ない純文学的精神は、何かうら切られたような失望を吾々に与えるのだ。――社会人は、社会現象の論理と心理に立ち入った文学的[#「文学的」に傍点]検討、出来るならその文学的[#「文学的」に傍点]解決、を文学者から期待している。社会現象のモラルを作品や評論家から聞きたいのだ。しかも何も修身的な課題である婦人の問題や家庭の問題や或いは転向問題ばかりがモラルではない、社会そのものの動きが、文学的には(理論的には別だが)道徳的[#「道徳的」に傍点]本質のものなのだ。
さてこう考えて来ると、社会時評乃至社会評論なるもののもつ文学的な本質は大体見当がつくだろうと思う。社会時評がただのニュースや報告と異る点は、社会現象の裏に、単に新聞常識的な皮相面を見出すだけではなく、この皮相面を克明にはぎ取ってそこに文学的な道徳的脈絡を発見するということにある。個々のまたは一群の経済的・政治的・軍事的・市井的・また文化的・社会現象を、その論理と心理とを通じて、モーラリスト的視角から分解結合することが、社会時評の文学的本質なのである。これは常識的道徳がもつ既成観念や固定観念や願望的な理想や、そうした社会的迷信を破って、リアリスティックな視角に立つモラルを摘出することだ。社会時評のリアリズムがニュースや報道のリアリズムと異るのは、後者が事件の背後に特種を探すに反して、前者は事件の背後にモラル=道徳を見ることだ。社会時評はこの意味で一種の風俗文学[#「一種の風俗文学」に傍点]だと云ってもいいだろう。
尤も文学というと第一に小説という様式が考えられがちだが、それから見ると社会時評が文学的本質だというのは如何にも唐突のように聞えるだろう。だがエッセイも亦歴史的に重大な文学の様式であり、特にクリティシズム(批評)文学の一つをもなすものであることを思い出すなら、社会時評という一種のクリティカル・エッセイ[#「クリティカル・エッセイ」の「・」を除く部分に傍点]を文学的仕事にまで深め又は高めるということは、実は大した思いつきでもないのだ。前例は文学史上沢山あるだろう。
普通[#「普通」に傍点]の小説の特色の一つはフィクションにあるが(歴史小説の類は別に考えるとして)、エッセイの特色は之に反してそのアクチュアリティにあるだろう。いずれも夫々のリアリティーを有つのではあるが、エッセイが身辺的なもの(之が多分今日の「随筆」だろう)であれば、リアリティーは個人的なアクチュアリティーであるのだが、エッセイが社会的なものであり、即ち社会時評であれば、リアリティーは社会的なアクチュアリティー、即ち社会現象に他ならぬというわけだ。
五[#「五」はゴシック体]
社会時評、夫は社会的アクチュアリティーをモラルと見るエッセイだが、このエッセイは随筆的な身辺エッセイではなくて、正に社会的風俗的なエッセイだ。そこから一つの規定が導かれるのであるというのは、このエッセイでは対象となる現実が有っているモラル、即ち心理と論理、の内、特に必ず論理を表面に持ち出さねばならぬという点である(モラル=道徳とは他でもない心理と論理との相乗積のようなものだ。そしてそれが社会的に現われたものが風俗なのだ)。なぜというに、社会に於ては心理よりも論理の方が前面に出て来るからだ。そこで社会時評はただの社会事象観に止まらずに、社会に対する時事的(アクチュアル)な評論・批評・批判[#「評論・批評・批判」の「・」を除く部分に傍点]としての社会時評になるわけで、そして之が(文学様式としての)クリティカル・エッセイに属さねばならぬ所以なのである。
かつて横光利一は文芸評論家を論理的なグループと心理的なグループとに分けていた。心理的な批評家を小林秀雄達とするのは一応判るが、心理と論理との間を飛びまわる批評家を青野季吉と大森義太郎とだとするのはよく判らない。第一正にこの点で青野と大森との間には大きな距りがあるからだ。大森義太郎は論理組に這入るのではないかと思う。処がその論理組は誰かというと、谷川徹三・三木清・それに岡邦雄や私だという。併し今の論点から見て、谷川と岡との間には又可なり大きな距りがある。大森と谷川では殆んど他人のようなものだ。で横光の例の区別は結局単に文壇の内と外というようなことが動機になっているのではないかと思うので、そうでないと好く判らない分析だ。
