論壇なるものの作品表になるわけで、ここには何等の総合の原理もないのだが、而も恰もこうしたものが総合雑誌の所謂「総合」(乃至楚人冠によれば「超総合」)と呼ばれているのだ。無論総合の原理のない総合雑誌など、あってたまるものではないのに。――だが仮にもう少しこの総合振りを親切に見ることにするなら、之はただの総合(つまり雑然たるモザイック編集)ではないのである。とに角所謂総合雑誌は評論[#「評論」に傍点]雑誌なのである。学術[#「学術」に傍点]雑誌でもなければ、報道[#「報道」に傍点]雑誌でもない、評論雑誌なのだ。と云う意味は夫が日常時事の問題に触れながら編集される思想[#「思想」に傍点]雑誌だというのである。今日の所謂総合雑誌=評論雑誌は、大衆雑誌と異って、高級[#「高級」に傍点]雑誌であることを忘れてはならぬ。そのことの良し悪し得失はとに角として、この種のものが事実思想雑誌[#「思想雑誌」に傍点]として読まれていることを、もっと判然と認識しなければならぬ。
 さて之を思想雑誌として見直すなら、総合や超総合の危機の解決に、楚人冠の実際的[#「実際的」に傍点]見解とは少し別な見解を参考する必要を生じる筈だ。ニュースでもよい、時評でもよい、エッセイでもよい、学術論文でもよい、とに角夫が、時代の動き行く「思想」を解明するに足るような内容として[#「として」に傍点]掴まれている限り、そこに立派に総合の原則は見つかる筈なのである。――それが事実上、総合の実を挙げていないのは、筆者にも編集者にも、思想的評論[#「思想的評論」に傍点]を書くという観念が貧弱であるか、そういう訓練が乏しいか、であるからにすぎぬ。思想による統一こそ総合雑誌の総合点になっている。ただそれが徹底していないだけだ。そして論壇というものが何かと云うなら、こうした思想的評論の壇だと答えればいいわけだ。
 そんなことは誰でも判っていると云われるかも知れぬ。だが判ってはいるかも知れぬがこれを確信している者は多いとは云えまい。「論文」という名義にひきずられてただの学術論文めいたものが書かれたり、そうかと思うと「科学」の名にかくれて、科学セクション式に仕切りに仕切られたベア・ファクトが出ていたり、一体思想はどこへ行ったかと云いたくなるだろう。之は論壇ジャーナリズムの歪曲でなければ低落と云わねばならぬ。

   三[#「三」はゴシック体]

