その際主張の弾みとなるものは、単に文学的な表象(科学的なカテゴリーとは独立な亦は之に対立さえした)のイメージ相互の連絡であるか、それとも常識的なレディメードな観念(之ほど非文学的なものはない)の常識的な連想であるか、ひどい時になると常識用語の習慣的な継起(之ほど非詩的な連想はあるまい)であるかだ。之はもうスタイルではなくて、美文の類だ。スタイルは思考が要求する文章の姿態のことだから。――私はこうしたカラクリを前から「文学主義」と呼ぶことにしている。
 この文学主義に立つ主張型が、情熱的に見えるということは、尤もなことだが、地を焼くことが出来ぬ情熱が天を焦すことなど出来る筈がないのだ。情熱が主張の塗料となる時、もはや情熱ではなくて軽卒でしかない。――真の情熱は結局決意と同じに、云わば分析の結論[#「分析の結論」に傍点]の上で初めて発情する。「分析の結論」は決してまだ情熱ではないが、情熱を産まないような分析の結論は、「結論」のない分析であり、ペダントリーや弁解やに於て見られるような匍匐的リアリズムに過ぎないのだ。事実従来の論文には、そういう「分析」が少なくなかったのである。
 極端な場合を云えば、分析に基かない情熱的主張は、客観的に見てファッショ・デマゴギーの温床でさえあるのだ。分析=論証のない情熱は、そういう一般的情熱、一般的な主張衝動は、創造的な想像力と妄想とを区別することを知らない。無条件な主張衝動が信頼出来そうに思われている場合も、実はその根柢に分析の結論[#「分析の結論」に傍点]が想定されていることが約束されている場合だからであって、如何に陶酔してもこの約束だけは忘れてはならぬ。
 私は学術論文の類を分析型であるべきものと考える。之に反して評論雑誌に於ける所謂「論文」を、即ち主張型になることを今日要求されている処の当のものを、分析型に対して評論型[#「評論型」に傍点]と呼びたいと思う。評論型のスタイルとは、分析型の分析に基いて初めて主張型に登りつめたスタイルだ。之が評論[#「評論」に傍点]というもの一般の落ちつくべきスタイルであり、そして所謂総合雑誌を代表するスタイルとなるべきだろうと思う。之は理論であることによってある処の思想のスタイルである。総合雑誌・評論雑誌を、私はこういう理由から正当には思想雑誌[#「思想雑誌」に傍点]と呼ぶことが出来ると思うものだ。
[#改頁]

 9 風俗警察と文化警察

   一[#「一」はゴシック体]