或る匿名批評家は論理的と心理的とのこの区別を、社会的観念の這入る這入らないの区別だと見ていたが、横光自身の区別についての理解としてそう都合好くは行かぬと思う。併し私に云わせれば、今の場合結局それ以外に心理と論理との区別はあり得ないだろうと考える。――でこういう意味に於て、社会時評は他ならぬ最も論理的[#「論理的」に傍点]な評論であり、そして評論が一般に一つの文学の様式である以上、之は正に最も論理的な文学的批評だということになる。それは文学としてのクリティカルな(且つペリオディカルな)エッセイということである。
この論理はしかしただの論理ではない、モラルの一契機としての論理である。そして心理とあざなわれた論理だ。一般に評論は多少とも夫をもっているが、特に社会評論がもっている風刺的性質やパラドックシカルな特色は、ここから来るのである。つまり社会のアクチュアリティーが有つ特有なリアリティーが、モラリスティックに反映される必然の結果がそうなのだ。
それから導かれる社会時評の文学的特色は、第二に思想体系[#「思想体系」に傍点]がそこに著しく透けて見えるということだ。豊島与志雄の或る文芸時評によると、思想家や理論家の世界はいくらでも書き入れることの出来る地図であり、いくらでも家具を備えつけることの出来る室だという。そうかも知れない。しかしそういうことが果して氏の云っているように常識[#「常識」に傍点]というものになるだろうか、また、文学は恰もそういう常識に安住しようとしないところのものだ、ということになるらしいのは、どうしたものだろうか。私は論理というものをモラルの一つの契機に数えて来た。そのモラル自身には常識とその超克としての文学とが区別されるのである。つまり論理にも「常識」的なものと「文学」的なものとがなくてはならぬ。そして今私は正にこの意味での文学的[#「文学的」に傍点]論理、文学的[#「文学的」に傍点]思想、文学的[#「文学的」に傍点]評論、そして文学的[#「文学的」に傍点]社会時評、を主張しているのだった(「常識」のもっている意味の二重性は別に注目されねばならぬ、同時に「文学的」であることの意味の二重性もまた)。――この文学的[#「文学的」に傍点]社会時評は、恐らく一種の風俗文学[#「風俗文学」に傍点]に属するだろうと思う。
[#改頁]
7 思想的評論について
一[#「一」はゴシック体]
論壇時評は最近、色々困難に遭遇しつつあるように見える。論壇時評なるものが何であるかというようなことは、しばらく措くとして、とに角その月々の雑誌や新聞や又新刊書に現われている論説を批評することは、特にそれが新聞に載る場合、一つの大きな制限にぶつかるのである。今日の新聞はその政治的意見の発表が極めて窮屈であることは誰知らぬ者もない。新聞は雑誌よりも大衆的な普及性を有っているだけに、益々世間がうるさいのだ。処で政治思想を回避しながら、時代の論説を論じようとする程、困難な仕事はあるまい。
之が第一の困難だが、併し最近論壇時評に就いて指摘されがちな困難は不思議にも、必ずしもこの第一の困難ではない。もう少し安っぽい論拠から来るものである。何かと云えば、雑誌には色々の専門科学上の論文が載るのだから、之を一人で批評して了えるような人間はあり得ないだろう、だから論壇時評は成り立たぬ、という理由だ(専門の「科学」が評論[#「評論」に傍点]などされてはたまらぬというアカデミシャンの独りよがりにも通じている)。之は確かに完全な嘘ではない、実際そういうことが原因で、論壇時評は評論家があまり書きたがらぬものとなっている場合もあるようだ。筆者が書きたがらぬという理由も含めて、論壇時評をやめにした新聞もある位いだ。
