と、何か倫理学か道徳学の対象だと思っている。甚だしい場合になると道学者のお説教にしかならないものと考えている。その位い現代の日本では実際に道徳というものが変なものになっているのである。
そのくせ本当は、道徳位い世間が拘泥しているものはないのだ。自分の社会的な立場が行きづまると、すぐに明鏡止水と云ったような心境道徳を示すことによって問題を紛らせようとするし、そうかと思うと他人の私的行動に一々お節介をしないではいられない道徳癖が日本人の持病である。自分の長男を米国風に教育しようという意見を発表すると、忽ち某方面から苦情が出て、次男以下には国粋教育を施さねばならなくなる。と思っていると、思想上の節操(即ち党派性)を惜しげもなくなげ捨てることが、却って良心的なことにもなっている。
私は嘗て、道徳に習慣風俗という側面と良心意識という側面とがあるという極めて判り切った事実を述べたことがあるが、現代ではこの両側面が実は完全にバラバラに分裂していて、道徳的な統一が成り立ち得ず、従って道徳が壊れたままで未だに出来上らないのだが、それにも拘らず、事実上、この二つの側面が妙な様式で密通している。習慣風俗は自然的にそれに相応した良心意識を生み出す代りに、却って単に良心意識を強要することがその機能になっているし、良心意識の方は習慣風俗を批判する代りに、習慣風俗におもねる事がその義務になっている。
要するに現代では、社会の認識[#「認識」に傍点](之は無論科学的でなければならない筈だ)を、直覚的な形で代表するという意味での、本当の道徳意識は存在しないのであって、従って道徳というと、何かお説教じみた不真面目な内容のものだとしか考えられないのである。
普通、道徳は品行問題と結びつけられて世間の興味を惹いている。或る尺八の名手の婦人関係は、彼の品行に関係するが故に非常にセンセーショナルな道徳問題となったが、之に反して文士の賭博は直接彼等の品行とは無関係なので、道徳上の問題としてはあまり厳粛に取り上げられない。笑って済ませる事件だと考えられているのが事実である。
だが、此の事実には相当の真理があるので、之は道徳が要するに節操[#「節操」に傍点]に帰着するという一つの知識を示しているものに他ならない。尤も節操というものをウッカリ考えると、つまる処男女の肉体関係以外の問題ではなくなるのだが、之は
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