於ては、主張とその不実行とさえが特色であるが、併しヒトラーやムッソリーニと雖も、ショーやウェルズのようには、色々の主張を有ってはいないと云うことも出来るだろう。
学者と実際家とはまるで対立したものであるが、主張家[#「主張家」に傍点]でないという点では或る共通点があるらしい。これに較べて主張をその生命とするものは思想家や理論家というものだろう。思想家の多くは大して物識りでない場合さえある。研究しない思想家もいる。彼は新しいイデーを発見し考案し之を説得する能力に於て信用を博すれば、とに角一人前の思想家の資格を有つのである。勿論之は易しいようで決して容易なことではない。誰でも普通の素質さえ持っていれば或る水準の学者にはなれるが、誰でもが思想家になれるかというとそうではない。誰でもが優れた文学者になれないと全く同じ事柄にぞくする。
だが勿論、所謂思想家は思想の主張家であってその実行家でないことの方が多いし、又事実実際家でもないのが普通だ。云わば彼は実行しないが故に主張するのである。――理論家というものも亦決して博学者や研究家と同じではなく、寧ろ夫とは鮮かな対比をさえ持っている性格のことである。理論家は通常博大な常識人だ、常識人と云っても、何でもかんでも知っているという意味ではなくて、常識という意識統一の統覚のようなものを人一倍敏活に有っているということだが、従って必ずしも平均的な凡庸な理解という意味での常識に終始しているというのではない。もしそうなら所謂常識家以上のものではあり得ないので、特に理論家などとは云えまい。でこの常識人であることが所謂思想家の一種の超常識性と違う点だが、常識に対して説明することなしに常識を踏み越えることが、思想家の世に容れられない超常識や非常識の内容であるに反して、理論家が常識人たる所以は、与えられた常識を踏み越えるのに、いつも既成常識への挨拶を忘れず、また踏み越えてからその経緯を元の常識に報告することを怠らない、という点に存する。
理論家はこの意味で常識人であり、所謂学者のような意味での研究者でもなければ、まして博学者でもないが、それと共に、勿論亦、実際家でもないのが普通だ。彼が実践家でないが故に理論家だということに普通はなっているのである。理論と実践の統一ということは無論大切な目標だ。併しそれにも拘らず理論家と実践家との常識的な区別には意味があるだろう。と云うのは優れた理論家と優れた実践家とを兼ね備えた人物は極めて少ないので、多くの場合に夫は単なる理想目標に他ならないからだ。
で私は、思想家や理論家なるものを、学者でもなければ実際家でもないという点で、主張家[#「主張家」に傍点]であるという風に、一応云うことが出来るように思う。そして作家や文芸批評家をも、この思想家や理論家の内に数えての上である。こういう主張家なるものは、一種特別な社会人である。彼等はその本質から云って、社会的な情念の動きを自分の唯一の生命としている。各種の社会現象に対して吸引か反発かを感じない時には、彼等は全く死んだ人間も同様なのだ。破れた思想家や行き詰った理論家は、もはや自分自身で何の意義をも見出し得ないような無的存在となる。一つの火である、それが消えれば凡てが消えるのである。その意味から云うと、思想家や理論家は、その主張の情念を失う時、全くの無能者となる。何の役にも立たぬ。彼等はその限り[#「その限り」に傍点]、広義に於ける技術家乃至技能者とは全く違うものだ。無論彼等が絶対的に技術家でも技能家でもないというのでは決してない。実は思想も理論も或る意味に於ける判然たる技能か技術であって、之を欠いた人間が思想家や理論家になれぬことは知られた事実だ。彼等は云わば「文化的」技術家なのだ。と云うのは意欲表現の技術家だ。だがこうした文化的技術なるものは、本来の技術(生産技術に直接する処の技術や技能)とは異って、一旦習得されたものが無条件に蓄積されるということがない。もしあるとすれば夫はマンネリズムということであって、夫は蓄積というよりも寧ろ既得のものの腐敗と消滅に他ならない。石のようなものではなくて火だ。燃えきって了えばゼロになるものだ、之が一般に文化的技術というべきものの特色だろう。――主張家に主張がなくなればお終いなのである。不満や賛美のない処に、主張家は成り立たぬ。この主張家なるものが、社会的に活発な生物である所以だ。だから含蓄ある意味でのジャーナリストも亦、このカテゴリーの外にはあり得ないのである。