 総合雑誌にのる文章が凡て思想的評論の資格を要求されて然るべきだと云ったが、その内でも、思想的評論プロパーとも云うべき文章を、特に他の文章から区別する必要はあろう。之を世間では「論文」とか「巻頭論文」とか呼んでいる。その呼び方は何でもよいが、之が所謂論文ではなくて評論でなければならぬことは、前から云っている通りで、変りがない。評論はただの学術論文とは違って、原則的な時評か又は文明批評の資格を必要とし、テーマの常識上における広範性と新鮮味と衝動的な示唆とを欠くことが出来ぬ。その代り証明や論証のディテールに渡るものは、単に筆者の頭の中で構築しさえすればよいので、一々表現には及ばぬ場合もあるわけだ。
 重役の訓示の類をサラリーマンは「巻頭論文」と呼んでいるそうである。儀式として尊重はするが聴く必要もないし判る必要もないというのである。だが夫は評論雑誌にペダンティックな装飾のように生まの学術論文が載せられたり、通り一片のお題目に就いてのコケおどしの評論が載ったりするからで、つまり思想的評論の資格に於て欠ける処があるからなのだ。――同じく三六年九月号の雑誌の例をとるなら、思想的評論としての資格を持ったものは巻頭論文では、まず矢内原忠雄氏の「自由と青年」(『中央公論』)に指を屈してよいかと思う。『改造』の山川均氏「国家社会主義」は寧ろ電力国営論批判として、巻頭論文よりも所謂時評にぞくすべきものだ。と云う意味は時評とは一定の限られた時事問題に即して、原則的な立言をすべきものだというのであって、山川氏のようなやり方の論文[#「論文」に傍点]こそが、実は時評というもの全般のやり方とならなければならぬというのである。
 この矢内原氏の評論に就いて、私は他ですでに手短かにその特色を指摘したので、繰り返すのを控える。現代に於ける進歩的分子の心情と決意と態度とを取り扱ったものとして、ただの空まわりの一般論ではない。だが之に評論の本質を与えたものは、結局「精神的自由」という合言葉なのである。処がこの肝心な中心観念が残念ながら、どうもただのそこいらに転がっているお説教用の原理と本性上大差がないのだ。日本の社会主義には宗教的信念がないから成功しないのだ、と云わぬばかりの主張に帰する。こういう種類の精神的な裏づけをしないと、論文[#「論文」に傍点]が「評論」にならぬのだとすれば、現下の日本の思想界は、正に評論の危機に臨んでいると云わねばなるまい。
 今しばらく巻頭論文系の文章を離れて、文章に評論らしい資格を与えそうな、何等かの原則を探ねて見ると、ヒューマニズムというものが眼の前に横たわっている。之は文壇のトピックでもあるようだが、それというのも実は論壇評論壇の根本テーマだからだ。その証拠に、矢内原氏の評論の立脚点であるプロテスタンティズム(?)もヒューマニズム主義者のヒューマニズムも、共通のある機能を持っているだろう。と云うのは、このプロテスタンティズム式「精神的自由」も、ヒューマニズム式「ヒューマニティー」も、どれも、唯物論に代位して思想の論理的システムの中核となろうとしている世界観の原則の心算だからだ。
 ヒューマニティーの強調をすぐ様ヒューマニズムというシステムの主張にすりかえることは、論理的に大きなギャップがあることだ。この点をこの際多くの論者は見遁しがちだ。無論、合言葉をすぐ様思想のシステムの軸とすることは、自由だから自由主義、精神だから精神主義、理想だから理想主義、文学だから文学主義、と推論するのが可笑しいように、可笑しいことなのだ。私は「ヒューマニズムの現代的意義」の筆者(『文学界』一九三六年九月)森山啓、阿部知二、そして特に三木清の諸氏に、この間の消息に就いて、より以上の関心を期待したいと思う。ヒューマニズムというスローガン(?)は今は極めてピッタリしている、之を導き出すシステムは併し、ヒューマニズムでは困ることになる、という一つの消息をだ。岡邦雄氏がヒューマニズムに「限定」を要求したのがそういう意味からなら、よく判る。

   四[#「四」はゴシック体]

