会認識に於ける常識屋が多数を占めているのだ。そして夫がみずからは文学的な「非常識」屋だというのだ。
ショーロホフの『開かれた処女地』には、共同農場に於ける小家畜(禽)共有の失敗が詳しく描写されている。勿論之は家畜の話しではなくて主人公の人間的経験の話しである。処がこの間発表されたソヴェート連邦の改正憲法草案には、この小家畜(禽)共有の廃止が、そっくりそのまま出ているので、私は今更この作家の社会主義的リアリティーに感心したのだが、こういう内容[#「内容」に傍点]を生かすものをこそモラルとか道徳とか呼ぶのでなければ、私は到底こうした言葉を信任する気にならないのである。
私が岡邦雄氏と連名で書いた『道徳論』は、モラル乃至道徳という観念をどういうものとして捉えれば、吾々は道徳先生と文学青年との宿命を免れ得るかということを、少し研究して見たわけだった。
三[#「三」はゴシック体]
モラルというのは勿論道徳[#「道徳」に傍点]ということで、別に専門的な(?)術語や何かではない。言葉のフェティシズムに陥らないために、以下道徳という俗間用語でおきかえよう。
さてこの道徳だが、今日の文学で道徳がやかましくいわれるというのは、すでに云ったように、必ずしも文学作品(小説や評論)の中に道徳が沢山出て来るとか来ないとかいうこととは関係がないのである。そうした題材の上での種類別や、又ジャンルやスタイル乃至世界観の上でさえの種類別以前に、文学と道徳との本来的な関係があるのである。
私は文学を実在認識[#「認識」に傍点]の一つの様式とする考えを固執するものだ。と云うのは文学は科学と同じく実在反映の一つの様式以外の何ものでもない、又あってはならない、という持論なのだが、この考え方から行けば文学の根本問題はいつも認識上[#「認識上」に傍点]の論理上[#「論理上」に傍点]の問題に他ならない。「道徳」なるものも文学的認識・文学の論理・の観点から之を規定することによって、初めて理論的にハッキリする筈だと考える。
文学が一つの認識様式であるとか、実在の反映様式の一つであるとか、又それの認識論や論理学めいたものを考えようとか、いうのは、日本に於ける或種の文学専門家のブルジョア文化的通俗観念から云えば、あまり常識的な意見ではないかも知れないが、唯物論に於ける文学理論にとっては殆んど全く常識的
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