ピンとは来ないし、映画の内の娘たちの制服姿を見ても、別段残酷な感じもしない。それ程、学生の制服は常識となっている。
 之は日本に於ける教育制度の単元的な画一という処から来るわけだが、それというのも近代日本に於ける被教育者の社会的位置が国家機構の上でチャンと決定されているからで、日本の資本主義の伸び伸びした発育期には、被教育者即ち学生生徒なるものは、ブルジョア社会の上級下級の公認の幹部候補生であったし、資本主義の停滞期以後は、彼等の大部分が生涯大してウダツの上らないような一つの社会層の予備軍になったわけで、いずれにしても社会的位置が支配者によって官僚的にチャンと指定されたものなのである。ここに日本に於ける教育の普及(?)ということの根拠もあったわけだが、同時に之が学生に夫々のユニフォームを着せるという教育上のミリタリズムをも産んだわけだ。
 ユニフォームは事実上、家庭から云っても経済的だし、学生当人から云っても便利なことが多い。併しそれというのも却って、学生がユニフォームによって一人前の大人である社会人から区別されて、善かれ悪しかれ特別待遇を受けているからである。だから学生が将来の社会にとって必要らしく見えた時は、彼等はこのユニフォームで相当得をしたが、一旦学生というものが、就職難や思想運動関係で社会の荷厄介となるや、彼等はこのユニフォームのおかげで社会から散々虐待される。その時は同時にユニフォームの道徳が学生に愈々絶対的な力で以て押しつけられる時期で、方々の学校に於ける断髪令の発布もこのユニフォーム主義の延長なのだ。
 頭髪を勝手な仕方で伸ばす(自由職業人は最も勝手な仕方で伸ばしている)ことは、勝手な服装をすると全く同じに、学生に不当な社会的自由を許すことを象徴する。この象徴を抑えることはやがて学生の本分を思い出す呪縛となるだろう、というわけだ。例は変だが、アメリカの囚人は仲々良い生活を送っているそうだが、ただ良くないのはかのグリグリ頭と妙な被服だということである。之によって囚人の社会的野心を抑えるに事足りるものらしい――つまりユニフォームは人間の階級性・社会秩序を最も露骨に意識的に云い表わすためのもので、学生のユニフォーム着用の事実から、日本に於ける学生層なるものの、階級的(?)意義を推論することも出来るのである。
 併し学生というものは職業の名ではない。それは社会秩序の一つの環は意味するが、生産勤労の様式を示す職業ではない。処が職業こそは社会秩序の最も公的な指徴だろう。職業とユニフォームとは、だから極めて密接な関係がある。丁稚番頭の角帯や大工棟梁の法被、芸者の左褄やヨイトマケの脚袢など、人工的ではなしにおのずから決った職業ユニフォームのようなものだ。併し学生の制服は兎に角上から制定されたものだ。職業ユニフォームで上から制定されたものは、第一に軍人であり、又之に準じる(職業ではないが)青年団・ボーイスカウト等であり、第二に警官・司法官・其の他の類であり、第三に或る種の工場労働者・運輸労働者・看護婦の類である。いずれも軍隊的組織を必要とする職業に特有であることを見ねばならぬ。このミリタルなシステムは指揮する側からも指揮される側からも必要なのであって、事実軍隊的組織はこの両側面があって初めて組織となることが出来る。職業的ユニフォームは、ミリタリー・システムによって指揮したり指揮させたりする場合に、欠くことの出来ぬ服装である。――処が更に、職業でなくて単に臨時の共通な任務にすぎぬ場合でも、それがミリタリー・システムを必要とする場合にはユニフォーム制度となるのである。
 逆にユニフォームが強調される処には必ず何等かのミリタリー・システムが社会的に要求されているのであって、世界各国のファシスト党員のユニフォームは、近代風俗上特筆大書すべき現象と云わねばならぬ。黒・褐色・グリーン・其の他の色彩の統一は、看護婦の白衣などとは異って、政治的意味を有っているわけだがこの統一はファシストの軍隊的組織の上から自然と要求された処のものだ。フランスの人民戦線政府はだからファシストの軍事組織を解体する意味で、ユニフォームの着用を禁止しようと企てた。
