては、問題にならぬものとして一応取り除いておこう。――次に考えるべきものは、教養と知識の所有[#「知識の所有」に傍点]という処から理解しようとするやり方である。例えば歴史的知識を沢山持っているとか、色々の活社会や科学に就いて、又色々の芸術作品に就いて、知識の分量を人より多く持っていることが、その人間の教養の高さだという風に考えるやり方である。だが沢山の知識を持っていながら一向纏りのない人間もいるのであり、逆に知識の数は特に豊富でなくても、一つ一つの知識が生かされているために見識か識見かの高邁な人間も少なくはない。知識の欠乏は人間を低くするものだが、そうかと云って単に知識の分量の多いことだけで人間の眼は高くはならぬ。問題は知識の分量ではなくて知識の質であり、而も良質な知識材料を質的にすぐれた仕方で物にすることが、初めて人間を高邁にもするだろう。この要求をはずれれば、人間は知識を有てば有つ程益々馬鹿[#「馬鹿」に傍点]として発達さえするのである。馬鹿というのは決してただの何物かの欠乏のことではなくて却って育ち行く或る生きた組織なのだ。丁度癌が一つの発達して行く活組織であるようにだ。
でそうすれば、知識というもので以てすぐ様教養というものを割り切って了うことは出来ない相談ということが判る。処が世間ではそういう教養の観念が案外通用しているということは注目すべき事実なのである。――教養は教育[#「教育」に傍点]乃至学校教育[#「学校教育」に傍点]の結果だという通俗観念が実際あるのだ。この場合教育というのは他ならぬ知識のたたき込みという意味だから、教養は結局知識の堆積ということになるわけである。
勿論教育乃至学校教育をこういう知識のたたき込みと考えることは、教育学的に云えば途方もなく間違った俗見なのだろうが、併し教育を素質の誘発とか人格の陶冶とかと考える教育学そのものが必ずしも卑俗でないものではないだけに、教育が知識の注入だという観念にも一応の真理はないとは云えない。知識の注入の欠乏は教育の欠乏を結果し、やがて夫が教養の欠乏を来すということは忘れられてはならぬ。ただ問題は教養のために必要な知識のコンビネーションの如何であり、教育に於ける必要な知識のセットの如何である。――処で高等教育理論は教育に於ける必要な知識のセットをビルドゥング[#「ビルドゥング」に傍点]と呼んでいる。学校とは区別された大学なるものの教育が、このビルドゥングだと、ドイツの伝統的な哲学的教育家や教育理論家や又一連の大学論者達は考える。ビルドゥングはもはやよく聞く例の人格[#「人格」に傍点]の陶冶というものとは同じでない。なぜならこの場合の人格という教育家的観念は、つまり知育とかいうものから区別された徳
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