をなぜ考えねばならぬのか判らぬ。
 で軽風俗文学におけるモラルといえども決して人民派的な意味でのモラルに止まることは出来ないだろう。モラルの稀薄な風俗物は一寸は面白いようでも、忙しい時には官能を荒廃する娯楽のようなものとして虐用されるものだ。それは不快な習慣に堕ちる。そうなれば頽廃だ。
 普通大衆と呼ばれるもの(この重風俗的? な観念)には事実、観点の規定の上で色々の困難が伴っている。だから人民という言葉は一つの新しい解答を意味してはいるのだ。併し例えば人民戦線には組織と指導的な中核とがあって、それがその政治的モラルを支えている。市井の人民的風俗にも、組織と指導的な中核としてのモラルが必要な筈だ。

   五 モラルと風俗[#この行はゴシック体]

 モラルのハッキリした文学で風俗物にならないものは勿論甚だ多い。寧ろ普通にモラルといえば、風俗的な肉体を持たない作品の内に求められるのを常としたとさえ云ってもいい位いだ。モラルが無雑作に心理か何かのように考えられる所以である。そうしたいわば純粋モラルは大体私小説的なもので、取り合わせが少し変なのを我慢するとすれば、心理的なモラルの例としては伊藤整「性格の層」(『文芸』三六年七月)――これは何か纏りの悪い感じである――や豊島与志雄「坂田の場合」(『文春』同月)、倫理的なモラル(?)では宇野千代のもの、理論的モラル(?)では島木健作のものなどである。片岡鉄兵の「光」(『改造』同月)などもこの最後の場合に数えてよいだろう。
 しかし最後のこのいわば理論的モラルは、心理的モラルや倫理的モラルにくらべて或る独特な条件を持っていることを見逃してはならない。このモラルは一応私小説的なものであるにも拘らず、社会の機構そのものを媒介としているし、またこれを透過しているのだ。科学的(特に社会科学的)な認識が、モラルの認識にまで高められるという、文学の唯物論的認識論(?)の面目を見本のように示すものなのである。島木健作は実際、モラルをそういうものとして理解しているようだし、またそういう風な見地を実行に移しているように思う。この点が彼のプロレタリア的文学者としての模範生の一つの重大な要素になっている。科学的社会認識の文学的形象化ということが。
 併しそれと共にこの理論的モラルの文学が殆んど何等の風俗を持っていないということが、多くの人によって指
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