、非常に大事な規定だと思う。かつて学芸自由同盟というものがあったが(私もその一員だったということを念のために断わっておく)、そのメンバーの大多数が文学者や文士や芸術家だったということは、意味があるのである。
処でわが国のこの文学的自由主義者は、大抵広い意味に於けるヒューマニズムから動機づけられているようだが、客観性を有ったモーラリティーというような論理[#「論理」に傍点]はないけれども、いずれもモーラリストとしての資格は備えている、ということがこの自由主義者の特色だ。処がモーラリストとは結局一種の懐疑論者に他ならないのである。だからここからニヒリスト的な自由主義者も出て来る理由があるわけである。
文学的自由主義者達は、自分のこの懐疑論的な本質を相当よく自覚しているらしく、その証拠には、彼等は意識的無意識的に、一身の利害に関する実際的行為をする段になると、機会主義的な現実主義者となって立ち現われる。懐疑的な人間は、実際行動に際しては、外の一切の価値評価が消去されているものだから、結局最も俗物的「現実」だけを認めることになるからである。
で、元来日和見主義である自由主義者達・特に文学的自由主義者達は、仮にも実際問題を裁決する必要に逼られる場合には、意識するとしないとに関係なく、積極的にオッポチュニストとなるという法則を持っている。このオッポチュニズムの論理から、自由主義の流行風俗とその無論理とが出て来るのである。――で、この自由主義だってファシズムと全く同じいオッポチュニスト的論理に立っているのである。自由主義があんなに流行って、而も自由主義の哲学が未だに出来ないという点から見ても、この種の自由主義がファシズムとその風俗振り流行振りに於て少しも違わないものだということが判る。違いはただ、自由主義の風俗として流行っている文学的スカートの方が、ファシズムのものほど不粋でなくて、その好みが多少エロティックかも知れないという点だけだ。
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(本章は一九三四年度に書いたものだ。その後ファシズムと反ファシズムの対抗関係が、日本で著しく発展して来たことを、追加しなければならぬ。特に自由主義と反ファッショ人民戦線との関係は、改めて検討されるべきである。)
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6 風俗文学としての社会時評
一[#「一」はゴシック体]
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