 日本の警察当局は、最近特に勤労大衆にユニフォームを着せることに熱心であるようだ。職工及び女工の制服(「労働服」)の普及奨励から始めて、円タクの運転手から女給、ダンサーに至るまで、制服を着せようという案さえあったと記憶する。云うまでもなく之は、彼等に軍事的な力を与えようというためではなくて、彼等を軍隊的に指揮し得るためなのだが。
 だがユニフォームの特有な魅力というものを見落すと、ユニフォームの本当の社会的役割を理解するに困難だろう。ユニフォームは誰にしろ夫を着る人間を、社会の一定秩序の内のレッキとした位置に据えるように感じさせるものだ。之はルンペンから区別して自分をシャンとさせるにはこの上ない魔法の衣だ。ユニフォーム・システムは而も、そのハイヤアルキーにも拘らず、他面に於て平等主義を有っている。馬鹿でも利巧でも二等兵なら二等兵だ。その間に人間的な比較などの必要もないから、そういう心配もない。上官は部下よりも絶対無条件に上位にあるのだから之を比較して見る必要も配慮もいらない。こうしてユニフォームはその着用者に分に安んじることと、自分自身を階級に応じて尊敬することとを、齎す。彼と俺と芸術家としてどっちが優れているだろうかなどと云って、悲観したり空元気を出したりする必要は毛頭ないわけだ。
 特にユニフォームが国家的支持を受けた職業や任務を云い表わす時、その魅力は、小市民以下の凡庸な層にとっては絶大である。彼等は一挙にして政治的権力をその皮膚に感じる。「マンハイム教授」という劇で見ると、今まで博士の助手であった男が、急にナチの制服を着用に及んで現われる。見ていると何かの英雄とも考えられて来る。これがユニフォームの最後の魅力である。ユニフォームのこの政治的魅力は今日各国で、多数の小市民青年達を、ファシスト団へと吸収している動力の一つだとさえ云っていいかも知れない。制服は制服が象徴する階級の利害を、それまで何でもなかった一介の着用者の皮膚に、ゾクゾクと感じさせるものだ。彼等は興奮する。彼等は凡ゆることをなし能う。彼等はデマゴギーの溜池となる。
 だがユニフォームには又別に一つの秘密があることを忘れてはならぬ。余りに見すぼらしいユニフォームは着用者の道徳的自信を損う。他の民衆からの畏敬を損ずることも勿論だ。だから例えば警察官の修養向上のためにも民衆支配力の増大のためにも、警官の制服を或る程度まで立派にすることが必要だ(最近日本ではそうなった)。処がユニフォームは又あまり立派過ぎてはいけないのである。飛び切りに立派では之を支配する人間のユニフォームの方が成立しなくなるだろうし、又あまり分に過ぎた制服は彼等の社会的野心を不当に煽動するだろう。大衆的ユニフォームは、或る程度に醜く造られねばならぬ。丁度資本主義社会に於ては適度の貧困が常に必要なように。

 礼服と裸体に就いて[#「礼服と裸体に就いて」に傍点]――「裸体文化」(ナックテ・クルトゥア)には原始還元主義が勝っているように思う。現代文明の弊は、裸の代りに着物を着ているということにはなくて、その着物が身体にとって不衛生な性質を有っているということだ。身体にとって不合理な衣服が身体の正常な発育を妨げている。大体同じであるだろう身体に、いくつもの階級的に異った着物を着けなければならぬというのが、現代文明の衣裳のよくない処だ。衣裳が悪いのではなくて区別を強制された衣裳が悪いのである。――而も同じ同一人が、時々異った衣裳をつけることを強制されることもあるのだ。礼服はその著しい場合だろう。冠婚葬祭から始めて、会談食事に至るまで礼装が要る。之がイギリス・ゼントルマン風の偽善[#「偽善」に傍点]というものだ。勿論儀式は人間を音無しくする。それは社会秩序の安寧に対する感謝の黙祷なのだが、処が現代はこの儀式が段々取り行ない難くなる。ドイツの小市民インテリゲンチャの決闘には依然として儀式があるが。――
