く代表されているのである。
 さてそこで、かつて最もセンセーショナルな事件の一つは、源氏物語上演禁止問題である。併しまず第一にこれが決して単純な思想検閲問題という形を取っては現われなかったということを注意しなければならない。思想検閲と風俗検閲とが、ここでは可なり複雑なメカニズムによって結合しているという点を見逃してはならぬ。之は例の文化警察と風紀警察とが、特別な形でからみ合った場合の一つなのである。
 番匠谷英一氏の戯曲『源氏物語』は、紫式部学会後援の下に、新劇場劇団の坂東簑助等によって上演される筈の処、突然警視庁保安部によって上演禁止が命じられた。脚本は検閲にそなえるために予め多少の改訂を施したものだったそうだが、それがなお風教上有害だという理由で禁止になったのである。『源氏物語』そのものはいいのだが、この脚本を上演する場合になると、光源氏を中心とした姦通・恋愛物語りが、低級に違いない一般観衆にとって有害なのだ、というのが、時の保安課長の言分である。

   四[#「四」はゴシック体]

 併し実はこうなのである。予め禁止するかも知れぬという内達が当事者へあったので、検閲係長に当事者が面会すると、一、宮内省関係の禁忌なき場合、二、古典に理解ある者だけを入場せしめるならば、三、今回だけは、許そうということだったそうである。処で宮内省自身の方では一向かまわないという意向だったが、古典に理解ある者というのが紫式部学会員に限るという意味だったので、都下の国文科女学生達の絶大な数をあてにしていた劇団は、そういう制限を承認しようとしなかったから、遂々上演を禁止されたわけである。
 禁止の本当の理由は局外者にはよく判らない。警視総監は、当局は「文学の宣伝機関ではない」とか「理屈で禁止させるのではない」とか云った、と新劇場の当事者が告げているが、之は何も禁止の理由の説明にはなるまい。
 だが先に述べた上演許可の条件から想像すると、第一の理由は無論男女の放縦な色事を写したということにあるが、単にそれだけならばどんな芝居でもそういう点はあるので、それにこの戯曲などは色事も至極上品に物やわらかに描き出されているから、あまり心配になる筈はない。だから第二の理由の方が今の場合特徴的なので、それは、事実上のことに関るからと云うのであるらしい。雲上の事柄に気を配るということは、決して風俗検閲の任務ではなくて、今日では正に思想検閲の中心をなすものだが、今は夫が、宮廷人の色事として、風紀問題に結び付いている点が、この場合の要点でなければならぬ。
 前の有閑マダムの不行跡は、単に女の不品行として社会の注意を惹いたのではなく、全く上流有産者の婦人達の行為だったがために注目に値いしたのであったが、恐らく源氏物語のこの戯曲も、一千年の距離を貫いて、上流人士の不品行を連想させるというのが、当局の心配だったのだろう。玄人の批評家達からは不幸にしてあまり好評を博さないらしかったこの戯曲も、その劇的効果の絶大なる所以を、検閲当局によって保証されたわけである。
 ただでさえ資本家の「横暴」がやかましい世の中である。資本家や政治家自身に手入れは出来ない迄も、不労所得の代表者と考えられている名流文士や上流婦人の、賭博や不行跡には手を入れる。当局は決して資本家らしいものに向かっても寛大なのではないということが、世間に知れ渡った。併しこれ以上薬が利き過ぎるのは考えものだろう。たとえ千数百年昔の出来事にせよ、雲の上の男女の不行跡を却って暴露して天下に公示することは、もはや文化・思想・警察と風紀・風俗・警察との、検察方針であってはならないだろう。そう吾々は想像するのである。
 だが問題は、こういう禁止理由が一般的に正しいか正しくないかではない。無論風紀を乱す芝居は禁止されるべきだろうし、特に雲の上のそうした事柄を描き出す芝居は安寧を害することにさえなるからいけないだろう。それは丁度正義は正しく、真理は本当だ、というようなものかも知れない。問題はこの芝居が実際に風俗を乱し安寧を害するかどうかの判定[#「判定」に傍点]にあるのである。
 併し判定になると実は之程出鱈目なものはない。世の中の観衆の観劇眼がどの程度に進んでいるかは、検閲当局自身の観劇眼の程度によって判定を異にするし、又この劇自身が風俗警察や文化警察の対象になるか否かも亦、検閲当局自身の好色水準や社会意識水準によるのである。文化警察と風紀警察とが実際上、如何に警察権の主観化であり、それが又如何に警察権の私的化に基づくかが、検閲標準のこの薄弱さの中に、まざまざと露出しているのである。
 警察権が私的化し従って又主観化することは、処で、本来の警察機能をおき去りにすることであり、警察権の矛盾[#「警察権の矛盾」に傍点]を発展させることだった。わが国現下の検閲は、恰もこうした矛盾の象徴そのものに他ならぬのである。
[#改頁]

