イ』に影響を与えたと云われている。だがその影響は少しも内面的なものではない。それから又、もしシェークスピアがモンテーニュから影響されたとしても、思想史はシェークスピアをモラリストとは呼ぶまい。それ程モラリストという規定は制限されたものなのだ。処がモラルは、このモラリストからの伝統を参照しないでは歴史的に理解出来ない用語である筈なのである。
だが一つの言葉を広く深い生きた意味に使おうとするのに、文学史の先生のように昔からの腐れ縁に執着することは無論馬鹿げたことだ。今日の「モラル」という言葉は確かにもっと自由に新鮮なイメージを伴って使われているだろう。処がそれにも拘らず何となくそれが又「モラリスト」臭く「エッセイスト」臭いのだ。往々、モラルとは心理のことであり、又人間学的なもののことだと考えられているのである(内部的人間学[#「内部的人間学」に傍点]はモラリストの一理論体系だ)。
もしそうだとすると、文学のモラルと云えば、心理主義に於ける倫理のようなものになったり、内省的なヒューマニズム文学のことになったり、し兼ねない。或いは世界が何かモラルというもので出来ているかのようなモラリズム文学のことにもなり兼ねない。だからもしモラルを性的な本質のものだとすれば、汎セクシュアリズムともいうべきものになる(之は今日日本で流行っている)。――人生は生産機構から解明される代りに、性衝動から説明されたり、人間性の展開とされたり、身辺心理の短篇集になったりする。之ではモラルは人生のうわ澄み[#「うわ澄み」に傍点]みたいなものに過ぎなくなる。事実モラルという文学用語は直接そういうものを思わせるに充分だ。
なぜ文学者が道徳[#「道徳」に傍点]と呼ばずにモラルと呼ぶか、それは宿屋とホテルとの相違に類することでもあるが、併しそれだけではなく、右に云ったようなうわ澄み主義[#「うわ澄み主義」に傍点]がブルジョア文学の身上であることを告白するためだ。なるほど道徳(倫理はまだしも)という日本語で呼ぶと、「道徳」に自信のある連中が忽ち声を聞いて集って来る。その顔触れを見ると、道学者や倫理先生やその手先達だ。而もその手先には案外文学探究者や自称「悪党」さえいるのだが、これはたまらない。そこでモラルということになるのだが、併しモラルと呼ぶと今度は文学至上主義者ばかりが集って来る。そしてその内には案外社
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