だが私は今、この主張家の内にも、再び主張家[#「主張家」に傍点]というタイプとそうでないタイプとがあることを、書きたかったのである。主張家でないタイプは分析家[#「分析家」に傍点]と呼んでいいかと思う。この二つのタイプは可なり根深い対立に由来しているらしく、他の色々な対立に関係あるのだが、少なくとも思想家にも理論家にも夫々この二つのタイプの区別は見出される。思想家は主として主張家タイプ、理論家は主として分析家タイプ、と云っても間違いないようにも見えるが、夫は概括的な而も表面だけの事実に過ぎないので、最も優れた理論家であるマルクスは同時に最も優れた主張家型であり、そして彼は亦、最も優れた思想家であると共に最も優れた分析家型であった。ただこの際、主張家型の主張ということと、分析家型の分析ということとを、普通よりも掘り下げて考える必要に逼られるということに他ならないのだ。そこが私の主張の要点になるが、しばらくこの二つのタイプの事実上の対立の諸相を見て見よう。
所謂総合雑誌に於ける「論文」乃至「巻頭論文」を採って見よう。実は総合雑誌という名前があまり意味のあるものではなくて、本質から判断して命名すれば評論雑誌乃至思想雑誌と呼ばれる方が正当だと思うが、この点前にも述べた。とに角総合雑誌の面目を示すものは論文であり、夫が巻頭論文を典型としている。処がこの論文なるものは、之までのジャーナリズムの習慣から見ると、多くは分析型のものだった、ということを改めて注意しなければならぬのである。或いは寧ろ極端に分析型であったと云った方がよいかも知れないので、分析型が過大視され誇張されすぎた結果は、論文と云えば評論雑誌[#「評論雑誌」に傍点]であるに拘らず学術[#「学術」に傍点]論文のようなスタイル(寧ろジャンルか?)のものが多かったのである。この点が、評論雑誌の所謂「巻頭論文」をつまらぬ[#「つまらぬ」に傍点]とか面白くないとか、無意味だとか無用だとか、と呼ばせた点であった。
処が最近になって、評論雑誌が色々の側面から云って飽和状態に這入ったということが、出版業者や編集者の意識を刺戟し始めた。夫は一部分編集上のマンネリズムとして意識され始めた。そこで編集の新しい方針が模索されざるを得なくなった。その時まず第一に眼をつけられるのは、論文のこの分析型なのである。そこでいくつかの評論雑誌の編集者は巻頭論文を分析型から主張型へ換えようという気になって来たのである。『日本評論』などは大体そういう方針が全面に作用した雑誌であるし、例えば『中央公論』(一九三六年一〇月)の岡氏の文章「青年に寄す」などがその類かも知れない。――確かに読者も分析型のものの代りに主張型のものを求めているらしい。夫は必ずしも分析型に飽きあきしたからだとは云えないが、少なくとも主張型の方が新しく従って新鮮だからだ。と共に、読者というものは気が短かくて要するに結論[#「結論」に傍点]というものを早く簡単に読みたいということもあるので、処がこの結論というようなものは分析型の分析の結論のことではなくて、実は文章に於ける第一テーゼのことに他ならないから、結局之は主張型の主張[#「主張」に傍点]のことになる。