だが実は之は可なり浅はかな推論なのである。一体「専門」の論文が評論雑誌にそうやたらに載るということが多分間違っているのだ。評論雑誌は元来学術雑誌ではないのである。又仮に大学の講義や学会雑誌の「アルバイト」のような「論文」などが載っていても、之をそういうものとして相手にはしないで、「評論」という正金に換算して評論するという見識さえ持てば、困難は大したものではないのである。その換算の権利は次に説明するが。
それよりも、困難の名に値いするのは、論壇という現象そのもののあやふやな性質にあることを注意したい。文芸時評は今迄の処要するに文壇時評であったが、この文芸時評=文壇時評と、論壇時評とを較べて見れば、それが判る。文芸時評ならば、文壇を中心として(所謂「局外」からでも矢張り同じだ)、書くことが出来る。そしてその時々の一連のトピックというものがある。処が論壇というものが、元来文壇のような意味ではどこにも存在していない。論壇人(?)という者も極めて少ないし、論説という一群が創作欄のように共通の特色を以てどこかにハッキリとして輪郭を持ちながら存立しているのでもない。而も論壇のトピックというのは、実は論壇のものではなくて単に社会に於ける生のトピックに過ぎぬ場合が多い。処でそういう現象を無理に一からげにして、便宜上論壇と呼んでいるのだから、之を相手にする論壇時評は、実際どこから手を付けてよいか、当惑せざるを得ないわけである。
杉村楚人冠は月刊総合雑誌が一方において月刊単行本の観があり、他方に於て月刊時事新聞の観があるのを、総合雑誌の「超総合」の性質が齎す危機だとし、週刊と季刊とに分離するのが今後の着眼点だろうと説いている。一応尤もであるが、併し一方月刊単行本であり、他方月刊時事新聞でもあるという性質こそ、今日の日本の総合雑誌の「総合」雑誌である所以であって、それが単行本でも日刊新聞でも充されない読者の要求を充すというので、之まで売れて来ているのである。実際、単行本の多くは全く時期性を欠くし、日刊新聞では要約と見透しを欠いているからだ。
原則論と時事論とが同居していることが、総合雑誌の危機の原因ではなくて、その総合[#「総合」に傍点]なるもの自身に何の統一も中心もないことがこの危機なるものの本質だ。そしてこの危機は、論壇なるものがあやふやな存在現象であることと、直接関係のあることなのである。
二[#「二」はゴシック体]
例えば一九三六年の九月号なら九月号にのせなければ時宜を失するトピックがある。取引所惑乱問題やオリンピックの話が之である。又九月号に載せておく必要のあるトピックもある。スペイン反乱問題や電力民有国営論などがそうだ。『改造』・『中央公論』・『日本評論』・『文芸春秋』の四大総合評論雑誌は、無論ぬかりなく之を夫々取り上げる。つまり之は新聞記事の批評的・紹介的・要約的・なしめくくりに他ならぬ処の完全なニュース乃至時評ものだ。
と思うと例えば一九三六年の九月号で見ると、「現代社会学の動向」(『改造』・本田喜代治)とか「不連続性の思想様式」(『中央公論』・杉村広蔵)とか「我国に於ける学問の変態」(同・佐藤信衛)とかいう、今年の九月でなくてもよいような、多少又は極めてアカデミックな議論や報告がのる。創作欄や中間物は除いて所謂論壇を構成しそうなものだけ見ても、まずこの両端があるのである。両者の中間にあるものとしては、一つには「自由と青年」(『中公』・矢内原忠雄)や「統制経済と国家権力」(『改造』・石浜知行)や「資本主義と農業」(同・向坂逸郎)などの一群と、二つには如是閑のもの(「ラジオ文化の根本問題」――『中公』・「文章漫談」――『日本評論』)の類に這入る他の群との区別がある。
こうして「論文」やエッセイやクリティックをつきまぜて一束にして考えたものが所謂
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