 一体警察権は一定社会の生産関係の根柢を保善するために存在している。社会の安寧秩序[#「安寧秩序」に傍点]が警察によって保証されることは、科学的に云えば要するに以上のことに尽きていると云っていいだろうと思う。
 法律が人命財産を保護することを何よりも根本的な直接目的としているに応じて、このような法律を実地に運用出来るように、肉体的物理的な条件を用意するものが、警察権であることは、誰しも異存のない処だろう。けれども実際に存在している法律は、云うまでもなく単に人命や財産だけを保護するだけでは、人命や財産自身の保護さえが決して充分に実行され得ないので、人命財産に直接関係ある名誉や権益其の他のものの保護も、法律の重大な目的になっている。だから警察権はそれだけ、人命財産の保護という本来の職能からははみ出さねばならぬわけで、それは一応当り前な現象と云わなければなるまい。
 だがこうした生産関係の保善という本来の政治警察権[#「政治警察権」に傍点]は、実際には更に拡大されている。一定の生産関係の上に、一定の道徳[#「道徳」に傍点]と一定の文化[#「文化」に傍点]とが出来上るということは誰でも知っているが、そういう道徳なり文化なりが自分が立脚している生産関係と或る切っても切れない必然的な関係にあるので、この生産関係を保善する筈の例の本来的な政治警察権は、やがて、風紀警察[#「風紀警察」に傍点]として、又文化警察[#「文化警察」に傍点]として、発動するようになって来る。
 ここで道徳というのは、別に修身道徳のことではなくて、社会の慣性・習俗のことであり、例えば裸身になるということは一定時代の風俗に反する意味で反道徳と考えられるという意味の道徳で、所謂風紀・風俗という言葉が一等よくその特色を云い表わしている。警察は、一定の生産関係に立脚した一定の風紀・風俗の保善に任ずるという意味で、風紀警察・風俗警察となるのである。
 それから、ここで文化というのは、その根柢になる生産関係を肯定したり批判したりする観念組織からなっているもののことで、之が今の生産関係と重大なる観念上の連関がある処から、一定の生産関係を保善する筈の警察権は、同時に文化警察の形を取って発動しなければならなくなるのである。
 処が警察権の支配下に立つものは、元来、何か公的なものに限るわけで、例えば政治的な又市井的な行動や言論が夫であって、一切の私的なものは除外されるのが立前である。人の見ていない処で何をしようと、それが他人へ決定的な影響を与えない限り、丁度人間が何を考えようと勝手であると同じに、それは全く個人の私的行為であって、警察権の支配外に横たわるべきだと考えられるのが当然である。
 処が私的な個人的な事柄も、あまり多数反覆されたり、あまり著しく類型をなしたりする場合には、やがて、おのずから公的な社会的な意義を持って来るのが事実であって、例えば「不良ダンス教師」の不良振りは、一人一人の場合や単に幾つかのダンスホールだけの場合に就いて云えば、全くの私行問題に過ぎないとも考えられるが、それが多数のダンスホールを通じて多数のダンス教師に共通な現象だとなると、不良少年係りの風紀警察網に引っかかるのである。有閑マダムは何も街頭や店内で風紀を乱しはしないが、不良ダンス教師や名流文士の賭博という、やや公的な風紀壊乱や「犯罪」と結びつけられて、風紀警察ものとなるのである。

   二[#「二」はゴシック体]

 文化警察に就いても風紀警察と殆んど同じに考えられるのであって、思索や読書や意見の発表が単に処々で個人々々で行なわれている間は、之は全くの私事にぞくするが、夫が多数の人々によって規則的に行なわれる一つの現象となると、注目すべき公的な「社会現象」になるわけで、その結果は単に意見の宣伝や意志の表示ばかりではなく、個人的な読書さえが文化警察権の支配下に立たされるようになるのである。
 私的な生活が決して公的な社会的な生活から切り離すことが出来ないのは、以上云ったような点からだけ見ても明らかで、その結果、極端に考えれば、私的なものとの区別は厳密には与えられないということになりそうだが、もし夫が本当なら、吾々の生活の凡てのアスペクトが、皆警察権下に横たわることになるだろう。そういう馬鹿げたことがない以上、或いはそういう馬鹿げたことがあってはならない以上、私生活と公的な社会的な生活との区別は、いつも残存しなければならない筈だ。
 処が、私的なものがやがて公的なものへ何時の間にか移行するという今云った事実を、ある目的の下に逆用して、私的生活にぞくするものを、勝手に公的な社会的なものと見做すという手段によって、警察権はいくらでも私的生活に立ち入ることが出来るという事実をも、吾々は注目しなければならない。
 元来、所謂「上流社会」は「下層社会」に較べて、有産者らしい便宜や名誉のおかげで、生活のプライヴァシーが遙かに厚く社会的に保護されているから、有閑マダムのプライヴァシーを曝くということは、下層社会のお神さん連の公的な風紀壊乱を指摘するのと全く同じ水準の社会取締り方針にぞくする。取り締りに階級的えこひいき[#「えこひいき」に傍点]がないことを示すためには、甚だ有効な手入れ[#「手入れ」に傍点]だと思うが、併しその形式から見れば、有閑マダムの検挙(?)は、私的生活に、公的生活の口実を藉りて、風紀警察権が勝手に立ち入った形に他ならない。
 偶然名流文士達の賭博という犯罪[#「犯罪」に傍点]が発見されたというので、マダム達の検挙もやや合理的になり得るものの、それから又、道徳が頽廃(?)した現代のために警鐘を打ち鳴らすという点では、相当痛快ではあるものの、とにかくこうした道徳的[#「道徳的」に傍点]な役割は、風紀警察の出すぎた一例となるだろう。
 文化警察もその通りで、例えば思想警察権は今日次第に思想者の私的生活にまで立ち入って来つつあるように見受けられる。この頃流行る所謂転向の誓約というのは、転向した当人のその後の私的生活を束縛することがその内容となっている。例えばプロレタリア小説から足を洗うとか、西洋画は書かないとかいう、元来が個人の自由な選択に任されるべき私的生活の形式が、そこでは官製のものに引き代えられる。八百屋になっても良いが魚屋になってはいけないというのが、今日の文化警察の権限である。
 警察権は今日、公的生活の取り締りの名の下に、私的生活の領域を、無限界に支配し始めている。警察権はその意味で、私的化[#「私的化」に傍点]され、道徳化[#「道徳化」に傍点]される。それは修身化[#「修身化」に傍点]され、倫理化[#「倫理化」に傍点]される。この点は警察権が対応する処の、法律自身の最近の動向と全く一致するものがあるのである。
 そして警察権のこの私的化・道徳化・修身化・倫理化を、最もよく利用し得るものは、云うまでもなく、例の風俗警察と文化警察とに外ならない。