 10 衣裳と文化

 和服と洋服について[#「和服と洋服について」に傍点]――或る地方大新聞の社長は自分の工夫をした和洋折衷の服装を宣伝している。大体に於いてツツッポにモンペという姿であるが、私が貰った写真で判断する限り、決して見っともいいものではないのである。私がもしあの服装でもしなければならぬとすれば、私の思想は一遍に涸渇し、私の舌は忽ち硬ばって了うだろうと思われる。単に異様だというだけではない。異様なだけなら自分自身が気に入っている限りは、却って気勢が揚がるもので、オスカー・ワイルド式なやり方もあるし、ラッパ・ズボンをはいたモダーン娘のような場合もある。困るのは何としても自分自身に審美的に満足を与えないということであり、自分自身に風俗上の不安を与えるということなのである。
 和服を人工的に洋服と折衷しようとする企ては、右の例に限らず、殆んど凡て失敗のようだ。最近ではもう改良服の運動の類は屏息して了った。婦人の和服の場合特にそうだ。従来の和服か、それとも洋服かということになっている。而も不思議なことには、或る社会層の或るジェネレーションの婦人の服装を見ると、和服と洋服の区別こそあれ、それによって得られる風俗上の効果はその本質を殆んど同じくしているのである。インテリ・モダーン娘の場合には、和服を着ても洋服を着ても、殆んど変る処のない或る風俗上の常数が見出される。こうなると和服と洋服との区別は根本的には殆んど無意味になってしまうのだ。
 之は和服というものが元来の約束であった和装[#「和装」に傍点]という条件から離れて、和服である点では少しも変らぬに拘らず、いつの間にか洋装[#「洋装」に傍点]の条件に嵌って了った場合であって、和服と洋服との結合はこうした意味な形で、現にごく審美的に成功しているわけだ。――だがこんな場合は、有閑層の而も若い女に限る特別の場合で、一般には和服と洋服とは恐らく永久に相交らない二つの文化を象徴している。
 男の場合、官吏やサラリーマンは殆んど例外なしに洋服で出勤する。洋服は都市を中心として男の普通の服装となっている。処が女は決してそうではない。モダーン・ガールの約半数と職業婦人の一部分が洋服であるにすぎない。ではなぜ男の洋服が成功して女の洋服はまだ充分に成功しないか。女は和服の色彩と図案との方を、洋服の形態よりも尊重するからだろうか。少なくとも洋服に就いてよりも和服に就いての方が、知識と見識に自信があるからだろうか。又結局に於て今日では和服の外出着の方が経済的だろうか。そのどれでもあるだろう。だが之は本当の原因ではない。女の洋服の流行が成功さえしていたら、今日ではもはや解決済みだろう問題ばかりだからだ。
 原因は労働様式にあるのである。男は外出して電車に乗り椅子に腰かけ又歩き回らねばならぬ。男の洋服がこのための労働服として採用されて今日のような普及を得ることになったのは、人の云う通りである。女の洋服はそうではない。少なくともモダーン・ガールの洋服は労働服としてではなくて、主に消費生活用の服として評価されねばならぬ。消費生活用でも近代消費生活は裾さばきの安全な洋服を要求するのは勿論だからだ。だから職業婦人の多くのもの(ユニフォームを着る場合やモダーン・ガールに編入されるべき場合を除いて)は、洋服ではなしに却って和服の上に各種のエプロンを纏う。女の場合には洋服はまだ労働服としての価値を充分認められない内に、消費生活服の意味が勝って来た。で勤倹な多くの職業婦人は洋服に遠慮しているのだろう。
 婦人の洋服が決定的に流行しないのは、婦人の労働の大部分の場合が家庭内労働であり、而もこの労働職場が畳式に出来ているので、和服は或る程度まで労働服の役割りを果すのである。少なくとも外の近代的施設の下で働かないので、洋服を労働服として要求しないのだ。勿論畳式家庭内労働でも立居振舞にとって和服は理想的なものではないから、却って家の内では安価な洋服をつける主婦は少なくないが、之は家庭外の社会に出ると忽ち通用しなくなる。男は街頭を勤労者として歩くが、女が街頭を歩く時は主に消費者として歩くからである(男は家庭に這入ると消費者となるので、大抵和服に着かえる)。とに角男の背広と女の和服の外出着とを較べると、一方が近代的労働服で他方は近代的消費服である。女は社会に於ける労働服についてまだ一定の制度を持っていない、その服装に迷っている。が、消費服については、和服は和服、洋服は洋服で、決して迷ってはいない。そして家庭内労働服についても殆んど迷わない。男は之に反して社会労働服としては立派な制度を持っている。が、家庭内消費服となると大分乱れて来る。まして家庭内労働服に至っては形をなすまい。
 日本の女の服装は社会的労働服としてはまだ混沌として低迷期にあると云わねばならぬが、併し消費生活服として制定確立された洋服も、和服さえも、実は風俗として安定を保っているものではないことを注意したい。和服が近代消費生活に於ける活動の様式にとっても不合理であることは、誰しも眼にしている処だ。それは袖と腕、裾と脛に関して明らかなことだ。そこに見られる奥深い腕や隠見する脛は、実は、家から気まぐれになげ出され、家庭内労働から迷い出た処の、日本家庭主義の残滓の象徴である。之は社会的公服を欠いた日陰者のものだ。他方洋服の方は勤労社会からはみ出した過剰物としての、奢侈品としての、女の社会的特徴をよく云い表わしているのである。――私は日本の街頭で出会う女の服装を見て、殆んど絶望に近い性的過剰か性的陰影かを眼にするのだ。日本の風俗はまだ社会的労働の風俗から極端に遠いのである。日本婦人の和服の美を無責任にほめたり奨励したがったりする外国の馬鹿者を私はいつも苦々しく思うものだ。