単に従来の読者がその一般的な生来の習性や、又特殊の之までの慣性から、主張型に漠然として期待を有つだけではない。読者を所謂読者の資格から見ずに一般民衆の要望の代表者として見ると、今日の日本の民衆は、必ずしも強烈ではないが併し甚だしく瀰漫した社会不満を有っているのである。社会不安[#「不安」に傍点]というものにはつきないので、社会不満[#「不満」に傍点]なのだ。不満であっても決して積極的なものではないのだが、併し不安というものと同様に消極的なものではない。日本の今日の大衆は不満に充ちている。之が今日主張型の言論を要望させる一等根本的な要因ではないだろうか。
この要因は処で、色々なものに連関している。文学の思想性という問題の一つの意味は、作品の分析[#「分析」に傍点]的な真実の代りに作品による思想の主張[#「主張」に傍点]を尊重せねばならぬということであったと思う。文学の思想性は一面に於ては文学の社会的認識・社会的分析[#「分析」に傍点]の重大性ということにも帰着するが、他方に於て思想の主張[#「主張」に傍点]という指導的な積極性に帰着するのである。だからこの問題は一方に於て文学のリアリズム(乃至広範に理解された社会主義的リアリズム)の強調に帰着すると共に、他方一種のヒロイズム(同じく広範に理解された革命的ヒロイズム)の強調に帰着する。そしてこの際、一見、リアリズムの方は分析型に、ヒロイズムの方は主張型に、相応するわけである。
ロマンティシズム・ヒューマニズム・等々もこの角度から見る限りは、分析型に対する主張型の強調ということに帰着するので、勿論積極的な意義のあることだ。併し所謂「ロマンティシズム」(リアリズムに対立する処の)も「ヒューマニズム」も、私には十分納得の行かないものがあるので、つまり分析にも主張の説得力にも不足しているので、今すぐ私はここで之を正確に評価は出来ない。――之と関係あるものとして情熱[#「情熱」に傍点]説ともいうべきものが、文学では相当通用している。その際の情熱ということは恐らく一種の趣味判断によるものらしく、ワクワクするのが情熱でジッとしているのが非情熱だと云われても仕方のないような、多少子供らしい観念だとも思うが、もしそれに意味があるとすれば、情熱もやはり、分析型に対する主張型の尊重ということを云い表わす言葉に他ならぬ、と云っていいだろう。
だが吾々は落ち着いて観察しなければならない。情熱に富んだヒロイックなそして恐らくロマンティックなスタイルの言論を見ると、そこに見られるアトモスフェヤは、何となく文学青年風のものではないだろうか。そこでは一種の弾み[#「弾み」に傍点]が物を云わせているだろう。詩や小説という文芸のジャンルに於いては、作家自身がその場で弾みながらでなしに而も読者に弾みある作品を提供することが出来るが、文学評論になるともうそう甘くは行かぬ。文章が弾む時は筆者と筆者の観念の方も亦弾みで動いている時だ。之はあぶなかしくて見てはいられないのであり、読者はヒロイックな情熱の代りに却って白々しい不安をさえ感じるだろう。論文になればこの点愈々そうなのだ。――もしこういうものが主張[#「主張」に傍点]の論文のスタイルであるなら、吾々は用心しなければならぬ。分析型の代りとして現われて来た主張型が、もしそういうものであるなら、吾々は唯物論的意欲の代りに現われた限りのロマンティシズムやヒューマニズムに用心しなければならぬと同じに、用心することが必要となる。
私は評論としては常に主張型のスタイルを採るべきだと考える。だが主張型は分析型が単純に置きかえられたものであってはならないのだ。なる程問題はスタイルなのだから、思考の上では充分分析に基きながら而も文章の上では分析の操作が現われずに、その結論のような主張だけが現われるということは、可能だし、又それこそ当然な評論的論文のスタイルの約束でなければならぬのだが、併し所謂主張型なるものは、多かれ少なかれ、思考上に於ても分析を軽んじた結果であるらしいのが、多くの場合の事実なのだ。
こうなると主張型のスタイルは、理論的な範疇操作とは独立に、そういうものを時々無視さえして、初めて成立つということになるのであって、
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