   三[#「三」はゴシック体]

 文化警察は今日主に思想警察となって現われる。思想というものはその本来の性質上、云うまでもなく一般に行動として形を表わすのだが、夫と共に、他方特に思想発表行為として、即ち教示・普及・宣伝・等々の言説や集会や出版行為・展覧行為・壇上行為等々として、形を取って現われる。この後の方の文化的行為[#「文化的行為」に傍点]こそが、特に文化警察の伸縮自在な領分であって、中でも検閲[#「検閲」に傍点]がこの警察権の最も有力な内容になっている。
 処が文化的行為の形を取るものに就いては、単に文化警察ばかりではなく、風紀警察も亦干渉して来る。検閲は元来文化警察にぞくするもので、文化的行動に就いてしか意味のないものだが、その内容になると、風紀警察をも含んで来ることが出来る。
 この場合には、検閲は思想の検閲であると共に、風俗の検閲でもあることとなる。だから検閲はこの場合、云わば文化警察と風紀警察との、独特な結合物だということが出来よう。風紀警察が検閲に干与するのは、風俗が一つの文化的行為となった時で、例えばエロ・グロ・行為が単に社会的に公的化された場合はまだ検閲とは関係ないが、そういうエロ・グロ・行為が、或る文化的行為の形で、社会的に公的化された場合になると、検閲の対象となるのである。
 で、文化警察と風紀警察とが、以上のように独特な結び付き方をすることの出来る検閲なるものは、一体文化警察や風紀警察自身が、公的社会的な者を取り締るべき本来の政治警察権のコースから離れて、相当勝手に私的個人的な世界にまで踏み込むものだったのだから、可なりの解釈の自由・寛厳の手心・が予定されているわけで、それだけアービトラリな主観的なものに根拠を置いていることになる。検閲に就いての悶着はいつもここから発生するのである。
 治安維持法と出版法とに連関して、現下の思想検閲が、どんなに重大な役割を演じているか、改正された出版法や、やがて改正されるに相違ない治安維持法其の他によって、この検閲がどんなに絶大な偉力を発揮するだろうかは、今更ここで説明するまでもない。検閲制度をこのようにヒステリカルに強調するのは、思想検察という文化警察権の、例の無限界な私的化という事実と、それに基づいて勝手な主観的適用が出来るという事実とを、利用したものであって、この頃では警察権のアクセントの置き所の一つが段々ここに集中して来るにも拘らず、それだけ警察権は本来の政治警察的なコースを踏みはずして行くという一般傾向が、之で以て最も著るし
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