」の「認識」から出発するという日本の外交政策が、ブルジョア外交的(?)なオッポチュニズムに帰着するのであったが、一体こういう「現実尊重」のオッポチュニズムは、一般にファシズムの理論上又政策上の論理の特色だったのである。処が一方、流行を追うという意識は、全くこういう現実の尊重をモットーとする日和見主義に立っている。女のスカートは現在長くなったから長い方がいいのであって、少し前に馬鹿々々しく短かかったという過去の事実にはお構いなしに、長くなっていいのである。
 で、ファシズムは女のスカートと同じオッポチュニズムに立っている訳で、そこからなぜファシズムがこんなに「流行」するかということが判るだろう。与えられた現実に匍匐的に追随する日和見主義がその面目である流行には、何も別に理屈があるわけではない。現実の前には理屈などは抜きにするということが、流行の、オッポチュニズムの、特有な唯一の「論理」なのである。ダラシなく長くてダブダブしているファシズムの不粋なスカートが、不粋なりに、理屈なしに、即ち理性と関係なしに、今日は流行する所以である。
 流行には無論何にも方針[#「方針」に傍点]はありはしない。合理的な原則はない。だから又何の理論もないのである。誰も流行に節操を要求するものはあるまい。ここにあるのはただ風俗だけで、而も風俗は、風俗自身としては、将来の合理的な見通しの立たないものなのである。仮に風俗に就いて予言が出来るとしても、夫は景気変動の予言以上に、機会主義的なものだろう。だから論理という首尾一貫した方針ほど、ここで無意味で邪魔なものはあるまい。で、こういう理由から、日本のファシズムなどは未だに筋の通った哲学を持てないのである。論理のない哲学などというものは、仮にどんな博学(?)なものでも、ただのお喋べりに過ぎないからだ。
 ファシズムの流行と無論理とが、その現実主義的機会主義から来ていることは、この位いにしておいて、話しを所謂自由主義に向けることにしよう。云うまでもなく自由主義はファシズムの反対物で、ファシズムは自由主義の敵だと、普通は信じられている。処が今まで云って来た私の話しのコースから行くと、どうもそうではないらしいという結論さえ出て来る。
 現代のわが国の自由主義者達が、実は政治上の自由主義者ではなくて、云わば文学的[#「文学的」に傍点]自由主義者だということは
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