 ユニフォームに就いて[#「ユニフォームに就いて」に傍点]――以上は併し、日本の社会の或る層だけに就いての話しで、勿論民衆の全部に就いてではない。衣服の上から云うと、ユニフォーム層とも云うべきものが存在するのである。云うまでもなく、背広にしても婦人の和服にしても、原理は固定していて、誰でも似たりよったりの物を着ているから、結局ユニフォームみたいなものではあるが、併しこの種の服装は自然と一定の社会層なり社会階級なりを示しているにも拘らず、着用者をば一定の群にぞくするものとして特に他の群から区別するという意味は持っていない。背広を着ている以上職人でも丁稚でもないことは明らかだが、併し別に自分はサラリーマンであって官吏ではないとか、自分は会社員であって銀行員ではないとかいうことは示していない。そこがユニフォームと異る処だ。
 私の知っている或る高等学校の先生が、アメリカに遊学した際、洋行に先立って記念に生徒と一緒に撮った写真を、アメリカの学生に見せた処、あなたの学校は士官学校ですか、と聞かれたそうである。学生がユニフォームを着るということは、アメリカあたりでは不思議なことであるらしい。「制服の処女」という映画の題は、題だけで或る陰惨な印象を与える筈なのだろうが、吾々日本人には一向
前へ 次へ
全46ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング