は無用だというのであって、決して力[#「力」に傍点]の前には論理は無用だというのではなかった。日本が満州国建設に当って、力を用いたということが本当だとしても、この力が少なくとも日本の強力外交の論拠になっているのではないのであって、その論拠はあくまで満州帝国の現存という事実[#「事実」に傍点]の内にあったのである。その事実がどういう力によって結果したかとか、力によってではなくて満州民族の観念的な総意によって結果したのではないかとか、いう過去のプロセスの問題とは無関係に、現在の事実が論拠なのだ。
だからここに物を云っているのは、決して力[#「力」に傍点]の哲学ではないのであって、正に事実[#「事実」に傍点]の哲学なのである。力という概念はプロセスとは無関係に取り上げられた「事実」という結論[#「結論」に傍点]から、一切の言論を出発[#「出発」に傍点]させるというやり方の哲学なのである。一般に日本のファッショ哲学も亦、決して力と云ったような抽象的な範疇を原理としないのであって、正に「アジアの現実」と云ったような具体的(?)な事実の認識を、その出発の原理としている。だから、日本のファッショ的動向を、力の哲学や力の論理を以て解釈しようとするのは、もし誤解でないとすれば思いやりのない一本調子のそしりを免れまい。
でこう考えて来ると、日本の強力外交の哲学は、実に強力哲学どころではなく却って、一種の日和見主義の哲学であることが判るだろう。与えられた事実を無条件に「認識」して、そこから出発しようとする論理は、経験主義とか現実主義とか呼ばれているのだが、それが取りも直さず日和見主義そのものになるのだ。こうなった以上過ぎ去ったことは問わないとしよう、新しい事実が出て来たら又考え直して見ようではないか、いずれにしても理屈は、匍匐しながら事実の偶然な展開に追従して行きさえすればよい、というのがこのオッポチュニズムなのだ。
少なくとも従来のブルジョア外交は、皆このオッポチュニズムに立っている。こうした消極的で無方針なブルジョア的外交を拒否して厳然たる指導原理に立脚する筈であった日本の強力外交の大方針が、依然としてこうしたブルジョア外交と軌を一つにしなければならぬということは、一体何としたことだろうか。
四 ファシズムのスカートと自由主義のスカート[#この行はゴシック体]
「事実
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