いだろう。第二にこれは描写の問題として説話体の議論に関係している。軽風俗を市井的モラルの立場から描こうとすれば、懇談的なこの説話体を選ばざるを得なくなる、というようなことも云われている。それから第三にこれは優等生文学と落第生文学というような妙な区別とも関係があるらしい。島木は優等生で平林彪吾は落第生だというのだ。軽風俗文学は落第生文学になるわけだ。妙な比較だが、漱石や小林多喜二は優等生だ。藤村も山本有三もだ。これによると、軽風俗の文学にモラルがあるとしたら、それは理想にではなくて現実自身にあるということになりそうだ。そしてこの理想の側に、思想からイデオロギーから論理からモラルから形象化までもが、押し込まれてしまうらしい。かくて文学は「かくあるもの」のひたすらな描写ということになる。「かくある」ものの楽しさ美しさ真実さの発見、これ以外に作品のモラルもリアリティーもない、ということにもなりそうだ。――併しこれは単にリアリズムのテーゼを反覆するものでしかない。処がこういう結論は例の軽風俗文学の場合から出て来た。それで人民派的文学こそ本当の文学だということになってしまいそうだ。
森山啓は「何のための芸術か」(『中央公論』三六年六月)で、人間も地球も一旦は亡びてしまうというのに、進歩のためとかプロレタリアのためとかの芸術というのはおかしいではないか、現実の事象に一つ一つ喜びを見出すことこそ芸術の目的だろう、という意味のことを書いたが、これに対して中島(健蔵)や阿部知二等が、大体同情の意を現わしているし、彼自身また一二の雑誌でこれを敷衍している。右に述べた処と森山のこの哲学とは、処で密接な関係があるといわざるを得ない。
だが芸術が人類の進歩やプロレタリアの利益のためではなくて、それに代ってよろこばしさや真実のためだ、といったように聞える口吻は、どうも少し変ではないのか。問題はいつも云われている通り、如何に喜び何を真実として受け取るかにあるわけだが、人類文化の進歩やプロレタリアの歴史的使命に対する情熱なしに、今日の吾々の官能に何かの纏まりがつき得るのだろうか。抑々あるべきものとかくあるものとのニヒリズム(即ち理想主義の裏)的な区別が論理的に誤っていると全く同じに、「何のための」芸術かという設問に元来錯誤があるのだ。吾々は文学の必要の直覚をこそ持て、文学の目的(?)のようなもの
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