一九三五年頃の事件であるが、確か南京の領事館であったが、そこの日本人館員が行先不明となったという出来事を、読者は記憶していることだろうと思う。日本側では之はテッキリ支那官憲乃至支那排日組織の行為だというので、忽ち駆逐艦を急行させたという話しだった。ところが案に相違して当人は朦朧たる精神状態で郊外の山中にかくれているのを、無事支那官憲によって発見されたのである。従って之は遂に紛議のキッカケにならずに済むことが出来た。
それはそれでいいのであるが、しかし当時或る新聞紙は、この館員が山中に逃避するまでの心理過程を、まことしやかに書き立てたものだ。それによると彼は元来哲学的(?)な性格の持ち主であったが、失踪の夜は何等かの冥想にふけって家を出たところ、星の黙示だったか月光の神秘だったか知らないが、彼を誘ってついに山上へとつれて行って了った。彼は山を登るほどに、段々現世からの離脱を快く感じ出したので、遂に山中にかくれて世を厭うにいたった、という筋書きである。
こんな馬鹿げたことを誰も本気にする人間はいないというかも知れないが、しかし、これが堂々と新聞の社会面に段抜きで押し出されるのを見ると、こういうものを「常識」として受け取る読者も少なくないのかも知れない。哲学――冥想――星――月光――神秘――遁世、こういう一連の常識的連絡は、今日でもなお床屋的社交界などでは通用するのかも知れない。いやその新聞の記者や編集者は、確かに通用すると考えたに相違ないのだ。
無論現代は藤村操時代ではないから、今日の第一線の常識としてはこんなものは通用しないのは断わるまでもないのだが、問題は新聞の社会面などに現われる、社会現象に対する「常識」的な理解や説明や批評ということにあるのである。
両親と妹とが共謀して日大生を謀殺したというセンセーショナルな事件がかつて起きた。社会では両親はいつも息子や娘を可愛がるものであり(従って子供は親孝行をする義務があるというところへ行くのだが)、妹は女で年下なのだからいつも兄を大切にするものだと決めてかかっている。つまり家庭は少なくとも相愛し合った親子関係が中心で出来ていると仮定している。そこでこの事件は極めて大きなショックを、世道人心に与えたわけなのだ。
家庭についてのこの常識は、実は認識ではなくて、願望や理想やまたは社会的要求に過ぎないもので、この常識を否定するような事件は恐らく殆んど毎日起きているだろうから、現実の常識的認識としては元来通用しないのだが、現実と要望とを混同することなどは、常識にとっては朝飯前のことだ。
新聞によると、ところが係りの検事もこの事件の反常識的な心理を解し兼ねていたところ、妹が検事の手許にまで手記を提出に及んだので、これを一読した検事は、これある哉と手を打ったということである。どういう手記かというと、自分の家の血は乱れていて、父は酒呑みで放蕩で、母は何とかで、かねがねこの血統を断ちたいと思っていたので、父母から謀殺の相談を受けたのを機会にそれを引受けた、というのである。全く如何にも深刻[#「深刻」に傍点]な動機であるように聞える。血の悲劇だ、インテリ娘の煩悶が織り込まれている、というわけで、この事件の理解は一段と深められたという風だ(一般に手記のインチキ性については別に)。
二[#「二」はゴシック体]
しかしこんな馬鹿々々しいことはこの事件の心理にも動機にもなり得ないのである。少なくとも主なる筋書きとは関係がないのだ。こんな内容の空疎な血の形而上学や、遺伝の信仰は、犯罪行為の美文的自己解釈にはなっても、何等の真理も持たない。こういう空々しい心理的説明で、何か事件の真相をつかんだと考えるような検事(もし新聞のいう通りなら)も検事なら、それをそのまままことしやかに書き立てた記者や編集者もどうかしている。而も新聞が之をドストエフスキーやトルストイによる検察や裁判の文学的検討に比較するにいたっては、完全なナンセンスと云わざるを得ないだろう。
