ルこそは最近の時代が気にし出し、そして決定を急いでいるカテゴリーなのだ。
 だがこういうことは予め見逃してはならぬ。モラルという言葉で文芸意識や評論が運ばれるようになったのも、実は、単に文芸作品そのものがモラルの分量を殖やしたとかそれを意識的にやり出したとかいう理由からではなくて、文芸意識が全体として(ブルジョア文学さえも)その評論的な触手(アンテナ)をば延ばし始めたということに原因しているのである。文芸が評論的触手を延ばせば、モラルの観念は当然第一級の問題とならねばならぬからだ。
 そしてブルジョア文学(プロレタリア的文学に就いては勿論)のこの評論的触手――文学の思想性[#「思想性」に傍点]とか社会性[#「社会性」に傍点]とか論理[#「論理」に傍点]とか――を或る意味で用意したものは、正に曾ての「プロレタリア文学」とその或る意味での転向[#「転向」に傍点]又転向化[#「転向化」に傍点]とであった。プロレタリア文学の転向(?)によって却てブルジョア文学も亦初めて自分側の思想性・社会性・論理性を誘発された。之が所謂「モラル」の声である。
 だから云わば、このモラルの声の裏に、「プロレタリア文学」とブルジョア文学とが、一応共通な掛声を聞いたのである。だからこそ例えば「文学界」式又「独立作家クラブ」(自由主義作家加入説派をとるとして)式な、混淆の形態も、そこに生じ得たわけである。

   二[#「二」はゴシック体]

 モラルの人気は、左翼文学とブルジョア文学との割合抽象的な一致点が夫だ、という処から発生している。そういう限り、と云うのはこの抽象的な一致点としてのモラルを具体的に選鉱し精錬しないでおく限り、モラルは一種の転向的モチーフになっていることを見落してはならぬ。事実モラルは日本では札つきのブルジョア文芸評論の用語として使われ始めた。
 尤もフランスの人道主義的コンミュニスト達の用語としては必ずしもそうではなかったのだが、併しフランス哲学文芸の伝統としてのモラリスト[#「モラリスト」に傍点]達は(モンテーニュから始まる――モンテーニュは関根秀雄教官のおかげで松本学議員から賞金を拝受した)、多くは時代々々の勤労大衆とは縁のない連中ばかりであった。多くの者は暇であり、気むずかしく、そして寛大であったり辛辣であったりした。
 モンテーニュの『エッセイ』はベーコンの『エッセ
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