 思想[#「思想」に傍点]というものから便宜上或る意味に於て政治[#「政治」に傍点]を捨棄すれば、残るものは恐らく教養[#「教養」に傍点]というものになる。ヒューマニズムと自由主義(文化上の自由主義)もこの教養問題に関係があるのだ。作家に就いてもその教養が問題になっている。ここに最近の評論壇のトピックの一つの代表的な特色を見ることが出来る。
 桑木厳翼博士が「教養としての哲学」を説いているのも、学術と思想、科学と教養、とを区別しようという、評論[#「評論」に傍点]の意義の強調かと思う。処が教養とは何かと云われると、之は決してそう簡単には判らないものだ。少なくとも普通教養と考えられているような教育のことでもなければ、又人格主義的な自己完成のことでもない。ましてディレッタンティズムとしての教養のことであっても困る。ディレッタンティズムには思想のシステムがないのがその特色だ。思想が増殖しメタモルフォーゼを遂行して行く体系がない。だがそれがなければ本当の教養とは云えまい。教養が今日問題になるのは之を社会的常識[#「常識」に傍点]や社会的関心[#「関心」に傍点]と結びつけるからだ。少なくともそういう常識・良識や関心・興味・によって量られる処の或る実質を教養という言葉によって仮定するのである。処でこの教養という実質が含むものの一つが、「感覚」だ。実際、最近如是閑氏等によって感覚の問題が割合重大視されて来つつあるのである。
 三六年九月の『日本評論』の「文章漫談」、同じく『中央公論』の「ラジオ文化の根本問題」、同じく『セルパン』の「日本詩の特殊な存在理由」、どれも感覚と教養の、又特に現代日本人の感覚と教養との、問題だ。「ラジオ文化の根本問題」によると、「直接言語による有力なスピーチ」という原始的な心理的効果が、非常に進歩した機械を手段として表現されるのが、ラジオの感覚的特性だという。だがその結果、ラジオ時代の社会人はラジオの類の「複製」表現に慣らされることによって、「原形」表現に基く純正な感覚を損われるだろう、というのが氏の一つの持論である。
 だが之は何となく老婆心の感がなくはない。機械的複製表現も、それに固有な新しいセンスを養成発育させるという事実を、見落してはならぬばかりでなく、ラジオ文化に就いては夫の大衆的普及の方が大衆の感覚の問題から云ってもっと大切だし、同時に又現在のラジオ放送機構によって大衆の思想発達が如何に歪められつつあるかということが大衆の感覚上の重大問題だ。之に較べて複製表現による感覚の変質や粗悪化というような問題は、それだけならば、とり越し苦労といわねばなるまい。つまり芸術的感覚だけに眼界を限るからで、之を広く思想的・政治的な社会感覚にまで推し及ぼして日程に上らせることが必要だろう。――他の二つの文章は、現代日本人の文体に就いて、生活の感覚を説き、古来の日本人の詩歌に於ける「平俗な実感」を説いたもので、多少社会感覚に及んでいる。
 感覚――教養――思想という側面から日本人の生活の特色を明らかにしようという企ては、この頃の流行である。杉村広蔵氏はこの特色を「不連続性の思想様式」と名づけた。与えられた国民性の何かの特色をハッキリさせることは勿論必要な仕事だが、併し元来感覚や教養や思想はただの「事実」とは別なものだ。それは矯正され、淘汰されねばならぬ一つの「課題」なのだ。日本の特色をどんなに明らかにしても、それだけで日本人は決して偉くはならぬ。だが今日の日本論者は必ずしもそうは考えていないらしい。感覚や思想には色々のタイプがあろう、だが、それを貫くロジックは一義的に決定されねばならぬ唯一性を有つのだ。
[#改頁]

 8 評論に於ける分析型と主張型

 或る時或る会合で和辻哲郎教授に会った。話しが偶々有名な某大学総長の性格に及ぶと、教授が云うには、あの人は自分では何物も主張しない人で、それがあの人の特色だと説明した。そして「あなた方には一寸真似の出来ないことですね」とつけ加えた。あなた方というのは多分三木清氏や私などのことであったと思う。
 これは仲々面白い言葉だと私は思った。なる程学者という種類の人達は、あまり主張をしようと欲しない。早急な結論を避け、事を慎重に判断するという習慣が、恐らく職業的になっているためだろう。その習慣がやがて何かを主張しようとする意欲を失わせるものでもあるらしい。職業的に不徹底な専門家には往々却って専門外の事物に就いて極めて非科学的な主張をしたがる人も見かけなくはないが、夫はこの職業的習慣が偶々首尾一貫していないまでで、充分に「良心的」な学者は、何ごとに就いても主張という形のことは好まない、という風潮のあることは否定出来ぬようだ。之は一概には貶せないが又一概に感心したり賞めたりすべき性質のものではないと思うが、それは後にしよう。
 併し和辻教授が述べた処は、例の総長の学者としての性格というよりも寧ろその実際家としての手腕のことだったのである。考えて見ると実際家も亦、学者とは別な理由で、主張するという態度をあまり好まない。所謂実際家は本当を云えばいきなり実行するか、もし実行出来なければ口にも出さぬという種類の人間だと考えられて来ているのであって、とに角主張ということにあまり価値を置かない人種のことである。少なくとも東洋的乃至日本的な観念によると、実際家とはそういう不言実行の人を云うらしい。ヨーロッパ的実際家にはこの点必ずしもあて嵌らないので、ファシズムの英雄政治家達に
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