 礼服が段々役に立たなくなる。又事実吾々は礼服を造っておくことは経済的に仲々出来にくいのである。――かくて問題は衣服[#「衣服」に傍点]の階級性[#「階級性」に傍点]に帰着するのである。
[#改頁]

第二部 教育風俗

 11 教育と啓蒙

 現代の日本に於ては教育家というものは数え切れない程存在している。少なくとも教育という問題に関心を持っている者は、他の関心の所有者に較べて圧倒的に多数だ。教育雑誌の数は雑誌の内で一等多いことは広く知られている。単行本の数も一位から三位とは下らない。
 処が一見教育に関係の深そうな啓蒙[#「啓蒙」に傍点]活動となると、第一にその観念が世間では一般にハッキリしていないばかりでなく、それが社会に於て占めるべき掛けがえのない位置に就いても、少しも徹底した観念が世間で行なわれていない。断わるまでもなく、啓蒙とは教育と同じ観念であり得ない。啓蒙というカテゴリーに這入らぬ教育や、教育のカテゴリーに這入らぬ啓蒙が大事な点であるのだ。処がそれが現代の実際[#「実際」に傍点]社会に於ては簡単に教育というような種類の観念にブチ込まれて了ってさえもいるようだ。だが実はそこに、この二つのものの根本的な区別の一端も亦、最もよく現われている。教育と云えば日本では多少とも国家機構の上で一定の位置を与えられた公認の社会的機能のことと考えられているのであるが、啓蒙は事実今日の日本では、決してそういう確固とした公認の社会的機能などとは考えられていない。この際啓蒙活動は精々知識の普及とか通俗化とか大衆化とかというような形で、教育家の臨時の片手間仕事位いにしか値いしないことになっているようだ。
 とにかく、啓蒙の観念は全く無力だ。啓蒙[#「啓蒙」に傍点]は他方宣伝とも直接関係があるが、反動的支配者による悪宣伝[#「悪宣伝」に傍点](デマゴギー)がこれ程日常行なわれているにも拘らず、日本ではまだ確固たる国家機構による宣伝機関(悪宣伝機関)さえ出来ていないことは、意味があるのだ。実際は大いに行なっているが、そのやり方がまだ国家機構上に目的意識化していない。ナチスの宣伝省に類するものはまだ存在していないのが事実だ。処でデマゴギーとは悪宣伝即ち又虚偽宣伝のことで、つまり本当の宣伝[#「宣伝」に傍点]の社会的内容の入れ替ったものの意味だが、そういうものは取りも直さず、啓蒙の正反対物にも相当するわけだろう。で、啓蒙の反対物たるデマゴギーの方が、国家機構の上で目的意識化された機関を有たない時に、啓蒙や其の宣伝の方の社会的機能も亦、社会的にそういうものとして公認されないのは無理ではあるまい。日本には多数の教育者がいる。それに準じてその亜種であるポプュラライザーやお説教屋も多い。彼等はどれも国家機構の壁に這う処のつた[#「つた」に傍点]のようなものだ。之に反して、啓蒙家[#「啓蒙家」に傍点]というものは現代日本では極めて数が乏しいのである。彼は国家機構の壁の上で勝手に這い回ることは許されない事情があるからだ(私は現代の啓蒙家の代表者として河上肇博士の如きを挙げることが出来ると思う)。
 啓蒙家は教育家でないと云った。社会教育(対社会教育)や成人教育・庶民教育も、それだけでは決して啓蒙ではない。同様に又彼は学者のことでも思想家のことでもないのである。――処が他方に於て啓蒙家は又充分な意味では宣伝家乃至アジテーターとも異っていることを注意すべきだ。宣伝乃至アジテーションになればレーニンの有名な著書にもよく出ている通り、いつも一つの重大な政治活動プロパーの内に這入っているわけで、レヴォリューション時代に於ては反国家的な機能であるが、それだけに正に政治的な活動であり、政権成就後に於ては正に一つの国家活動の要点となる処のものだ。処が啓蒙はそこまで充分には政治的[#「政治的」に傍点]ではないことがその特色
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