血の迷信は少しも深刻な哲学でも文学でもなくて、実は極めて皮相な空文句なのである。ヒトラーがドイツの愚民を如何にこの血の迷信によって引きまわしているかを見れば、それはよく判るだろう。例えば癩患などは絶対的に遺伝するものという常識が一頃抜くべからざるものとなっていたようであるから、そういう場合には血の迷信も犯罪の心理的動機としては必然性があるかも知れないが(例えば男三郎の場合)、呑んだくれだとか放蕩だとかいうことの生理的遺伝という観念が、犯行の絶対的な動機になるというようなのは、何といっても造りごとといわざるを得ない。もしそうでなければ、もう一歩踏み込んだ特別な事情がそこに条件となっているのでなければ嘘だと思う。
私は何も例の妹娘が故意に嘘の手記を書いたとか何とかいうのではない。彼女は自分でも思わないような心にもないことを考えそうな事情におかれているわけだから、大いにそういう嘘を書く必然性を持っているのだ。即ちその意味で彼女の書いたといわれる手記は決して嘘偽りではないと考えて見当違いではない。だが恐らく刑事的に嘘ではないが、文学的には全く嘘だ、と私はいいたいのである。――尤も一寸ばかり新聞に載ったことを元にして、こんなことを兎や角いっても無意味だといわれるかも知れないが、しかし私の問題は、抑々世間の常識をあて込んでいる新聞そのものにそういう載り方をするということ自身にあるのである。その報道が本当でも、間違っていても今の問題の例としては構わないのだ。
こういう常識の嘘は最近特に新聞紙上に目立つのである。というのはセンセーショナルな社会事象が発生する毎に、常識はショックを受けて、その常識的にまことしやかな嘘を放射するのである。他の例としては若妻殺しの夫の問題だが、これも自分が過失で殺したのを犯罪学的に外部から侵入者の行為と見せかけたものだと仮定すれば、恐らく却って常識的[#「常識的」に傍点]に理解出来るだろうことを(真相は勿論私などの断定の限りでないが新聞に現われた限りの資料を基にしてそういうのだ)、悪く常識的[#「悪く常識的」に傍点]にひねくり回そうとするものだから、容疑者の夫は新聞記者によって性格異常者や猟奇的犯罪性の所有者やにされて了っていた。探偵小説的興味を惹いていたのは、容疑者が自白しないので真相がハッキリしないからという純探偵的な理由からではなく、彼が殺人小説の耽読者であったとか何とかいう猟奇的な理由からのようだ。ここに常識は可なり思い切って錯誤をやっているのだが、世間の常識はウッカリしているわけだ。
この事件でも、またぞろこの容疑者が私生児であったというような、結局例の血の迷信に基くものへ持って行こうとする。常識はいつでも同じ試みを、退屈でも反覆するものだ。
三[#「三」はゴシック体]
社説などは特別だが、少なくとも社会現象の一等日常市井的な現われを取り扱う社会面は、極端にいえば、一種の娯楽のページなのである。別に特殊な社会的関心を自覚していなくても、普通の読者が誰でもまず第一に見たがるのはこの欄なのである。之は明らかに一種の娯楽面であることを意味している。そして、同時に考えなければならぬことは、普通の読者がまず眼を通そうとするもう一つのものが連載小説だという点である。ここに新聞小説と社会面との或る連関、従って又新聞小説の一種の娯楽的性質が注意されていいと思う。
どうせ新聞小説は通俗文学や大衆小説だから、娯楽のようなものに過ぎない、という意味ではない。むしろ逆に文学者こそ社会の日常非常の現象の最も行き届いた批評家であり、もし仮にそういう文学者の作品をも通俗文学や大衆小説と名づけるならば、文学はすべてそういう意味での通俗文学や大衆小説でなければならぬ、というべきだろうと思うのだ。
純文学の神様と見做され、純文学青年の偶像となっているらしい横光利一も、実はそういう点で極度に社会的に、従って(今いった意味での)通俗文学乃至大衆小説にはいる作品を書いている(例『花花』)。この点から見れば菊池寛が著しい社会面的事件から多分のヒントを得ているらしいのと、あまり区別はないだろう。
これを娯楽といって了うのには無論語弊がある。だが大事なのはこの娯楽が他の種類の娯楽と違った社会現象の出現から生じる娯楽だという点だ。というのはこれがやがて井戸端会議の内容にもなるしサラリーマンの話題にもなる。省線や床屋での会話や議論の種にもなるのだ。この娯楽はすぐ様評判や批評にまで発展する種類のもので、実は社会人の誠実な社会的関心のごく無自覚な皮相面にほかならないのである。大衆性乃至通俗性(この言葉を使うのは随分と厄介な用意が必要だが)をもつべき文学(今のところ小説)が、だから一種の娯楽の意味を有つということは、文学の冒涜でも何でもなくて、文学が如何に社会人の社会的感覚に接着しこれに食い入っているものであるかを、或いはそうあるべきものであるかを、告げているにすぎないわけで、ただ社会人のこの社会的感覚そのものがごく皮相面にとどまる限りは、その文学は単なる娯楽の対象に止まるわけで、実際上からいってそれだけで新聞小説は充分多数の読者を有つことが出来るのだ。ただこのおなじ小説も、社会人の社会的感覚が自覚的な社会的関心にまで発展し、社会に対する誠実な省察にまで深度を増す時、やがて立派に文学的な対象物として要求される、というわけだ。
これを別の言葉でいい表わせば、社会面に現われる新聞記者的「常識」は、連載小説などにおける文学者的「モラル」(これが最高の文学的モラルだといわぬが)に直接連続しているのである。真のモラルは一般にそう考えられている通り、所謂常識的なものの否定克服だろう、だがモラル(もっと気取らずにいえば「道徳」のことでもっとアカデミックにいえば「倫理」という名もある)は、社会感覚・社会意識を離れてどこにも成り立つことは出来ない。そうでないようないわゆる「モラル」という言葉は、往々愛用されないではないが、それは一つ覚えからくるナンセンスな方言の典型にすぎない。でそうすればモラル=道徳も元来常識なるものから独立して成り立つことは出来ない。常識こそ一つの低級なモラルであり、モラルこそ新しい常識への進出だ。常識を否定するのにはまず常識から踏みはじめねばならぬ。――こういう意味において文学は社会人にとって、いわばごく健全な[#「健全な」に傍点](常識は古来「健全」なものと相場がきまっている)娯楽性をもっているのが当然でなくてはならぬ。文学の面白さというものの一つはこの社会面的なものにあるのかも知れない。
四[#「四」はゴシック体]
いうまでもないことだが、帝人事件などについては私は何等関係もない。にも拘らず私は人一倍これに興味を覚えた。なぜかというと、それは立派にモラル=道徳の問題だからである。収賄や贈賄が悪いとか、検事の人権蹂躙が人道に反するとかいう意味ではなく、金融資本主義下における金融資本家やその番頭達が、その資本の番犬としての技術的使命を果すためには、如何にブルジョア道徳そのものにショックを与えないではおかないか、またそれを無理にも処罰しようとするブルジョア法律自身が又、如何にこの同じブルジョア道徳に同じくショックを与えずにはおかないか、というような、この社会における活動的支配者のモラルの矛盾に私は興味をひかれるからだ。
堂々たるブルジョアや要路の大官が法廷で泣涕したりするだけでも、単にいくじがないとか態を見ろとかいっては済まされない問題を含んでいるので、正に彼等のやがて又この支配者社会の、モラルの道徳的断層を法廷の舞台にさらしたものにほかならないのである。私はまだ和田氏の『人絹』を読[#「読」は底本では「続」と誤記]んでいないから、この作品そのものについては何もいえないが、少なくとも、こういう種類[#「種類」に傍点]の作品が示唆するところの、社会現象と文学的モラルとの不可欠の連関の要点を積極的にハッキリつかもうとし
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